7話 糸
現場へ着いた時、空はほんの一瞬だけ肩透かしを食らったような気分になった。
山間の空気は冷たく、空はまだ明るい。
林道の先には合宿所へ続く道があり、その周囲にも特別おかしなところは見当たらない。地面が抉れているわけでも、木々が薙ぎ倒されているわけでもない。異形の気配が濃く漂っている感じもない。
ただ、静かだった。
それが不自然なくらいに。
「……ほんとにここなんですか」
空が低く言うと、猫屋は端末を確認しながら頷いた。
「うん。座標はぴったり」
そのまま前を向く。
「行ってみよっか」
二人は林道を進み始める。
合宿所へ向かうだけなら、そこまで複雑な道ではないはずだった。
だが、しばらく歩いても、景色が妙に変わらない。
最初は気のせいかと思った。
山道なんてどこも似たようなものだ。木立が並び、土の道が続き、ところどころに案内板や柵がある。見慣れていなければ、同じように見えてもおかしくはない。
けれど。
空は足を止める。
「……猫屋隊長」
「うん?」
「さっき、この曲がり方しませんでしたか」
猫屋も立ち止まり、周囲を見回す。
道の脇に立つ古びた案内板。
少し曲がった柵。
その近くに生えた、幹の割れた木。
確かに、見覚えがある。
「したねえ」
猫屋はあっさり言った。
空の背筋にじわりと嫌なものが走る。
「……戻ってるんですか」
「戻ってるっていうか、進めてないんだろうね」
猫屋はそう言って、前方へ目を細めた。
「見た目は普通。でも、実際には同じ場所をぐるぐるまわってる感じかな」
空は黙って辺りを見渡す。
やはり異変らしい異変はない。空も、木々も、道も、昼の山のままだ。
なのに、進んでいない。
その事実だけが、言いようのない不気味さを帯びていた。
「これが……“干渉できない”ってことですか」
「たぶんね」
猫屋は軽く肩をすくめる。
「外から見てるだけだと分かりにくいけど、中に入ると余計気持ち悪いタイプのやつ」
そう言って、猫屋は一歩前へ出た。
「ま、確認できたなら早い方がいいか」
空が顔を上げる。
猫屋の雰囲気が少しだけ変わっていた。
軽さが消えたわけではない。けれど、今までの飄々とした空気の奥に、別のものがすっと通る。
猫屋が右手を軽く上げる。
「”操糸”」
その瞬間、空気が張る。
ぞくり、とした。
何が起きたのか一瞬では分からない。
ただ、目の前の空間に何か見えないものが走った、そんな感覚だけがあった。
猫屋の口元がわずかに動く。
「切界」
次の瞬間。
前方の景色が、裂けた。
布を刃で断つみたいに。
いや、もっと乾いた感触で、目の前の空間そのものに一本の断線が走る。
木立も、空も、道も、そのままの形でありながら、真ん中からずれていく。
裂け目の向こうは暗かった。
ついさっきまで昼だったはずなのに、そこだけ夜みたいに沈んでいる。
空は思わず息を止める。
猫屋はそんな空の反応を気にした様子もなく、肩越しに軽く言った。
「行くよ」
そのまま、何のためらいもなく裂け目へ踏み込む。
空も一瞬遅れて、その背を追った。
境界をくぐった瞬間、空気が変わる。
重い。
温度が下がったわけではない。
けれど、肌に触れる空気だけが妙に冷たく、淀んでいる。外はまだ昼だったはずなのに、視界は一気に暗くなっていた。
夜のようだった。
木々の輪郭はある。地面も道も続いている。だが、空だけが不自然に沈んでいる。光が薄く、遠くまで見通せない。
空は無意識に肩へ力を入れた。
「……っ」
その時だった。
左右の茂みが、一斉に揺れる。
白い影が飛び出した。
一体じゃない。
二体、三体、四体――裂け目から侵入してきた二人を待ち構えていたみたいに、異形がまとめて襲いかかってくる。
空は反射的に身構えた。
速い。
数が多い。
距離が近い。
そう思った瞬間にはもう、猫屋の指先がわずかに動いていた。
「爪乱」
何が起きたのか、最初は理解できなかった。
見えない。
ただ、異形の身体が次々とずれる。
四肢が裂け、胴が断たれ、白い影が宙でばらばらになる。
一瞬だった。
本当に、一瞬だった。
飛びかかってきた異形たちは、空が何かする間もなく地面へ崩れ落ちる。
遅れて、切断された断面がずるりと滑るように落ちた。
空は息をするのも忘れたまま、その光景を見ていた。
さっきまで確かに脅威だったはずのものが、脅威として成立する前に消えている。
自分は身構えただけだ。
一歩も動けていない。
守られた。
その事実が、ひどくはっきり胸に落ちる。
「……」
声が出ない。
猫屋はそんな空を振り返り、特に何でもないことみたいに言った。
「ほら、行くよ」
その口調がいつも通りすぎて、逆に現実味が薄れる。
けれど、今目の前で起きたことだけは現実だった。
自分が構えるより早く、この人は全部終わらせた。
空は小さく奥歯を噛む。
守られてしまった。
自分の身は自分で守ると言ったくせに、最初の一瞬でこれだ。
それでも、立ち止まっているわけにはいかなかった。
「……はい」
短く返し、空は気持ちを切り替えるように息を吐く。
ここはもう、自分の知っている戦場じゃない。
そのことだけは嫌でも分かった。
だからこそ、せめて足を引っ張らないようにしなければならない。
空は表情を引き締め、先を行く猫屋の背を追って暗い道の奥へ進んだ。
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