エピローグ
総監室に差し込む夕方の光は、白い壁と床を淡く染めていた。
大きな窓の向こうでは、空がゆるやかに色を変え始めている。昼の張りつめた空気がまだ残っているはずなのに、この時間の総監室だけはどこか静かだった。
机の向こうに座る黒鉄 一は、書類から目を上げる。
その前で、猫屋は気楽な顔のまま立っていた。
「それで」
黒鉄が低く口を開く。
「蒼月空はどうだった」
単刀直入だった。
猫屋は小さく肩をすくめる。
「どうだった、ねえ」
少しだけ視線を窓の外へ逃がしてから、気の抜けた調子で続けた。
「思ったよりずっと面倒くさい」
黒鉄の眉がわずかに動く。
「感想を聞いているんじゃない」
「分かってるって」
猫屋は苦笑する。
「でも、まずそこなんだよ。面倒くさいくらい拗れてる。力を持ってるくせに、それを使う自分をまるごと嫌ってる」
黒鉄は黙って聞いている。
猫屋も、今度は軽口だけでは流さなかった。
「功刀をぶつけたのは正解だったよ。ああいう真っ直ぐな否定は、今のあの子には必要だ」
「で」
黒鉄の短い言葉に猫屋も答える。
「最後には、自分から一歩出たよ」
黒鉄の目が、ほんのわずかに細くなる。
「“模倣”か」
「ああ」
猫屋は頷いた。
「出しかけた。ちゃんと、自分の意志で」
「止めたけどね」と軽く言う猫屋に反して、総監室の空気がわずかに重くなる。
黒鉄はしばらく何も言わなかった。
猫屋はその沈黙の意味を知っている顔で、小さく息を吐く。
「そんな怖い顔しないでよ」
「していない」
「してるよ」
猫屋は肩をすくめる。
「でも、まあ、気持ちは分かる。あの力は軽くない。あの子自身が一番それを嫌ってるしね」
黒鉄は低く問う。
「使えるようになると思うか」
猫屋は即答しなかった。
少し考えてから、曖昧に笑う。
「どうだろうね。でも、使えるかどうかより先に、使う自分を認められるかどうかじゃない?」
「同じことだ」
「少し違うよ」
猫屋の声が、珍しく真面目だった。
「力は出せる。たぶん、あの子はもう出せるところまで来てる。でも、あれを“自分の力だ”って受け入れるのは別の話だ」
黒鉄は視線を逸らさない。
猫屋もまた、逃げずに続ける。
「それでも今日、自分でVECに来て、自分で功刀の前に立って、自分で最後の一歩を踏み出した。そこはでかいよ」
黒鉄は短く息を吐く。
わずかな沈黙。
やがて黒鉄が低く言う。
「お前は、あの子をどうするつもりだ」
猫屋はその問いに、すぐには答えなかった。
窓の外へ視線を向ける。
夕焼けはさらに濃くなり、部屋の中に長い影を落としている。
「どうする、ってほどのことはしないよ」
ようやく返した声は、いつもの軽さを取り戻していた。
「見てるだけ。必要なら背中を押すし、まずい時は止める。それくらい」
「甘いな」
黒鉄の言葉は容赦がない。
猫屋は苦笑する。
「そうかもね」
否定はしなかった。
「でも、あの子に必要なのは、間違えた僕の答えをなぞることじゃない」
その声音だけが、少し静かだった。
「自分で選ぶことだよ」
黒鉄は何も言わない。
猫屋はそこで、ポケットに手を入れたまま踵を返す。
「どこに行く」
背中に黒鉄の声が落ちる。
猫屋は振り返らずに答えた。
「デート」
総監室に、短い沈黙が落ちる。
「俺にとっていちばん外せない予定」
猫屋は肩越しにほんの少しだけ笑う。
それだけ言い残して、猫屋は総監室を出ていく。
扉が閉まる音が、静かな部屋に小さく響いた。
その先にある行き先を、黒鉄はあえて口にはしなかった。
◇
夕暮れの墓地は、昼間よりずっと静かだった。
風が吹くたび、木々がかすかに揺れる。並んだ墓石の一つの前で、猫屋は足を止めた。
花立てには、まだ新しい花が供えられている。
「――やあ、葵」
軽い調子でそう言って、猫屋は墓石を見下ろした。
「空、とうとうこっちに来たよ」
返事があるはずもない。
それでも猫屋は気にした様子もなく、いつもの調子で続ける。
「いやあ、思ったよりずっと頑固だった。まあ、そのへんは誰に似たのかって話だけど」
小さく笑う。
けれど、その目は笑っていなかった。
「まだ迷ってる。割り切れてもいないし、覚悟だって完成には程遠い」
風が、墓前の花弁をわずかに揺らす。
猫屋は少しだけ目を細めた。
「でも、踏み出したよ」
その一言だけは、さっきまでより静かだった。
「自分で選んで、自分で来た」
それは、今の空にとってきっと一番大きい。
誰かに押されたからでも、流されたからでもない。迷いながらでも、自分で足を出した。
猫屋はポケットに手を入れたまま、空を見上げる。
「……正直、ここから先は簡単じゃない」
独り言みたいな声音だった。
「君の力も、あいつのことも、何もかもがあの子には重すぎる」
そこで一度、言葉を切る。
墓石へ視線を戻す。
「それでも、ようやく始まったよ」
風が吹く。
猫屋のアッシュグレーの髪が、わずかに揺れた。
「遅いって笑うかもしれないけどさ」
苦笑するように、少しだけ肩をすくめる。
「俺は、悪くない一歩だったと思ってる」
しばらくの沈黙。
猫屋はやがて、墓前に向かって小さく息を吐いた。
「……見ててあげてよ、葵」
その言い方は軽いのに、どこか願いに近かった。
「今度こそ、あの子がちゃんと自分で選べるように」
猫屋は最後に一度だけ墓石を見て、それから踵を返す。
去り際、振り返らないままぽつりと零した。
「ま、君の息子なら大丈夫……だといいんだけどね」
夕暮れの墓地に、彼の足音だけが遠ざかっていった。




