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8話 妹

病室の扉を開けると、海未はいつものようにベッドの上にいた。


けれど、その顔色は普段より明らかに悪かった。


枕元の照明に照らされた肌は白く、呼吸もどこか浅い。起きてはいるが、無理に目を開けているような危うさがある。


空は一瞬だけ言葉を失い、それから静かに扉を閉めた。


「……悪い。遅くなった」


海未はベッドの上で少しだけ顔を上げ、力なく笑う。


「ううん……大丈夫」


声も、いつもより弱い。


空は病室の中へ入り、いつもの椅子に腰を下ろす。だが今日は、座ったところで落ち着かなかった。視線が何度も海未へ戻ってしまう。


海未はそれに気づいたのか、小さく笑ってみせた。


「そんな顔しないでよ。ちょっとしんどいだけだから」


「ちょっと、って顔じゃない」


思ったより強い口調になった。


海未は一瞬だけ目を丸くしたあと、また困ったように笑う。


「……今日は少しだけ、波が悪いだけ」


その言い方が、かえって空の胸を重くした。


波。


その一言で済ませられるほど、長く続いているものなのだと改めて分かる。


空は視線を落とす。


猫屋の言葉が、また頭の奥で蘇る。


――あれはどう考えても“感覚(センス)”による攻撃を受けてる。

――今は耐えてるみたいだけど、このままじゃ。


海未の苦しさは、単なる体調不良なんかじゃない。

そう言われてしまった今、目の前のこの様子を前にして、もう「気のせいだ」とは思えなかった。


「……お兄ちゃん?」


海未が不安そうに呼ぶ。


空は顔を上げる。


海未は少し身じろぎして、苦しそうに息を整えながらも、こちらを見ていた。


その目には、痛みより先に、空のことを気にする色が浮かんでいる。


それが余計に辛かった。


何も知らないまま心配されるならまだいい。

全部を知っていて、それでもこうして自分を見てくるから、余計に逃げ場がない。


空はゆっくりと息を吐いた。


もう、曖昧にごまかして済ませるわけにはいかなかった。


「……今日、少し話がある」


海未の表情がわずかに引き締まる。


「話?」


「ああ」


短く答えてから、一拍置く。


喉の奥がやけに重い。


けれど、ここで言わなければたぶん一生言えない。


「俺、VECに入ることにする」


病室の空気が、ぴたりと止まった。


海未は数秒、何を言われたのか理解できないように空を見つめていた。


やがて、かすかに目を見開く。


「……え」


掠れた声だった。


「なんで……急に」


当然の反応だった。


空は少しだけ視線を伏せてから答える。


「今日、向こうに連れていかれた」


「向こうって……」


「VECの本部」


海未の顔から、さらに色が引く。


それがただ驚きによるものなのか、別の痛みに触れたからなのか、空には分からなかった。


「猫屋って人に会った。そこで言われた」


空の声は低かった。


「お前のこと、多分“感覚(センス)”が絡んでるって」


その一言で、海未は目を伏せた。


否定しない。


驚いてはいる。けれど、まるで全く初耳という反応でもなかった。


空はその小さな変化を見逃さなかった。


「……気付いてたのか」


海未はすぐには答えない。

しばらくしてから、ゆっくりと息を吐く。


「はっきりとは、分からなかったよ」


小さな声だった。


「でも……ただの病気じゃないんだろうな、とは思ってた」


空は拳を握る。


やっぱりそうか、と言いたかったわけじゃない。

むしろ、それを一人で抱え込ませていたことの方が重かった。


「だったら余計に、放っておけない」


「でも……!」


海未が思わず声を上げる。

その勢いで咳き込みそうになり、自分で口元を押さえた。


空は反射的に立ち上がりかけるが、海未は小さく首を振って制した。


「……だめ」


苦しそうに息を整えながら、それでも海未は空を見る。


「VECなんて、危ないに決まってる」


その言葉には、はっきりした拒絶があった。


「お兄ちゃん、ただでさえ無茶するのに……そんなところ入ったら、もっと危ない目に遭う」


「それでもだ」


空は、今度は迷わず言った。


海未が息を呑む。


空自身も、その即答に少し驚いた。

だが口にしてみて分かる。


もう、ここは曖昧にしたくなかった。


「危ないのは分かってる」


「なら――」


「分かってても、行くしかない」


海未が言葉を失う。


空は静かに続けた。


「今までみたいに、知らないふりして何もしないのは、もう嫌だ」


その言葉は、自分自身に向けたものでもあった。


守れなかったことを言い訳にして、力を嫌って、遠ざけて、そうしているうちに海未は今も苦しんでいる。


もし本当にVECに手掛かりがあるなら、逃げる理由にはならない。


「猫屋って人のことも、VECのことも、正直まだ信用してるわけじゃない」


空は一度、視線を落とす。


「でも、何か知ってるのは確かだ」


それは認めざるを得なかった。


「お前のことを、このまま分からないままにしておく方が嫌なんだよ」


海未は黙って聞いている。

反論しようとして、それでも口を挟めずにいるのが分かった。


空は、そのまま言葉を継ぐ。


「俺は今まで、何もできなかった」


低く、押し殺した声だった。


「できなかったことを理由にして、何もしないままでいた」


それが自分の弱さだと、やっと認められる気がした。


「でも、今回は違う」


海未の目が揺れる。


「海未を助けるために行く」


飾りのない言葉だった。


それ以上の言い方が、見つからなかった。


「だから、止められても行く」


はっきりとした声音だった。


病室に、しばし沈黙が落ちる。

機械の電子音だけが小さく響く。


海未はしばらく目を伏せたまま動かなかった。

その細い指先が、シーツの上でぎゅっと握られている。


やがて、かすかに震える声が返ってきた。

海未は泣きそうな顔をしていた。


「そんな言い方されたら、反対できないじゃん」


その一言が、胸に刺さる。

空は何も言えない。


海未は小さく息を吐き、弱々しく笑った。


「ほんとは、嫌だよ」


本音だった。


「怖いし……心配だし、行ってほしくない」


一つ一つを確かめるように言って、それから海未は目を閉じる。


「また、お兄ちゃんがいなくなるんじゃないかって思うの、嫌だよ」


その言葉で、空の中の何かが強く引き絞られた。


海未を失うことばかり考えていた。

けれど海未もまた、自分を失うことを怖がっている。


当たり前のことなのに、今さら突きつけられた気がした。


海未はゆっくり目を開ける。


「お兄ちゃんまでいなくなったら、私……」


最後まで言い切れず、唇を噛む。


その姿を見た瞬間、空は自分でも驚くほど強く言葉を返していた。


「いなくならない」


海未が目を見開く。


空は拳を握ったまま、真っ直ぐに言う。


「俺は、絶対にお前を失いたくない」


病室の空気が静まり返る。


言ってから、自分でもその言葉の重さに息を呑んだ。

けれど、引っ込めるつもりはなかった。


それが今の本心だった。


「だから行くんだ」


声はもう揺れていなかった。


「失いたくないから、何もしないでいる方が無理なんだよ」


海未の瞳が、ゆっくり揺れる。


空はそのまま続ける。


「怖いのは分かってる。危ないのも分かってる」


「でも、ここで見ないふりして、結局何もできないままお前が苦しむ方が、もっと嫌だ」


それは言い訳じゃなかった。

逃げるための理屈でもなかった。

ようやく掴んだ、自分の意志だった。


海未はしばらく黙っていた。

やがて、小さく呟く。


「……お兄ちゃん、ずるい」


さっきと同じ言葉なのに、今度は少しだけ響きが違った。

泣きそうで、でもどこか諦めも混じっている。


「そんな顔で言われたら、もう何も言えないよ」


空は息を吐く。


海未は小さく目元をこすって、それから弱々しく笑った。


「ほんとは、嫌だよ」


本音だった。


「でも、お兄ちゃん……今、ほんとに自分で決めてる顔してる」


空は、その言葉にわずかに息を止めた。


海未はゆっくり目を開ける。


「前とは違う」


その言い方は、不思議なくらい穏やかだった。


空は返す言葉が見つからない。


海未はそんな空を見て、少しだけ困ったように笑う。


「なら、もう止めない」


その一言は、許可というより、降参に近かった。


「……いいのか」


ようやく出た空の声は、自分でも意外なくらい低かった。


海未は小さく頷く。


「よくはないけど」


それから、ほんの少しだけ真面目な顔になる。


「でも、約束して」


「何を」


「ちゃんと帰ってくること」


まっすぐな目だった。


「無茶しすぎないこと。危なくなったら、一人で抱え込まないこと」


空は一瞬だけ黙る。


簡単に守れる約束じゃない。

そう思った。


けれど、ここで黙るのは違う気がした。


「……分かった」


海未はその返答を聞いて、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。


「ほんとに?」


「ほんとだ」


「絶対?」


「しつこい」


そう言いながらも、声は少しだけ柔らかかった。


海未はそれを聞いて、ふっと笑う。


その笑みは弱々しくても、さっきまでよりはずっと自然だった。


空は椅子に深く腰を下ろす。

胸の奥にあった重さは消えていない。


けれど、さっきまでとは少しだけ形が変わっていた。

逃げないと決めた重さだった。


海未は枕に寄りかかりながら、ぼんやりと空を見る。


「……でも、びっくりした」


「何が」


「お兄ちゃんが自分からそういうとこ行くって言うなんて」


空は少しだけ視線を逸らす。


「俺だって、ずっとこのままでいるつもりだったわけじゃない」


半分は嘘で、半分は本当だった。


海未はそれを見抜いているような顔で、小さく笑う。


「うん。そういうことにしとく」


空は何も返さない。


病室の中には、さっきまでとは違う静けさが流れていた。


海未の苦しさはなくなっていない。問題も何一つ解決していない。


それでも、空ははっきりと前を向いていた。

固めた決意だけは、もう揺らがなかった。

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