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5話 境界

男に連れられて辿り着いたのは、市街地の外れにある巨大な施設だった。


高い外壁に囲まれた敷地は、遠目にはただの研究所か企業施設にも見える。だが、門の造りも、周囲の警備も、どこか普通ではない。飾り気のない灰色の建物は無機質で、そのくせ、目に見えないところまで神経が通っているような気配があった。


空は足を止めかける。


「……なんだよ、ここ」


前を行く男は振り返りもせず、ひらひらと片手を振った。


「まあまあ、着けば分かるって」


相変わらずの軽い口調だった。


その態度が気に食わない。


けれど、ここまで来て今さら引き返せるとも思えなかった。男は迷いなく正門を通り、空も無言のままその後に続く。


門の内側へ入った瞬間、空はわずかに眉を寄せた。


空気が違う。


人の気配はある。だが、そこにいる誰もがただの職員には見えない。行き交う者の足取りは無駄がなく、交わす言葉も必要最低限だ。外から見た時以上に、この場所が何か特別な性質を持っていることが伝わってきた。


男は受付めいた場所も素通りして、建物の奥へ奥へと進んでいく。


止められない。


いや、正確には、止めようと思えば止められるのかもしれない。だが誰も止めない。男がここで相応の立場にいることだけは、それで十分に分かった。


長い通路を歩く。


白い壁。硬質な床。天井の照明は均一に明るく、どこもかしこも妙に整いすぎていた。窓の少ない構造のせいか、時間感覚まで曖昧になる。


「おい」


空が低く呼びかける。


男はようやく少しだけ首を傾けた。


「なに?」


「どこに連れてく気だ」


「大事なとこ」


答えになっていない。


空が苛立ちを隠さず睨んでも、男はまるで意に介した様子もなかった。


「そんな怖い顔しなくても、別に取って食べたりしないよ」


「うるさい」


「はは、元気でいいねえ」


軽口ばかりだ。


だが、その軽さの下に何かを隠していることは、もう嫌でも分かっている。


空は舌打ちを飲み込み、再び前へ視線を戻した。


曲がり角をいくつか抜ける。


広いフロアを横切り、認証付きらしい扉の前を通り過ぎる。見えるもの全てが、ここが単なる民間施設ではないと告げていた。


そして、次の角を曲がったところで――


空の足が止まった。


向こうから歩いてきた少女もまた、同じように足を止める。


銀色の長い髪。

見慣れた制服姿。


「……白雪?」


思わず名前が漏れる。


美景は、ほんのわずかに目を見開いていた。


驚いているのは向こうも同じらしい。


「蒼月くん……?」


昼休みに別れたばかりの相手が、こんな場所にいる。

空の中で疑問が一気に膨れ上がる。


「なんで、お前がここに」


問いかけようとした瞬間、隣の男が楽しそうに声を挟んだ。


「お、ちょうどよかった」


その気楽すぎる声に、美景の視線が男へ移る。


一瞬で、美景の表情が引き締まった。


「……猫屋隊長」


空の眉が跳ねる。


名前を知っている。

それだけで十分だった。


美景はこの男を知っている。しかも呼び方が「猫屋さん」ではなく「猫屋隊長」だ。その一語だけで、ただの顔見知りじゃないことも、何に属する人間なのか察せられた。


「知り合いかよ」


空が低く言うと、美景は男――猫屋と呼ばれた人物を一度見てから、空へ視線を戻した。


「ええ」


短い返答。


けれどその一言で、状況は十分すぎるほど変わった。


さっきまで得体の知れない不審者に見えていた男が、美景の知る相手だと分かった瞬間、この施設の意味まで一気に現実味を帯びる。


空は改めて周囲を見渡した。


整いすぎた通路。無駄のない人の動き。どこか張りつめた空気。そこに美景がいるという事実。


空が何か言うより先に、美景が口を開く。


「猫屋隊長、その人をどうしてここに?」


猫屋は相変わらずの柔らかい笑みを浮かべたまま、肩をすくめた。


「ちょっと話があってね。」


美景の目が、ほんの少しだけ細くなる。


警戒しているのが分かった。

それでも彼女は感情を荒げず、空の方へ向き直る。


「蒼月くん」


その声音は、昼休みの時よりずっと低い。


「ここがどこか、分かる?」


空は首を横に振る。


美景は数秒だけ黙って、それから静かに告げた。


「VECの日本本拠地よ」


空の呼吸が止まる。


一瞬遅れて、その言葉が重く落ちてきた。


VEC。


異形と戦う者たち。美景が所属している組織。学校の教室でも、ショッピングモールでも、現実に人を守っていた側の存在。


その日本本拠地。


つまり、今自分が立っているこの場所は、美景にとっての“仕事”の内側どころか、その中心に近い場所だということになる。


空はゆっくり猫屋を見る。


「……じゃあ、こいつもVECか」


「こいつとは失礼だなあ」


猫屋は笑ったまま、少しだけ胸を張った。


「一応、それなりに偉いんだけど」


美景が淡々と補足する。


「猫屋隊長はSランク隊員よ」


「Sランク……?」


思わず聞き返す。


SランクといえばVECでも相当の実力者だったはず。


目の前の男は、どう見てもそんな風には見えない。軽薄で、胡散臭くて、墓地でいきなり人を連れ回すような人間だ。


だが、美景は冗談を言っている顔ではなかった。


「だから誰も止めなかったのね」と続けるその声で、空はさっきの違和感すべてに合点がいく。


猫屋はそんな二人のやり取りを面白そうに見ていた。


「信じてもらえた?」


「信じたくはない」


空が即答すると、猫屋は吹き出すように笑う。


「辛辣だなあ」


その軽さのまま、猫屋は二人へ視線を巡らせた。


「まあでも、ちょうどいい。白雪ちゃん、君も一緒に来て」


「……私もですか?」


「うん。確認も兼ねてね」


美景は一瞬だけ空を見る。


その視線には、昼休みの追及の延長のような鋭さと、状況を測る慎重さの両方があった。


空もまた、無言で見返す。


この場所がVECの日本本拠地だとして、この男、猫屋がSランク隊員だとして、それで全部の不審さが消えたわけじゃない。


むしろ厄介さは増している。

けれど、今ここで逃げられるとも思えなかった。


猫屋は二人の沈黙を気にする様子もなく、再び歩き出す。


「ほら、行くよ。あんまり上を待たせるのもよくないしね」


「上?」


空が怪訝に言うが、猫屋は振り返らない。


「会えば分かる」


またそれだ。


空は眉をひそめたまま、美景を見る。


美景は小さく息を吐き、「行きましょう」とだけ言った。


その言葉に、空はわずかに唇を引き結ぶ。


昼休みには問い詰めてきた相手が、今はこの得体の知れない状況の中で一番事情を知っている。


皮肉だと思った。

それでも、完全に一人ではないという事実だけは、ほんの少しだけ空の神経を静めた。


空は無言のまま歩き出す。


猫屋の後を、美景と並ぶでもなく少し距離を置いて追う。


通路の先は、まだ見えない。


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