2話 嫌悪
「ま、といっても教えられることは少ないんだけどね」
猫屋は壁にもたれたまま、あっさりと言った。
空は思わずぽかんとする。
「……は?」
気の抜けた声が、そのまま出た。
さっきまでの流れなら、てっきり猫屋の”感覚”の使い方や、あの圧倒的な戦い方の何かを教えられるのだと思っていた。
それが、教えられることは少ないと言われるとは思わなかった。
猫屋はそんな空の反応を見て、くすりと笑う。
「いや、気持ちは分かるよ? せっかくやる気になってる相手にそれ言う? って感じだよね」
「……そうですね」
「でも、本当なんだよ」
猫屋は軽く肩をすくめた。
「本来、”感覚”ってのは一人につき独自のひとつを極めるものなんだ」
その言葉に、空は少しだけ表情を戻す。
猫屋はそのまま続ける。
「白雪ちゃんなら”氷華”。僕なら”操糸”。基本的には、自分の”感覚”をどう使うか、どう鍛えるか、どう広げるかって話になる」
訓練室の床に散らばった標的の破片を見下ろしながら、猫屋は指先を軽く動かす。
「だから教えられるのも、その”感覚”の中での話が中心なんだよね。出力の上げ方とか、発動の癖とか、間合いの取り方とか」
そこまで言ってから、空の方へ視線を戻す。
「でも、蒼月くんのそれは、ひとつに注力ってわけにはいかない」
空は黙る。
否定はできない。
自分の”感覚”は、氷だけでもなければ糸だけでもない。他の”感覚”も、見て取り込んで使うものだ。
それは便利なのかもしれない。
だが同時に、何をどう鍛えればいいのか、自分でもまだよく分かっていない。
猫屋は空の沈黙を見ながら、少しだけ声を落とした。
「だから、まず蒼月くんがやらなきゃいけないことは、”感覚”に慣れることだ」
「……慣れる」
「うん」
猫屋は頷く。
「出せるようになること。迷わず使えるようになること。考えるより先に、身体に馴染ませること」
その言い方は軽いのに、内容だけが重かった。
空は自然と、合宿所でのことを思い出す。
星馬たちが追い詰められていた時。
自分は真っ先に異形へ飛び込み、殴り飛ばした。
けれどそれでは終わらなかった。終わらせられなかった。
猫屋はその記憶をなぞるみたいに言う。
「合宿所の時も、まず異形を殴りつけてたでしょ」
「……はい」
「もちろん、あれは咄嗟だったし、間違いってわけじゃないよ。実際、あれで時間は稼げたしね」
猫屋はそこで一拍置いた。
「でも、ああいう時に最初から”感覚”が出ないといけない」
空は口を開きかけて、閉じる。
反論はできない。
あの時、自分はただ手が先に出ただけだった。相手が分身体だったからまだよかった。もし本物で、もし猫屋がいなかったら、あれでは足りなかった。
猫屋はいつもの調子のまま、でも少しだけ鋭く言葉を重ねる。
「殴ってから、じゃ遅いことがある」
「……」
「触る前に出る。踏み込む前に準備が終わってる。それくらいじゃないと、実戦だと間に合わない場面が出てくる」
空は無意識に拳を握った。
猫屋の言っていることは分かる。
分かるからこそ、余計に悔しかった。
結局、自分はまだ”感覚”を使う側の人間として未熟なのだ。
模倣できるとか、珍しいとか、そういう話ではない。もっと手前の、使うか使えないかの段階で引っかかっている。
猫屋はそんな空を見て、少しだけ目を細める。
「蒼月くんは今、”感覚”を自分の力だと思ってないんだよね」
空の眉が動いた。
「……自分の、力」
「うん。借り物みたいに扱ってる」
猫屋は自分の手を軽く持ち上げた。
「必要な時に引っ張り出して、使い終わったら切り離す。たぶん蒼月くんの中では、まだそういう感覚なんだと思う」
「……」
「だから一拍遅れる。出すかどうか、どこかでまだ迷う」
図星だった。
空は何も返せない。
猫屋は壁から身体を離し、訓練室の中央へゆっくり歩く。
「白雪ちゃんは、氷を出そうとして氷を借りてるわけじゃない」
「……」
「僕だってそうだよ。自分の中にあるものを、そのまま出してる」
そこで振り返る。
「でも蒼月くんは違う。たぶん無意識に、“これは本当は自分のものじゃない”って思ってる」
空の喉がわずかに詰まる。
それは、嫌になるほど正しかった。
自分の”感覚”を好きになれない。
それは単に痛いからでも、不安定だからでもない。
もっと根っこのところで、受け入れられていない。
「……嫌いなんです」
猫屋は急かさなかった。
ただ続きを待つみたいに、静かに立っている。
空は視線を逸らしたまま、低く言った。
「この力は、俺と妹を捨てた父親と酷く似ている」
訓練室の空気が、わずかに張る。
空は構わず続けた。
「”感覚”を使う度に、自分と父親が同じ存在になるんじゃないかって思うんです」
「……」
「自分の力だって認めるのが嫌なんです。こんなものまで同じだって思いたくない」
拳を握る。
胸の奥がじわじわと熱を持つ。
父親の顔は、もう細部までは思い出せない。
けれど、去っていった背中の嫌な感触だけは残っている。
海未と自分を置いていった男。
その男の持っていた”感覚”と、自分の力が似ている。
それがずっと、喉に刺さった骨みたいに残っていた。
「だから借り物みたいに扱ってるのかもしれません」
「……」
「自分のものだって思ったら、あいつと同じになる気がして」
言い切ってから、空は小さく息を吐いた。
こんなことを話すつもりはなかった。
でも、一度口にしてしまえば意外なほどあっさり出てきた。
猫屋はしばらく黙っていた。
それから、いつもの軽い調子を少しだけ落として言う。
「そっか」
短い一言だった。
けれど、変に慰める感じはなかった。
「まあ、嫌いなものをいきなり好きになれとは言わないよ」
「……」
「むしろ無理でしょ。そういうの」
空は黙ったまま聞いていた。
猫屋は肩をすくめる。
「でもさ。嫌いでも、似てると思ってても、結局蒼月くんは使うんだよね」
「……使わなきゃ守れないから」
「うん。そうだね」
猫屋の視線が、真っ直ぐに空へ向く。
「だったら最初の目標は、“好きになること”じゃなくていい」
「……」
「“自分のものとして扱えるようになること”で十分だよ」
空は少しだけ顔を上げる。
猫屋は続ける。
「好きじゃなくてもいい。納得しきれなくてもいい。でも、実戦で出す時だけは、自分の手足と同じように扱えないと困る」
「……」
「蒼月くんの”感覚”はたぶん、そこから先が長いんだろうね。受け入れるとか、割り切るとか、その辺は後」
それは、思っていたよりずっと現実的な言葉だった。
励ましではない。
綺麗事でもない。
ただ、前へ進むために必要な順番を言われた気がした。
「だから、今やることは変わらないよ」
猫屋は指を一本立てる。
「”感覚”に慣れること」
「……自分の力だと思えなくても?」
「うん。むしろ思えないからこそ、身体に先に覚えさせる」
猫屋はにこりと笑う。
「頭が納得する前に、身体の方を慣らしちゃうの」
「無茶苦茶ですね」
「そう? でも蒼月くん、たぶんそっちの方が向いてるよ」
空は少しだけ目を細める。
否定は、しなかった。
たしかに今の自分は、考えれば考えるほど止まる。
だったら先に動けるようにする、という理屈は分からなくもない。
猫屋は壁際へ寄りかかり直す。
「で、せっかくだし少し付き合おうか」
「……何にです」
「だから、”感覚”に慣れる訓練」
猫屋は崩れた標的の残骸を見て、それから空へ笑いかけた。
「今度は“上手く使う”じゃなくて、“自分のものみたいに迷わず出す”のを意識してみなよ」
空は標的を見る。
この力は嫌いだ。
たぶん、すぐには変わらない。
それでも、使わなければ届かない。
海未に。
そして、自分が守りたいと思ったもの全部に。
空は静かに息を吸った。
「……やります」
猫屋は満足そうに頷く。
「よろしい」
訓練室の空気はまだ熱を残していた。
崩れた標的の欠片が床に散らばる中、空は改めて前を向いた。
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