8話 衝撃
暗い道をしばらく進んだところで、猫屋がふと足を止めた。
その視線の先、地面に何かが落ちている。
近づいてみると、それは一台のスマートフォンだった。
画面側を上にして転がっている。大きな傷はない。ついさっき落としたような、妙に生々しい置き方だった。
猫屋がそれを拾い上げる。
「んー?」
軽く画面を傾けたその手元を見た瞬間、空の足が止まった。
見覚えがある。
黒いケース。
角の擦れた跡。
画面の端に貼られた、小さなサッカーボールのステッカー。
どこで見たのか、考えるより先に記憶が浮かぶ。
――でも蒼月の連絡先は欲しいな。蒼月も俺の連絡先欲しくてたまらないだろ?
「夜長の……!」
思わず声が漏れた。
猫屋がちらりと空を見る。
「友達の?」
空はすぐには返せない。
喉の奥がひりつくみたいに強張る。ここまで来て、ようやく合宿の話が現実に繋がった気がした。
「……はい」
短く答えると、猫屋は手の中の端末を見下ろしたまま言った。
「大丈夫、大丈夫。スリープモードになってない。ついさっき落としたんじゃないかな」
その声音はいつもの軽さのままだった。
けれど、妙にそれが落ち着いた。
少なくとも、だいぶ前から放置されていたわけではない。
そう思えただけで、空の呼吸が少しだけ戻る。
その時だった。
鈍い音が響く。
何か大きなものを壁に叩きつけたみたいな、重い衝撃音。
空と猫屋の視線が同時に上がる。
続けて、かすかな悲鳴のようなものも聞こえた。
「……っ!」
空が反射的に音の方を向く。
猫屋も一瞬で表情を変えた。
「行こうか」
その言葉を聞くより早く、空は駆け出していた。
木々の隙間を抜ける。
暗い道を曲がった先、少し開けた場所に建物の影が見えた。合宿所の裏手らしい。倉庫か、物置のような低い壁際に、数人の人影が追い詰められている。
その前に立つ一人の姿を見た瞬間、空の目が見開かれた。
「夜長!」
星馬がいた。
壁際へ他の部員たちを庇うように立ち、両手を広げていた。
その前面には、半球状の光の膜が張られている。
“護円”。
星馬の”感覚”だ。
だが、その表面にはいくつもの亀裂が走っていた。
異形が何度も体当たりを繰り返し、そのたびに膜が歪み、軋むような音を立てる。星馬の顔は強張り、歯を食いしばっているのがここからでも分かった。
「あ、蒼月……?!」
星馬の声が裏返る。
驚いている。
こんな場所で、こんなタイミングで、自分の名を呼ぶ相手が現れるとは思っていなかったのだろう。
けれど空は答えなかった。
目の前の異形が、次の一撃に入ろうとしていたからだ。
空は地面を蹴る。
一気に距離を詰め、そのまま異形の横合いへ拳を叩き込んだ。
鈍い衝撃。
白い身体が吹き飛ぶ。
壁際から引き剥がされるように、異形は地面を転がって離れた。
星馬の”護円”が、ぎりぎりのところで持ちこたえる。
「……っ、間に合った」
誰の声か、自分でも分からなかった。
異形が起き上がろうとする。
吹き飛ばしただけでは足りない。
分かっていた。けれど咄嗟に出たのは、ただの打撃だった。
その瞬間、猫屋の指先がわずかに動く。
「――」
見えない。
ただ、次の瞬間には異形の身体が細かくずれていた。
腕が落ちる。
脚が裂ける。
胴が、滑るように崩れる。
細切れになった白い肉塊が地面へ散らばった。
空はその光景を見ながら、さっき自分がやったことを思い返す。
殴り飛ばしただけだ。それでは終わらない。終わっていない。
猫屋が隣まで来て、軽く言う。
「蒼月くん、異形はね。”感覚”じゃないと殺せないんだ」
責めるような口調ではなかった。
事実をそのまま置くみたいな言い方だった。
空は小さく息を呑む。
「……はい」
拳を握る。
分かっていたつもりだった。だが、咄嗟に”感覚”を出せなかった。
猫屋はそれ以上そこを突かず、すぐに壁際の生徒たちへ向き直った。
「はい、ひとまず大丈夫」
軽い調子で言って、片手を上げる。
「VECの猫屋だよ。こっちは僕の部下の蒼月くん、って言っても顔見知りなんだよね?」
部員たちの視線が一斉に空へ集まる。
驚き。
困惑。
安堵。
その全部が入り混じったような顔だった。
星馬は”護円”を解き、力が抜けたように肩を落としながら、それでも目だけは空に向いたままだった。
「蒼月、お前……なんでここに」
息の乱れた声だった。
「あとで話す」
空が短く返すと、星馬は一瞬だけ目を見開き、それから苦笑した。
緊張の切れた顔だった。
猫屋はそのやり取りを横目に見ながら、すぐに本題へ入る。
「じゃ、早速だけど今わかってること教えて貰っていい?」
軽い声音のままなのに、不思議と逆らいにくい。
部員たちの間に、まだ混乱は残っている。
けれど、少なくともさっきまでみたいな切迫した空気ではなくなっていた。
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