1話 強さ
合宿所の事件を終えてから、空は訓練室へ通う頻度が増えていた。
広い室内には、鈍い衝撃音だけが繰り返し響いている。
壁際に並ぶ訓練用の標的。その一つへ向かって、空は何度目か分からない拳を叩き込んだ。
重い音が鳴る。
だが、納得はいかない。
空は一歩下がり、荒くなった呼吸を整える。
額には汗が浮いていた。制服ではなく訓練着姿の身体は、もうとっくに熱を持っている。
合宿所で見たものが、まだ頭の奥に残っていた。
高位種
異形の”感覚”で空間そのものを切り離し、分身体をいくらでも生み出す怪物。
猫屋がいたからどうにかなった。
自分はその間、十体の分身体を相手にしていたに過ぎない。
それでも、もし。
海未の症状が異形の”感覚”によるものだとしたら。
その原因に辿り着く時、自分はまた、あれと同等か、それ以上の異形を相手にすることになるのかもしれない。
そう思うと、立ち止まっている暇はなかった。
空は小さく息を吐く。
胸の奥が、じわりと疼く。
“模倣”を使った後に残るあの嫌な熱だ。切り傷の跡を指でなぞられるような、内側からの鈍い痛み。
それでも視線は標的から逸らさない。
「”模倣”」
低く呟く。
胸の内側が軋む。
空はそのまま拳を握り込んだ。
「”操糸”」
手を大きく振るう。
次の瞬間、糸が走る。
訓練用の標的が真ん中から裂け、鈍い音を立てて崩れた。
空はそのまま動きを止める。
成功はした。
だが、まだ遅い。まだ甘い。糸を放つまでの間も、斬る軌道も、何もかもが足りていない気がした。
ショッピングモールで暴発するように使った時とも違う。
合宿所で十体相手に振るった時とも違う。
今こうして意識して使うほどに、自分の未熟さだけがはっきりしていく。
「……」
空は崩れた標的を見下ろす。
もっと上手く使えなければならない。
もっと早く。
もっと正確に。
そうでなければ、次は守れない。
「感心、感心。頑張ってるね」
不意に、背後から気の抜けた声がした。
空が振り向く。
そこには、いつの間にか猫屋が立っていた。
壁際にもたれるようにして、いつもの軽い笑みを浮かべている。まるで最初からそこにいたみたいな顔だった。
「……猫屋さん」
「うん、猫屋さんだよ」
猫屋は訓練室の中へふらりと入ってくる。
崩れた標的を見て、それから空の顔を見た。
「いいじゃん。やる気があるようで何より」
「そうですか」
「うん。まだ荒いけどね」
あっさり言われて、空は小さく眉を寄せた。
褒めたいのか刺したいのか分からない。
猫屋はそんな反応も気にせず、少し首を傾ける。
「どう?」
「何がですか」
「僕の”感覚”」
にこりと笑う。
「使えそう?」
空の思考が、一瞬止まった。
「……っ」
言葉が出ない。
猫屋は変わらない笑みのまま、空を見ている。
それで全部分かった。
気づいていたのだ。
合宿所の時も、その前からも。
自分が”模倣”で他人の”感覚”を使っていることを。
「……気づいてたんですか」
ようやく絞り出した声は、思ったより低かった。
猫屋は肩をすくめる。
「そりゃね」
軽い口調だった。
「ショッピングモールの時から、ただの氷を扱う”感覚”じゃないってのは思ってたよ」
空は黙る。
驚きよりも、妙な納得の方が先にあった。
この人なら気づいていてもおかしくない。むしろ、気づかれていないと思っていた自分の方が甘かったのかもしれない。
猫屋は訓練用の標的に近づき、裂けた断面を軽く見る。
「再現はわりと上手い方だよ」
「……再現、ですか」
猫屋は振り返る。
「まんまコピーってわけじゃないんだろうけどね。見た”感覚”を、自分の中で再構築して使ってる感じかな」
空は無意識に拳を握る。
見透かされるのは、あまり好きじゃない。
だが、否定できる材料もなかった。
猫屋はそんな空の内心を知ってか知らずか、あっさりと続ける。
「珍しいよ。かなり」
「……嬉しくはないです」
「だろうね」
そこは即答だった。
空は少しだけ目を細める。
その返しがあまりにも自然で、逆に言葉が続かなかった。
猫屋は笑う。
「好きで使ってる感じじゃないもんね、蒼月くん」
「……」
「でも、使わなきゃ届かないってことも分かってる」
その言葉に、空はわずかに視線を落とした。
海未の顔が浮かぶ。
病室。細い手。苦しそうなのに笑う姿。
もしあれが異形の”感覚”によるものだとしたら、今度こそ自分はこの力を嫌っているだけでは終われない。
猫屋は空の沈黙を見て、少しだけ真面目な目をした。
「ま、安心して。言いふらして回るつもりはないよ」
「……そうですか」
「うん。まだ今は、その方が面倒少なそうだし」
猫屋らしい言い方だった。
それから、ふと思い出したように付け足す。
「ただ、使うならちゃんと理解した方がいい」
「理解?」
「その手の”感覚”って、便利なようで危ないから」
猫屋は自分の指先を見ながら言う。
「他人の”感覚”を借りるってことは、その分だけ自分の形が曖昧になるってことでもある。無理に引っ張れば、反動もでかい」
空は胸の奥の鈍い熱を思い出す。
胸の奥が疼く、あの感覚。
ただ疲れるだけではない、もっと嫌なもの。
「……やっぱり、分かるんですね」
「少しはね」
猫屋は軽く笑った。
「蒼月くん、顔に出やすいし」
「出してるつもりはないです」
「うん。でも出てる」
ひどい話だった。
空は小さく息を吐く。
さっきまで一人で詰めていた空気が、少しだけ緩む。
猫屋は壁際へ寄りかかる。
「で」
にこりと笑う。
「せっかくだし、少し付き合おうか」
「……何にです」
「”感覚”の使い方」
空が顔を上げる。
猫屋はいつもの軽さのまま、人差し指を立てた。
「どうせ気になってるんでしょ。合宿所の時のこと」
図星だった。
高位種の空間を切り裂いた“切界”。
異形を瞬時に断ち切った“爪乱”。
そして、自分が十体の分身体を相手にしている間に本体を討伐して戻ってきた、その圧倒的な差。
見たくなかったと言えば嘘になる。
使いたくないと嫌いながら、それでも届きたくて見てしまう。
空は数秒だけ黙って、それから短く答えた。
「……気になります」
猫屋は満足そうに笑った。
「よろしい」
その笑い方を見ながら、空は胸の奥の熱を意識する。
嫌いだ。
この”感覚”は、きっとこれからも好きにはなれない。
それでも。
先へ進むためには、知らなければならない。
届くためには、使えるようにならなければならない。
訓練室の空気はまだ熱を残していた。
崩れた標的の欠片が床に散らばる中、空は改めて猫屋の方へ向き直った。
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