7話 再会
VEC基地を出た頃には、空はひどく疲れていた。
外はもう夕方で、空は鈍い光に目を細める。頭の奥にはまだ猫屋の言葉が残っていた。
――海未ちゃん、ただの病気とかじゃないでしょ。
――VECにいれば、海未ちゃんを苦しめてるのが何なのか、突き止められるかもしれない。
考えたくないのに、勝手に反芻される。
足は自然と病院へ向かっていた。海未に会うと決めていたからか、それとも、何かを確かめたかったからか、自分でも分からない。
人通りのある通りへ出たところで、不意に前方から聞き覚えのある声がした。
「あれ、空さん?」
空が顔を上げる。
買い物袋を両手に提げた少女が、こちらを見ていた。
銀髪のツインテール。少し得意げに胸を張るような立ち方。つい先日ショッピングモールで見た顔だ。
「……白雪の妹、美晴だっけ」
空がそう言うと、美晴はぱっと笑った。
「正解です」
それから、わざとらしく少し首を傾げる。
「でも、空さんじゃなくて、お兄さんって呼んだ方がいいですか?」
空は一瞬だけ言葉に詰まった。
ショッピングモールでの、自分の声が不意に蘇る。
――大丈夫だ。お兄ちゃんに任せろ。
あの時は、咄嗟だった。海未と重なって見えたから、ただそれだけで出た言葉だったはずなのに、今こうして本人に持ち出されると妙に落ち着かない。
「……それはやめてくれ」
ぶっきらぼうに返したつもりだったが、少しだけ間が悪かった。
美晴が目を細める。
「あ、ちょっと照れてます?」
「照れてない」
「ほんとですか?」
「だから、そういうのいいから」
少しだけ視線を逸らして言うと、美晴は面白そうに笑った。
「じゃあ、空さんのままにしときます」
空はそれ以上何も返さなかった。
代わりに、改めてその手元を見る。
買い物袋の中には、野菜や日用品が覗いていた。高校生の買い物にしては、妙に生活感がある。
「……買い物か」
「そうですよ」
美晴は袋を持ち直しながら頷く。
「お姉ちゃん、帰り遅いことも多いですし。私がやっとかないと回らないこと、結構あるんで」
あっけらかんとした口調だった。
自慢するでも、愚痴るでもない。本当にそれが日常なのだと分かる言い方だった。
空は少しだけ黙る。
美景がVEC隊員として戦っていることは知っている。けれど、その裏で家のことを回しているのがこの年下の妹なのだと、こうして目の前にすると妙に現実味を持って迫ってきた。
それに、言葉の端々に妙な引っかかりがある。
親が買ってくる、誰かがやってくれる、という前提がどこにもない。
空はそこまで考えて、そこで止めた。
聞くことじゃない。
ただ、何となく察せられるものだけが残った。
美晴はそんな空の沈黙を気にした様子もなく、にこりと笑う。
「でも、今日は会えてちょうどよかったです」
「……何が」
「お礼、言ってなかったので」
空が目を上げる。
美晴は真っ直ぐこちらを見ていた。
「ショッピングモールの時のことです」
軽さの抜けた声だった。
「お姉ちゃんを助けてくれて、ありがとうございました」
その言葉に、空はすぐ返事ができなかった。
あの時のことが、脳裏に浮かぶ。
追い詰められていた美景。
三体の中位種。
ぼろぼろになりながらも前に立ち続けていた背中。
そして、自分がその前に割って入ったこと。
「……それは白雪に言え」
空は、視線を少し外したまま言った。
「お前の姉がやったことだ」
学校でもそうだった。
ショッピングモールでも、あの場にいたのはVEC隊員の美景だ。
そう見える方が自然だし、その方が都合もいい。
美晴は素直に頷く。
「はい。たしかに、みなさんはそう言ってます」
そこまでは、あっさり認める。
けれどそのあとで、はっきりと続けた。
「でも、私は違います」
空が目を向ける。
美晴は、少しも迷わなかった。
「私は、空さんがやったって確信してます」
その断定に、空は言葉を失う。
「……見たのか」
「見てたわけじゃないです」
美晴は正直にそう言って、それでも続けた。
「でも、分かります。あの時、お姉ちゃんを助けたのは空さんです」
言い切る。
その言葉に、空の喉がわずかに詰まる。
美晴は少しだけ視線を落としてから、静かに言った。
「お姉ちゃん、あの時ほんとに危なかったから」
その一言には、妹としての実感が滲んでいた。
もしあのまま、美景一人で三体を相手にしていたら。
その先を想像したくないからこそ、美晴は今ここで礼を言っているのだと分かった。
「……別に」
ようやく出たのは、そんな言葉だけだった。
けれど、前とは少し違った。
否定しきれないものが、胸の奥に残っている。
自分はあの時、確かに誰かを助けたのかもしれない。
だが、それを自分の口から認めることも、まだできなかった。
美晴は、そんな空を見てふっと笑う。
「やっぱりそういう顔するんですね」
「どういう意味だよ」
「お礼言われるの、苦手そう」
「……うるさい」
美晴は少しだけ肩を揺らして笑った。
その笑い方が、少しだけ美景に似ている気がして、空は小さく息を吐く。
「……似た者姉妹だな」
ぽつりと零す。
美晴がきょとんとする。
「え?」
「いや」
空はそれ以上続けなかった。
美晴のまっすぐな物言いは、美景が空き教室で向けてきた視線とどこか同じだった。
簡単には誤魔化されないところも、妙に似ている。
美晴は少しだけ不思議そうにしていたが、やがて「それ、褒めてます?」と笑った。
空は答えない。
答えないまま、視線を逸らす。
けれど、その曖昧な逃がし方自体が、否定ではないことくらいは美晴にも伝わったらしい。
「じゃあ、褒め言葉ってことにしておきます」
それから、何気ない調子に戻って続ける。
「でも、ほんとに感謝してるんです。私、お姉ちゃんが無事でいてくれて、すごくほっとしたから」
その言葉は、さっきよりずっと自然に胸へ落ちた。
美景が助かったこと。
そのことを、目の前の妹がこんなふうに受け止めている。
空はそれに何も返せない。
返せないまま、その重さだけを受け取る。
少しの沈黙のあと、空はふと口を開く。
「お前、いつもそんな感じなのか」
「そんな感じ?」
「家のこと」
美晴は一瞬きょとんとして、それからすぐに意味を理解したようだった。
「ああ」
買い物袋を持つ手を少し上げる。
「まあ、できる方がやるって感じですね。お姉ちゃん、戦う方で忙しいですし」
さらりと言う。
けれどその一言の奥に、積み重ねてきたものがあるのは分かった。
美景は戦うために外へ出る。
美晴は家を守るために日常を回す。
そうやって、姉妹で支え合っているのだろう。
「お姉ちゃん、昔からああなんですよ」
美晴が少しだけ苦笑する。
「私を守るって決めたら、ほんとに一直線で。怖いのに、怖いって言わないで、ずっと強くなろうとしてきたんです」
その言葉に、空は黙った。
美景の姿が頭に浮かぶ。
教室で異形の前に立った時。
ショッピングモールで三体の中位種を前にした時。
昼休み、空き教室で真っ直ぐ問いかけてきた時。
どれも揺らがないように見えた。
けれど、美晴の言い方では、それは最初から備わっていた強さじゃない。
守るために、そうあろうとしてきた強さだ。
空は無意識に、自分の手を見る。
自分はどうだった。
海未を守りたかったはずなのに、何もできなかった。
守れなかったことを理由にして、ずっと立ち止まってきた。
美景は守るために強くなろうとした。
自分は守れなかった自分を言い訳にして、弱いままでいようとしていた。
その対比が、嫌になるほど胸に刺さる。
「……空さん?」
美晴の声で、空は我に返る。
少し考え込んでいたらしい。
「いや……」
かすれた声で返して、言葉を探す。
「お前ら、ちゃんとしてるな」
我ながら変な言い方だった。
けれど美晴は、少し笑っただけだった。
「どうでしょうね」
それから、ほんの少しだけ誇らしそうに続ける。
「でも、お姉ちゃんはすごいですよ。私にとっては、ずっと」
その言葉には、疑いがなかった。
空は何も返せない。
返せないまま、それでも、その言葉が妙に頭に残る。
美晴はそこで思い出したように顔を上げた。
「あ、私そろそろ行かないと。冷凍のやつもあるし」
袋の中身を少し持ち上げて見せる。
「……そうか」
「空さんも、どこか行く途中ですよね?」
「ああ。病院」
その一言で、美晴は表情を少しだけ和らげた。
「妹さんのお見舞いですか」
空は短く頷く。
美晴は一瞬だけ何か言いたげにしたが、結局は軽く笑って手を振った。
「じゃあ、また」
「……ああ」
そのまま美晴は、買い物袋を揺らしながら歩いていく。
空はその背中をしばらく見送る。
買い物袋を提げた小さな背中は、どこにでもいる中学生のものにしか見えない。けれどその背を守るために、美景は戦っている。
そのために怖さを押し込めて、前に立っている。
空はゆっくりと息を吐いた。
さっきまで胸の中で渦巻いていた苛立ちや重さが、ほんの少しだけ別の形に変わっている気がした。
自分は、誰かを救えたのかもしれない。
少なくとも、美晴はそう受け取っていた。
しかもそれは、美景を助けたことに対する感謝だった。
その事実は、思っていた以上に重かった。
そして同時に、少しだけ救いでもあった。
空は握っていた拳をほどく。
それから、改めて病院の方へ足を向けた。
今度はさっきよりも、ほんの少しだけ迷いの少ない足取りで。




