4話 墓前
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放課後。
終礼が終わると、教室はすぐにざわめきに満ちた。椅子を引く音、部活へ向かう声、誰かを呼ぶ気安い声。いつもの放課後だった。
空は鞄を持ち上げ、何でもない顔で立ち上がる。
「お、蒼月。今日も妹さんのとこか?」
廊下へ出る手前で、星馬が気軽に声をかけてきた。
空は足を止めることもなく、肩越しにだけ振り返る。
「……その前に、ちょっと寄るとこがある」
「へえ」
星馬はそれ以上踏み込まず、軽く手を振った。
「じゃ、また明日な」
「ああ」
短く返して、空はそのまま教室を出る。
病院へ向かう時とは、少しだけ違う道を選ぶ。
自分でも意識しないうちに、足取りは自然とそちらへ向いていた。
校門を出て、人通りの多い通学路を外れる。
駅前の喧騒も、買い物帰りの人の流れも、少しずつ遠ざかっていく。住宅街を抜け、坂道を上る頃には、周囲の音はずいぶん静かになっていた。
空は何も考えないように歩いた。
考え始めれば、昼休みの空き教室が頭を埋める。
――あなたの“感覚”はどうなってるの?
――昨日は助けてくれてありがとう。
あの二つの言葉だけが、嫌になるほど耳に残っていた。
礼を言われる筋合いなんてない。
そう思うのに、その一言だけは妙に胸の奥に引っかかったままだった。
坂を上り切った先に、小さな墓地がある。
整然と並んだ墓石の間を、風が細く吹き抜けていく。夕方の光はもう柔らかく、長い影を地面に落としていた。
空は迷わずその奥へ進む。
見慣れた墓石の前で立ち止まる。
『蒼月家之墓』
刻まれた文字を見下ろしたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて空は、持ってきていた花を静かに供える。柄杓で水を汲み、墓石にかける。何度も繰り返してきた動作だった。手順を間違えることはない。考えなくても体が覚えている。
すべてを終えてから、ようやく空はその場にしゃがみ込んだ。
夕風が、頬を撫でる。
「……来たよ」
誰に向けるでもない声だった。
もちろん返事はない。
最初から分かっている。
それでも、ここではそうやって口を開くしかなかった。
空は墓石を見たまま、小さく息を吐く。
「また、使った」
声は、思っていたよりもあっさり出た。
もっと言い淀むかと思っていたのに、口にしてしまえば、それだけのことだった。
「……嫌いなのは、変わってない」
自分の“感覚”のことを言っている。
その力を使うたびに、胸の奥がざらつく。触れたくもないものを、自分の中から無理やり引きずり出しているような気分になる。
今回だってそうだった。
使った瞬間の感覚も、意識を失う直前の吐き気も、まだ身体のどこかに残っている。
「正直、今でも気持ち悪い」
それは誰にも言っていない本音だった。
海未にも。美景にも。誰にも。
ここでだけ、ようやく口にできる。
空は膝の上で拳を握った。
「でも」
短く言葉が切れる。
風の音だけが、その続きを待つみたいに流れていた。
「……今回は、守れた」
かすかな声だった。
墓石に向かっているのに、目の前に浮かぶのはショッピングモールの光景ばかりだった。
崩れた床。悲鳴。凍りつく空気。傷ついた白雪の背中。泣きそうな顔をした美晴。
あの時、自分は立ち止まらなかった。
迷った。怖かった。使いたくなかった。
それでも、何もしないままでは終わらなかった。
「だから、後悔はしてない」
口にした瞬間、その言葉がほんの少しだけ自分の中に馴染んだ気がした。
嫌悪は消えない。
胸の奥のざらつきも、そのままだ。
けれど、それと後悔しないことは、たぶん別なのだろう。
空は目を伏せる。
「……母さんなら、どう言うかな」
母がどんな顔をするのか、もう細かくは思い出せない。
笑って許すのか、困ったように眉を下げるのか、それとも何も言わずに見ているのか。
分からない。
分からないまま、それでもここへ来る。
「白雪に、聞かれたんだ」
ぽつりと零す。
「お前の“感覚”は何なんだ、って」
答えられるわけがなかった。
自分だって、うまく説明できない。
説明したくないという気持ちの方が、もっと強い。
「……見間違いじゃないってさ」
苦く笑うように、ほんの少しだけ口元が歪む。
鋭い女だと、改めて思う。
簡単には誤魔化されない。なのに最後には礼まで言っていく。そのせいで、余計にやりにくい。
空は小石を一つ、足の爪先で転がした。
「放っておいてくれればいいのに」
そう呟いてから、少しだけ沈黙する。
本当にそう思っているのか、自分でも分からなかった。
放っておかれた方が楽だ。
何も知られず、何も期待されず、何も問われずに済む。
けれど、昼休みのあの視線を思い出すと、それだけでもないような気がしてしまう。
空はその考えを振り払うように、ゆっくり立ち上がった。
「……そろそろ行くよ」
誰に向けた言葉でもない。
墓前で長く立ち尽くしていても、何かが答えてくれるわけじゃない。
それでも少しだけ、胸の中の重さが整った気がした。
海未のところにも行かなければならない。
今日も病院へ向かうつもりだった。
空は墓石に向かって、最後に小さく頭を下げる。
「また来る」
踵を返す。
その時だった。
「――蒼月 空、で間違いないかな」
不意に、背後から男の声がした。
空の足が止まる。
振り返ると、少し離れた通路の先に、一人の男が立っていた。
年齢の読みづらい顔立ちだった。口元には柔らかい笑みを浮かべているのに、目は深く細められていて、その奥がほとんど見えない。笑っているようでいて、どこか底の知れなさを感じさせる顔だった。
見覚えはたぶん、ない。
だが、その声音には初対面らしいためらいがなかった。
「……誰だよ」
空が低く問うと、男は肩をすくめるように笑った。
「まあまあ、そう警戒しないでよ」
軽い口調だった。
その軽さが、逆に空の神経を逆撫でする。
男は数歩だけ近づいてくる。
「ちょっとだけ、付き合ってほしいんだ」
空の眉が寄る。
知らない男に、墓地で、突然そんなことを言われて素直に頷く理由はない。
「断る」
即答だった。
男は「あー、だよね」とでも言いたげに、困ったように笑う。
けれど、その表情には本気で引き下がる気配がない。
「そう言うと思った」
夕方の風が、また細く吹き抜ける。
さっきまでの静けさが、どこか別物に変わっていく気がした。
空は無意識に、わずかに足の位置をずらす。
男はその動きを見て、なおさら面白そうに目を細めた。
「でもさ」
その声音が、ほんの少しだけ低くなる。
「君も気になってるだろ。海未ちゃんのこと」
その名前が出た瞬間、空の表情が凍った。
「……なんで、お前が」
空気が、変わる。
男は答えない。
ただ、笑みを薄くしたまま空を見ている。
海未の名を知っている。
それだけで十分だった。
目の前の男が、ただの不審者では済まないことくらい、すぐに分かる。
空の指先に、じわりと力がこもった。
「今は耐えてるみたいだけど、このままでいい状態じゃない」
男はわざとらしく声を張るでもなく、まるでありふれた世間話でもするような調子で言った。
「……っ」
空の奥歯がきしむ。
知られている。
海未がおそらくただの病気ではないことも、その状態が今も続いていることも。
そこまで理解している相手を、無視して通り過ぎる――そんな選択肢は、もうほとんど残っていなかった。
それでも空は睨むように問い返す。
「何が目的だ」
「話したいだけだよ」
男はすぐに答えた。
「君にとっても、無関係じゃない話をね」
「信用できるかよ」
「しなくていいよ、別に」
あっさりと返される。
その余裕が、なおさら不気味だった。
男はさらに一歩だけ近づく。
「でも、聞かないまま後悔するのは君だと思う」
空は黙る。
風が吹く。
墓石の間を抜けるその音が、今はやけに冷たく聞こえた。
目の前の男は怪しい。どう見てもまともじゃない。そんなことは分かっている。
けれど、海未の名前を出された瞬間から、ただ無視して去ることはできなくなっていた。
もし本当に、この男が海未のことを知っているなら。
もし少しでも、今の状況を変える手掛かりを持っているなら。
何も聞かずに背を向けるのは、あまりにも危険だった。
「……ふざけた真似したら、ただじゃ済まさない」
低く押し殺した声で、空は言った。
男はその言葉を聞いて、楽しげに肩を揺らす。
「うん、そのくらい警戒してくれた方が安心だ」
安心、という言葉の意味が分からない。
男は細めた目のまま、来いと言わんばかりに顎をわずかに引いた。
「じゃあ、行こうか」
空はすぐには動かなかった。
墓の方へ一度だけ視線をやる。
さっきまでとは違う意味で、もう引き返せない気がした。
数秒の沈黙のあと、空は小さく息を吐く。
「……案内しろ」
男の口元が、満足げにわずかに吊り上がった。
「そうこなくちゃ」
そう言って背を向ける。
空は警戒を解かないまま、その後ろ姿を睨んだ。
深く細められた目は見えない。けれど、その背中から漂う得体の知れなさだけは、ますます濃くなる。
それでも、行くしかなかった。
海未の名前を出された時点で、選択肢なんて最初から残っていなかったのかもしれない。
空は鞄の持ち手を握り直し、男の後を追って歩き出した。




