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9話 決断

翌朝、空はいつも通りの時間に教室へ入った。


ざわめきの混じる朝の空気。椅子を引く音、誰かの笑い声、開け放たれた窓から入る風。どこまでも変わらない学校の朝だった。


「おー、蒼月」


星馬が気の抜けた声で手を上げる。


「珍しく普通の顔してるな」


空は足を止めずに、短く返した。


「……そうかよ」


それだけ言って、自分の席にも向かわず、そのまま教室の前方へ歩く。


視線がいくつか集まるのが分かった。


その先で、美景が顔を上げる。

一瞬だけ、互いの視線がぶつかった。


空はそのまま美景の机の前で立ち止まる。


教室の空気が、わずかに揺れた。


美景は何も言わず、ただ静かに空を見上げている。


空は小さく息を吐いた。


「……放課後、ちょっと時間をもらえるか?」


昨日とは逆だった。


美景の目が、ほんのわずかに細くなる。


その一言だけで、要件を察したのだろう。


空も余計な説明はしない。


美景は数秒だけ空を見つめてから、短く頷いた。


「ええ、いいわ」


それだけで十分だった。


空もまた、短く頷き返す。


「……そうか」


それ以上は何も言わず、踵を返す。


背中に、周囲のざわつきが追いかけてくる。


「何、今の」

「蒼月の方から?」

「昨日と逆じゃね?」


そんな囁きが聞こえたが、空は気にしなかった。


自分の席へ戻る。


前を向いたまま、心の中でだけ小さく息を吐く。


放課後。


そこで、答えを言うつもりだった。



放課後のチャイムが鳴ると、教室はすぐにざわめきに包まれた。


椅子を引く音。部活へ向かう声。鞄を肩にかける生徒たちの流れ。その中で、空は席を立つ。


美景もまた、静かに立ち上がった。


二人が同時に動いたことで、教室の空気がわずかに揺れる。


「え、また?」

「今度は一緒に帰るのか?」

「何なんだよ、あの二人」


そんな囁きが背中に刺さる。


けれど、空は気にしなかった。


美景もまた、何も言わずに教室を出る。


空もその後を追った。


廊下に出ると、さっきまでのざわめきが少し遠のく。並んで歩いているわけではない。ただ、同じ方向へ向かっている。それだけだった。


それでも、昨日までとは違う。

先に口を開いたのは美景だった。


「答えは決まったのね」


歩調を変えないままの問いだった。


空は短く答える。


「ああ」


それ以上の説明は要らなかった。


美景もまた、すぐに理解したようだった。


「なら、このまま行きましょう」


「……ああ」


短いやり取りだった。


校舎を出る。


夕方の空気は少し冷えていて、部活の掛け声が遠くから聞こえてくる。生徒たちの流れとは逆に、二人は校門の外へ足を向けた。


VECの日本本拠地へ。


その事実を口にしなくても、もう互いに分かっている。


空は黙ったまま歩く。


隣では、美景も何も言わない。


けれど、その沈黙は昼休みの空き教室の時とは違っていた。

問い詰める沈黙ではない。


ただ、これから向かう先を互いに承知している者同士の静けさだった。


空は小さく息を吐く。

昨日まで、あれほど遠かったはずの場所へ、今は自分の意志で向かっている。


まだどこか現実味が薄い。

それでも、足だけはもう迷っていなかった。


やがて辿り着いたVECの日本本拠地は、昨日と同じ無機質な姿だった。

高い外壁。簡素な外観。余計なものを削ぎ落とした巨大な施設。


ただ、今日は昨日とは違う。


連れてこられたのではなく、自分の足でここへ来た。

その違いだけが、妙に重く感じられた。


美景は迷いなく正門を通る。


空も、その後に続いた。


内部へ入れば、相変わらず張りつめた空気が満ちている。行き交う職員たちの足取りに無駄はなく、交わす言葉も必要最低限だ。昨日はただ圧倒されるだけだった光景を、今日は少しだけ冷静に見ている自分がいた。


とはいえ、居心地がいいわけではない。


長い通路を進む。


美景が前を歩き、空は半歩ほど後ろをついていく。


「……どこに行くんだ」


空が低く問うと、美景は振り返らないまま答えた。


「まずは猫屋隊長に伝えるわ」


「そうか」


空はそれ以上聞かなかった。


昨日、あれだけ勝手に話を進めた本人だ。真っ先に話を通すべき相手なのだろう。


いくつか角を曲がり、広いフロアを抜けた先で、美景が足を止める。

前方の開けた訓練区画のような場所に、見覚えのある男が立っていた。


アッシュグレーの髪。柔らかい笑み。深く細められた目。


猫屋だ。


何人かの隊員と言葉を交わしていたらしいが、美景たちに気づくと、すぐに片手を上げた。


「お、白雪ちゃん」


気楽な声だった。

それから、その隣にいる空を見て、口元の笑みを少し深くする。


「ちゃんと来たんだ」


空は短く息を吐く。


「……昨日の返事をしに来ました」


猫屋は面白そうに肩をすくめた。


「うんうん、それで十分」


猫屋はそこでようやく隊員たちとの会話を切り上げ、完全にこちらへ向き直った。


細められた目の奥は相変わらず読めない。


けれど、その空気がほんの少しだけ変わったのは分かった。


空は無意識に、背筋を伸ばす。

ここでまた曖昧にするつもりはなかった。

一度だけ息を整える。


それから、猫屋を真っ直ぐ見て口を開いた。


「……VECに入隊させてください」


猫屋はすぐには何も言わなかった。

数秒の間を置いてから、ゆっくりと笑う。


「そっか、いいよ」


あまりにも軽い返しだった。


空は思わず眉をひそめる。


「それだけですか」


「いやいや、十分嬉しいよ?」


猫屋は楽しそうに言う。


「君、昨日の感じだともっと渋るかと思ってたし」


「渋ってないわけじゃありません」


空は低く返した。


「勘違いしないでください。納得したわけじゃないです」


「うん、分かってる」


猫屋はあっさり頷く。


「白雪ちゃん」


「はい」


「ちゃんと連れてきてくれてありがと」


美景は小さく首を振った。


「私は何もしていません」


そのやり取りを見ながら、空は妙な居心地の悪さを覚える。


自分の意思でここへ来たはずなのに、まるで最初から何もかも読まれていたような気がしてならなかった。


猫屋はそんな空の内心を見透かしたみたいに、くすりと笑う。


「そんな顔しないでよ。別に君が僕の思い通りに動いたとか、そういう話じゃないんだから」


「……笑えません」


「そりゃ失礼」


口ではそう言いながら、まるで悪びれる様子はない。


美景は静かに空を見た。


「それでも、来たのは蒼月くん自身の意志でしょう」


その一言に、空は何も返せなかった。


その通りだったからだ。


猫屋は二人を交互に見てから、ぱん、と軽く手を打つ。


「じゃあ、ひとまず歓迎しようか」


「歓迎って」


空が怪訝に言うと、猫屋は少しだけ顎を上げる。


「せっかく本部まで来たんだし、このまま帰すのも味気ないでしょ」


嫌な予感がした。


昨日から、この男の「せっかく」とか「ついで」とかいう言葉に碌なものがない。


空が口を開く前に、訓練区画の奥から足音が近づいてきた。


振り向くと、一人の男がこちらへ歩いてくる。


空より年上だろう。鋭い目つきに、隙のない体つき。制服の着こなし一つとっても、いかにも場数を踏んでいるのが分かる。


その男は、美景の隣に立つ空を見て、あからさまに眉をひそめた。


「……誰ですか、そいつ」


声音に、露骨な歓迎のなさが混じっていた。


猫屋はその反応すら面白がるように笑う。


「ちょうどいいとこに来たね、功刀(くぬぎ)


功刀と呼ばれた男は、猫屋へ視線を移す。


「また何か始める気ですか」


「またって言い方ひどくない?」


「大体当たってるでしょう」


功刀の返しは容赦がなかった。


それからもう一度、空を見る。


値踏みするような視線だった。


「……そいつが?」


猫屋は楽しそうに頷く。


「そ。今日から入る子」


空の眉がわずかに動く。


今日から、という言い方に引っかかったが、それを口にするより先に功刀の方が先に反応した。


「は?」


明らかな不快が、その一音に滲んでいた。


美景が小さく眉を寄せる。


猫屋はどこまでも軽い。


「だから、今日から仲間になる予定の子だって」


「予定、でしょう」


功刀の視線は空から外れない。


「何の実績もない一般人を、隊長の一存で本部に入れて、そのまま入隊扱いですか」


言葉は冷静だった。

だが、刺がある。


空に向けたものでもあり、猫屋に向けたものでもあると分かった。


猫屋は肩をすくめる。


「一応、実績はあると思うけど」


「噂の話なら聞いてます」


功刀は一歩だけ近づいた。


「ですが、そんな曖昧な話で特別扱いする気なら、納得できません」


空は黙ってそのやり取りを見ていた。


歓迎されないのは分かっていた。だがここまで露骨だと、逆に変な落ち着きが出てくる。


美景が静かに口を開く。


「功刀さん」


「白雪、お前は黙ってろ」


ぴしゃりと言い切られ、美景の目がわずかに細くなる。


空はその空気の変化を感じ取った。


功刀は猫屋を見る。


「隊長がその気なら、せめて力くらい見せてもらいます」


猫屋はそこで、楽しそうに目を細めた。


「いいねえ」


空は嫌な予感を確信に変えた。


猫屋がこういう顔をする時は、だいたい面倒なことになる。

あまりにも短い付き合いだが、それだけはわかる。


案の定、次の言葉はその予感を裏切らなかった。


「蒼月くん」


空が低く返す。


「……何ですか」


猫屋はにこやかに告げた。


「功刀と軽くやってみよっか」


空は無言のまま、数秒猫屋の顔を見つめた。


歓迎、という言葉の意味を問いただしたくなる。


だが功刀の視線はすでに逸らされていない。完全に、試す相手を見る目になっていた。


訓練区画の空気が、少しずつ別の熱を帯びていく。


空はゆっくりと息を吐く。


VECに入ると決めたばかりだというのに、早速面倒事の匂いしかしなかった。


お読みいただきありがとうございます。

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