10話 功刀
案内されたのは、訓練区画のさらに奥にある広い演習場だった。
「模擬戦演習場」と壁面の表示には出ていたが、空には訓練場というより半ば実戦用の空間に見えた。
床も壁も、ただ頑丈なだけではない。衝撃を逃がすための溝や補強材が走り、“感覚”の行使を前提に設計されているのが一目で分かる。天井は高く、照明は白く均一で、余計な影をほとんど落とさない。
VEC隊員としての制服に袖を通した空が演習場の中央を見据えて立つ。
美景は空の少し後ろに立ち、猫屋はいつものように気楽な顔で壁際へ寄る。
功刀は、すでに演習場の中央にいた。
「ルールは簡単」
猫屋が軽く手を叩く。
「実戦形式。ただし殺したり、大けがをさせないこと。どっちかが戦闘続行不能って判断した時点で終わり」
「判断するのは誰ですか」
空が問うと、猫屋は自分を指差した。
「僕」
まったく信用できない、と言いかけて空は飲み込んだ。
今さらそんなことを口にしても仕方がない。
功刀はそんなやり取りには興味もないらしく、ただ空を見ていた。
「一つ確認しておく」
低い声だった。
「俺は手加減するつもりはない」
歓迎の言葉ではない。
値踏みでもない。
最初から、試すつもりなのだと分かる声だった。
空は短く息を吐く。
「……そうですか」
「怖気づいたなら今のうちだ」
「別に」
空は視線を逸らさない。
「もう来てるんで」
功刀の目が、ほんの少しだけ細くなった。
その瞬間、猫屋が軽く手を上げる。
「じゃ、始め」
合図はあまりにも軽かった。
けれど、次の瞬間には空気が変わっていた。
功刀が踏み込む。
速い、と思った時にはもう目の前にいた。
「――”斬体”」
低く落ちた一言と同時に、功刀の腕が走る。
空は反射的に身を捻る。
だが避けきれない。
肩口を掠めるように腕が通った、その直後、制服が裂けた。
「っ……!」
一拍遅れて、皮膚が開く。
浅い。だが確かに切れている。
空は数歩下がる。
功刀は追ってこない。ただ、間合いを測るように立っていた。
「今のは避けるか」
感心でも称賛でもない、ただの確認だった。
空は歯を食いしばる。
見えなかった。
拳でも掌でもない。ただ、掠めた。それだけで切れた。
猫屋が壁際から楽しそうに眺めているのが見えた。
「蒼月くん、ぼーっとしてるとすぐ終わるよ」
空は答えない。
その直後、功刀が再び動いた。
今度は真正面。
一歩、二歩で間合いを詰める。
空は咄嗟に腕で受けようとして――直前で危うく止めた。
嫌な予感がしたからだ。
身体を引く。
だが功刀の手刀が制服の前を走った瞬間、胸元に鋭い痛みが弾けた。
「っ、ぐ……!」
触れていない。
少なくとも、まともには。
それでも布が裂け、皮膚に細い赤線が走る。
空はさらに後退する。
呼吸が乱れる。
功刀は淡々としていた。
「考える暇くらいはやる」
その言い方が、余計に神経を逆撫でする。
空は演習場の床を蹴って横へ回る。
距離を取る。
功刀も正面を向き直る。
隙がない。
構えらしい構えすら曖昧なのに、近づいた瞬間終わるという確信だけがある。
もう一度来る。
そう思った瞬間、功刀の姿がぶれた。
左。
読んだはずの位置にいない。
逆だ。
気づいた時には脇腹に熱い線が走っていた。
「ッ……!」
空が体勢を崩しながら距離を取る。
制服の脇が裂け、浅くない傷が滲んでいる。
見えているのに、追いつかない。
一撃一撃は致命傷ではない。
だが、確実に削られていく。
空は息を整えようとする。
功刀はまた追ってこない。
「どうした」
低い声が響く。
「その程度か」
空は何も言わない。
返す余裕がない。
観察する。
功刀の動き。間合い。傷の入り方。
殴られているわけじゃない。
切られている。
だが、刃物を持っているわけでもない。
なら、“感覚”だ。
接触した部位が切断に変換される類。
空の脳裏に、昨日黒鉄の前で見せられた猫屋の糸がよぎる。
知らなければただ圧倒されるだけだが、仕組みが見えれば話は違う。
とはいえ、分かったところでどうする。
近距離は不利。
触れられた時点で切られる。
功刀の“感覚”は、たぶん接触がそのまま斬撃になる。
拳も、蹴りも、掠りも、全部が刃だ。
空がわずかに目を細めたのを、功刀は見逃さなかったらしい。
「何か分かった顔だな」
「……あんたの“感覚”」
空は浅く息を吐く。
「接触したものを切る類か」
功刀の口元が、ほんのわずかに動く。
肯定に近い沈黙だった。
「それが分かったところで、何か変わるのか」
そう言うと同時に、功刀がまた踏み込んだ。
速い。
だが、今度はさっきまでより少しだけ見える。
空は真正面から受けず、最小限で身を引く。
頬に浅い切り傷。
避けきれてはいない。
それでも、最初よりはましだった。
功刀の連撃が続く。
腕。肘。膝。どれも鋭い。
打撃ではなく、すべてが刃として飛んでくる。
空は防がない。
防げば切断が深くなる。
ぎりぎりで外し続ける。
制服は裂け、肌には傷が増える。
頬。肩。腕。脚。
浅い傷が、じわじわと体力を奪っていく。
美景が後ろで息を呑む気配がした。
「功刀さん……」
だが止めない。
猫屋も止めない。
演習場には、布が裂ける音と靴底の擦れる音だけが響く。
空は歯を食いしばった。
強い。
単純な出力だけじゃない。経験が違う。
戦い慣れている。
“感覚”の使い方を身体に染み込ませている。
空とは、根本から違う。
功刀が一歩退き、わずかに顎を上げた。
「それで終わりか」
空は何も言わない。
呼吸を荒げたまま、立っている。
功刀の視線は冷たかった。
「……妙だな」
その言葉に、空の眉がわずかに動く。
功刀は空を見据えたまま続ける。
「おまえ、“感覚”を使わずに勝つ気か?」
美景がわずかに目を見開く。
猫屋は壁際で小さく笑った。
「そうみたいだね」
功刀の声音には、呆れと苛立ちが混じっていた。
「ふざけているのか」
空は何も答えない。
功刀はそれを肯定と受け取ったのか、さらに低く言う。
「お前の覚悟は軽い」
静かな声だった。
だが、その分だけ深く刺さる。
「何も守れやしないくせに、首だけは突っ込む」
空の呼吸が、わずかに止まる。
「白雪の時もそうだ」
目の奥が、冷たくなる。
功刀の声は変わらない。
一歩、功刀が踏み込む。
「守る力もない。守り切る覚悟も足りない。それなのに、いざという時だけ前に出る」
さらに一歩。
「そういう半端な人間が一番質が悪い」
その言葉が、胸の奥の一番触れられたくない場所を抉る。
空に反論はできなかった。
ショッピングモールで、美景を助けたのは確かに自分だ。
何もしないまま終わったわけじゃない。
あの時だけは、一歩踏み込んで、実際に手を伸ばした。
けれど――だから何だ、とも思う。
一度守れたからといって、自分の在り方が肯定されるわけじゃない。
結局あの時も、美景を一人取り残し戦わせた現実は消えない。
守れた事実と、半端だった事実が、空の中では同時に並んでいた。
功刀はさらに低く言う。
「戦うつもりがないなら、最初から戦場に来るな」
その一言で、空の中で何かが切り替わった。
頭に血が上る、というより、逆だった。
妙に冷える。
視界の輪郭だけが鋭くなる。
功刀の言葉を、全部否定はできない。
それが余計に腹立たしかった。
守れたことがあったとしても、それで胸を張れない自分がいる。
首を突っ込んで、そのたびに迷って、結局誰かに背負わせる。
そんな半端さを、自分自身が一番よく知っている。
だからこそ、他人に言われると、どうしようもなく腹の奥が熱くなった。




