6話 動揺
猫屋の後を追って歩くうちに、通路の空気はさらに静かになっていった。
先ほどまで時折見かけていた職員らしき人影も減り、扉の数も少なくなっていく。代わりに、壁や床の無機質さだけがいっそう際立って見えた。
ここがただの施設ではないことは、もう十分すぎるほど分かっている。
その上でなお、奥へ進むほどに空の中の警戒は強まっていった。
「……おい」
前を行く猫屋の背に、空が低く声を投げる。
「今から会う“上”ってのは誰なんだ」
猫屋は今度もすぐには答えなかった。
角をひとつ曲がってから、ようやく肩越しに振り返る。
「まあ、ここで一番偉い人」
「……は?」
その言葉の意味を、空は一瞬うまく飲み込めなかった。
隣を歩く美景の表情が、わずかに引き締まる。
それだけで、猫屋が冗談を言っているわけではないと分かった。
「総監室に行くんですか」
美景が確認するように問う。
「そ」
猫屋は軽く頷く。
「話が早いでしょ?」
空は思わず立ち止まりかけた。
総監。
その単語が意味するものくらいは分かる。
組織の頂点。少なくとも、そこらの隊員や責任者とはわけが違う。
「……どうしてそんなところに俺が行く必要があるんだ」
不快感を隠さず言うと、猫屋は「どうしてだろうねえ」とでも言いたげに笑う。
「僕が連れていきたかったから、かな」
「答えになってない」
「まあまあ」
軽くいなされる。
だが空はもう黙らなかった。
「海未のことを知ってるとか、いきなりこんな場所に連れてくるとか、それだけでも十分意味が分からないのに、次は総監だ? 冗談じゃない」
「蒼月くん」
横から、美景が低くたしなめる。
「猫屋隊長に、その言い方はやめて」
その声は強くはなかった。
けれど、はっきりとした注意だった。
空は露骨に眉をひそめる。
「……上司ってわけか」
「そういうこと」
美景は短く返した。
猫屋はそんなやり取りを見て、くすりと笑う。
「いいよいいよ。反抗期って感じで嫌いじゃないし」
空はそれに答えなかった。
美景も小さく息を吐くだけで、それ以上は何も言わない。
やがて猫屋は、他より明らかに重厚な扉の前で足を止めた。
金属製のプレートが埋め込まれている。
総監室
その文字を見た瞬間、空の喉がわずかに詰まった。
本当に来たのだと、今さらながら実感する。
猫屋は躊躇いもなく扉脇の端末に手をかざし、短く告げた。
「猫屋です。少しお時間いいですか」
わずかな間。
中から返ってきたのは、低く短い声だった。
「入れ」
猫屋は振り返る。
「ほら」
その一言とともに扉が静かに開く。
室内は広かった。
無駄に豪奢というわけではない。だが、必要なものだけを徹底して整えたような空間だった。大きな机、壁面のモニター、整然と並ぶ書類棚。そのどれもが、ここが組織の中枢だと無言で告げている。
その中心に、一人の男が座っていた。
黒髪を短く整えた、体格のいい男だった。浅黒く焼けた肌に、隙のない姿勢。こちらを見上げるだけで空気がひとつ締まるような圧がある。派手さはない。だが、それ以上に揺るがない重さがあった。
この男が、VECの総監。
そう地の底へ沈むような確信が、空の中に落ちる。
猫屋とはまるで逆だ。
軽さで相手の懐へ入り込む猫屋に対し、こちらは最初から距離そのものを支配してくる。
空は無意識に息を呑む。
猫屋はそんな緊張をまるで気にしないまま、いつもの軽さで部屋へ入っていった。
「少し面白い子を見つけたんで、連れてきました」
美景も一礼して続く。
「失礼します」
空は一瞬遅れて足を踏み入れた。
扉が後ろで閉まる音がして、逃げ道がさらに遠のく。
男の視線が、まず猫屋に向いた。
それから空へ移る。
ほんの一瞬だけ、その目がわずかに細くなったように見えた。
「VEC総監、黒鉄 一だ」
低く、よく通る声だった。
短い自己紹介のあと、黒鉄は空を見据えたまま続ける。
「君は?」
空は一瞬だけ答えに詰まる。
この場の空気も、目の前の男の圧も、何もかもがやりづらい。
それでも、名乗らないわけにはいかなかった。
「……蒼月 空です」
その名を聞いた瞬間、黒鉄の眉がぴくりと動く。
「蒼月……?」
低く落ちた声には、明確な引っかかりがあった。
空の背筋に冷たいものが走る。
だが猫屋は、すぐにその反応を軽く振り払うように手を振った。
「違う違う。この前の事件の方ですよ」
猫屋の言葉に、黒鉄の視線が少しだけ鋭さを変える。
「だから、うちの隊員の白雪ちゃんにも来てもらったんですよ」
美景は一歩前に出て、短く頭を下げた。
「……はい」
黒鉄の目が、今度は美景へ向く。
「では、彼があれを……?」
問いは短かった。
だが、その意味は十分すぎるほど伝わった。
空の心臓が強く脈打つ。
猫屋は口元に笑みを浮かべたまま、ためらいなく答えた。
「僕はそうだと確信してる」
部屋の空気が、静かに張りつめる。
空は思わず猫屋を睨んだ。
「勝手なこと言わないでくれ」
黒鉄の前だろうが何だろうが、反射的に言葉が出た。
美景がわずかに眉を寄せる。
「蒼月くん」
二度目の制止だった。
今度は空もそれ以上言葉を荒げなかったが、視線だけは猫屋から外さない。
猫屋は肩をすくめる。
「勝手かなあ。でも、君も心当たりあるでしょ?」
「……ありません」
即答だった。
だが、その声に余裕はなかった。
美景は黙っている。
否定もしない。庇いもしない。ただ、昼休みと同じように真っ直ぐ空を見ていた。
黒鉄はしばらく何も言わなかった。
その沈黙が、猫屋の軽口よりずっと重い。
やがて、机の向こうで組んでいた指がわずかに動く。
「猫屋」
「はいはい」
「お前は、何をするつもりで彼をここへ連れてきた」
黒鉄の問いは、確認というより責任を問う声だった。
猫屋はそんな圧にも動じず、あっさりと答える。
「決まってるじゃないですか」
そして、まるで当たり前のことを告げるみたいに言った。
「この子をVECに入れる」
一瞬、空は意味を理解できなかった。
「……は?」
間の抜けた声が漏れる。
美景の目がわずかに見開く。
黒鉄は表情ひとつ変えない。
空だけが、数拍遅れて猫屋の言葉を飲み込んだ。
入れる。
VECに。
自分を。
「冗談じゃない」
今度ははっきりと声が出た。
「俺が入るわけないだろ」
猫屋はその反発すら予想通りだと言わんばかりに笑う。
「まあまあ、そう即答しないでよ」
「即答するに決まってる。俺は――」
そこまで言いかけたところで、猫屋の声音がふっと変わる。
さっきまでの軽さを残しながら、ほんの少しだけ芯が硬くなる。
「君の妹の海未ちゃん、ただの病気とかじゃないでしょ」
空の言葉が止まる。
空気が、凍りついたように静まる。
「……ッ」
喉が鳴る。
猫屋は空を見たまま、言葉を継ぐ。
「あれはどう考えても“感覚”による攻撃を受けてる」
その一言一言が、脳に直接打ち込まれるみたいだった。
「今は耐えてるみたいだけど、このままじゃ――」
最後まで聞く前に、空の身体が動いていた。
椅子を蹴る勢いで床を踏み、猫屋に掴みかかる。
視界の端で美景が息を呑むのが見えた。
だが、次の瞬間にはもう遅かった。
猫屋の指先が、ほんのわずかに動く。
それだけだった。
見えない何かが空の手首と肩に絡みつく感触が走る。
「な……」
言葉になる前に、腕の軌道がねじ曲がる。
自分の身体なのに、自分のものじゃないみたいに制御が利かない。
糸だ、と気づいた時には、もう床が目前まで迫っていた。
半歩ずれた猫屋の動きに合わせて、空の身体は無理やり引き落とされる。
そのまま手首を極められ、肩口を押さえ込まれた空は、何が起きたのか理解する前に床へ叩き伏せられていた。
「っ、ぁ……!」
腕を取られたまま、背中に鈍い痛みが走る。
抵抗しようにも、まるで動けない。
見えない拘束が関節を縫い止めているみたいだった。
力の差があまりにも一方的だった。
これが、Sランク。
さっき聞いた肩書きが、今になって生々しく身体へ刻み込まれる。
猫屋は空を押さえたまま、困ったように笑う。
「今のは言い方が悪かった。ごめんごめん」
その軽さが、余計に頭に血を上らせる。
「脅しとかじゃなくてさ」
猫屋は空の耳に届くよう、少しだけ声を落とす。
「VECにいれば、海未ちゃんを苦しめてるのが何なのか、突き止められるかもしれないっていう提案だよ」
その言葉で、空の身体から一瞬だけ力が抜けた。
怒りのまま振り払えれば、どれだけ楽だったか分からない。
けれど、海未の名を出された瞬間から、もうそれはできなかった。
猫屋はその変化を感じ取ったのか、ゆっくりと拘束を解く。
指先が軽く動くと、さっきまでそこにあった見えない圧だけがすっと消えた。
空は床に手をつき、乱れた呼吸のまま顔を上げた。
黒鉄は何も言わない。
ただ、その一部始終を静かに見ていた。
美景もまた、口を挟まない。
挟めないのか、挟まないのか、それすら分からなかった。
空は立ち上がることもできず、拳を握りしめたまま床を睨む。
海未を救えるかもしれない。
その可能性だけが、嫌になるほど重く胸にのしかかる。
VECに入る気なんてなかった。
こんな得体の知れない連中の中に、自分から入る理由なんて本来どこにもない。
それでも、海未のことだけは別だった。
猫屋が静かに問う。
「どうする?」
答えはすぐには出なかった。
出せるはずもなかった。
けれど、ここで何も決めずに背を向けることも、もうできない気がした。
空はしばらく黙り込んだまま、ゆっくりと息を整える。
そして、床に手をついたまま、低く言った。
「……少し、考えさせて、ください」
その言葉に、猫屋は小さく目を細める。
黒鉄は表情を変えない。
美景だけが、わずかに視線を動かした。
答えを拒んだわけではない。
けれど、受け入れたわけでもない。
今の空に言えるのは、それが限界だった。




