3話 追及
昼休みのチャイムが鳴ると同時に、教室の空気が少しだけ緩んだ。
椅子の音。弁当箱を開く音。誰かの笑い声。さっきまでのざわめきは、今度は昼の喧騒へと形を変えていく。
その中で、空は席を立たなかった。
どうせすぐ来る。
そう思っていた矢先、机の脇に影が差す。
「行きましょう」
白雪 美景が、短くそう言った。
余計な前置きも、周囲への配慮めいた言い回しもない。ただ決めていたことを告げるだけの声だった。
空は小さく息を吐いて立ち上がる。
周囲の視線が、また一斉に集まるのが分かった。
「うわ、ほんとに行くんだ」
「何の話だよ」
「また蒼月かよ」
そんな囁きが背中に刺さる。
だが、美景は気にした様子もなく踵を返した。空も何も言わず、その後を追う。
教室を出る。
廊下は昼休みらしい賑わいに満ちていた。購買へ向かう足音、立ち話の輪、窓際に寄って笑う生徒たち。いつもの学校の昼の風景だ。
けれど、美景の後ろを歩く時間だけは、妙にそこから切り離されているように感じられた。
二人きりで並んで歩いているわけではない。
美景は半歩も振り返らず、ただ前を行く。空もまた、必要以上に距離を詰めることなく、その背を追っていた。
やがて、美景は人気のない特別棟の一角で足を止めた。
使われていない空き教室。
扉を開けると、中には誰もいない。机と椅子が整然と並ぶだけの、静かな空間だった。昼の光が窓から斜めに差し込み、白く埃を浮かび上がらせている。
美景は教室の中へ入り、空も続く。
後ろ手に扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
それで、逃げ道がなくなったような気がした。
数歩進んだところで、美景が振り返る。
教室で周囲に向けていた顔とも、異形と向き合っていた時の顔とも違う。もっと静かで、もっと直接的な視線だった。
「単刀直入に聞くわ」
前置きは本当にそれだけだった。
空は黙ったまま、美景を見返す。
美景の表情は変わらない。
けれど、その瞳だけは確信に近いものを帯びていた。
「あれはなに?」
空の眉が、わずかに寄る。
「……何の話だよ」
「ショッピングモールの時のこと」
即答だった。
「あなたが最後に使った“あれ”」
空の喉の奥が、わずかに強張る。
美景は一歩も引かない。
「私の“氷華”と、同じだった」
教室の空気が、少しだけ冷えた気がした。
実際に温度が下がったわけではない。ただ、そう錯覚するくらいには、美景の言葉はまっすぐだった。
「出力も、広がりも、私のものとは違った。でも、あれは確かに私の“感覚”だった」
空は答えない。
美景は続ける。
「あなたの“感覚”はどうなってるの?」
静かな声だった。
責めてもいない。興奮もしていない。ただ事実を確かめようとしているだけだ。
だからこそ、逃げ場がなかった。
空は視線を逸らす。
窓の外では、運動場の方から誰かの笑い声が小さく聞こえた。あまりにも遠くて、別の世界の音みたいだった。
「……見間違いじゃないのか」
ようやく出てきた言葉は、それだった。
美景はすぐには返さない。
じっと空を見ている。
その沈黙が、安い言い逃れを見透かしているようで、かえって息苦しかった。
「見間違えるはずないでしょ」
淡々とした口調だった。
「私は自分の“感覚”を知ってる。あの場で何が起きたのかも、ちゃんと見てた」
空は舌打ちしたくなる衝動を、かろうじて飲み込んだ。
当然だ。
美景はあの場にいた。当事者だった。ごまかせる相手ではない。
それでも、認めるわけにはいかなかった。
あれは触れられたくない。
知られたくない。
「……俺は何もしてない」
押し出すように言う。
美景の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「蒼月くん」
「白雪が倒したんだろ。実際、みんなそう思ってる」
「そういう話をしてるんじゃない」
言葉が、ぴしゃりと返ってくる。
初めて少しだけ感情が乗った声だった。
空は黙る。
美景は数秒、何かを堪えるように息を整えた。
それから、少しだけ声の熱を落として言う。
「……責めたいわけじゃないの」
その一言は、意外だった。
空が目を上げると、美景は真っ直ぐにこちらを見ていた。
「助けられた人がいたのは事実よ。あの場であなたが何かをしたのも、たぶん事実」
そこまで言って、美景はわずかに言葉を選ぶ。
「でも、分からないままなのは困る。自分の知らない“感覚”が目の前にあるなら、なおさら」
VEC隊員としての言葉だった。
興味本位ではなく、必要だから知ろうとしている。そういう響きがあった。
空はそれを理解しながらも、素直に受け取ることができなかった。
分からないままでは困る。
そんなのは、自分が一番分かっている。
分からないから嫌っている。分からないから触れたくない。分からないまま、この力ごと自分を切り捨ててきた。
「……大したもんじゃない」
やっとのことで絞り出したのは、そんな言葉だった。
「ただ、たまたまだ」
「たまたま?」
「追い詰められて、変なことになっただけだろ、火事場の馬鹿力ってやつだ」
自分でも苦しい言い訳だと思った。
だが、美景は笑わなかった。ただ静かに、その言葉の奥を探るように見つめてくる。
「じゃあ、普段は使えないの?」
空は答えない。
「意識して出したものじゃない?」
それにも答えない。
「……それとも、隠してるの?」
その一言で、空の肩がぴくりと揺れた。
図星を突かれたからではない。
その言い方が、自分の内側にあるもっと別のもの――自分の"感覚"への嫌悪や、あの日動けなかった記憶までまとめて暴こうとしてくる気がしたからだ。
「……うるさい」
低い声が漏れる。
美景が、わずかに目を見開く。
空は自分でも止めきれず、そのまま続けた。
「そんな大層なもんじゃないって言ってるだろ」
言葉に棘が混じる。
昼の光の差し込む空き教室で、それだけが妙に浮いて聞こえた。
美景はすぐに言い返さなかった。
その沈黙が、空には逆に痛かった。
責められる方がまだ楽だったのかもしれない。
けれど美景は、感情的にぶつかってこない。ただ、静かに見ている。それが一番辛い。
空は視線を逸らし、吐き捨てるように言う。
「昨日のことなら、白雪が片づけた。それでいいだろ」
「よくない」
今度は美景が即答した。
空が思わず目を向ける。
美景の表情は静かなままだったが、その目だけが強くこちらを捉えていた。
「少なくとも、私はそれで終わらせる気はない」
はっきりした声音だった。
空は何も返せない。
美景はそこで少しだけ息を吐いた。
「……今ここで全部話せとは言わない」
その言葉に、空はわずかに眉をひそめる。
「でも、あなたが何かを隠してるのは分かった」
断定だった。
「それが危険なものなのか、そうじゃないのか。あなた自身がどう思ってるのか。私は確かめたい」
美景はそこで言葉を切る。
「昨日、あなたが私を助けたのなら、なおさら」
空の胸の奥が、鈍く軋んだ。
助けた。
その言葉だけが、やけに引っかかる。
自分はそんなふうに呼ばれる側じゃない。少なくとも、そう思ってきた。
だから返せる言葉が見つからない。
沈黙が落ちる。
教室の外から、誰かの走る足音が一瞬だけ近づき、また遠ざかっていった。
昼休みの残り時間だけが、静かに削れていく。
やがて、美景が小さく息を吐く。
「……もういいわ」
諦めた、というより、一度引いただけの声だった。
「今日はここまでにする」
空は何も言わない。
言えないまま立ち尽くしている。
美景は扉の方へ向かいかけて、ふと足を止めた。
振り返らないまま、静かに言う。
「でも、私は見間違えてない」
短い言葉だった。
それだけで十分すぎるほど、逃げ道を塞がれる。
「あなたの“感覚”が何なのか、私はちゃんと知りたい」
そこで一拍だけ置いて、美景はほんの少しだけ声を和らげた。
「……あと、昨日は助けてくれてありがとう」
空が息を止める。
あまりにもまっすぐな言葉だった。
美景は振り返らないまま続ける。
「それだけは、ちゃんと伝えておきたかったから」
そう言い残して、美景は扉を開けた。
昼の喧騒が、細い隙間から一気に流れ込んでくる。
美景はそのまま出ていった。
扉が閉まる。
空き教室に静けさが戻る。
空はしばらく、その場から動けなかった。
何も暴かれてはいない。
何も認めていない。
それなのに、ひどく奥まで踏み込まれた気がした。
机の端に手をつく。
指先に、わずかに力がこもる。
――あなたの“感覚”はどうなってるの?
――昨日は助けてくれてありがとう。
その二つの言葉だけが、耳の奥に残って離れない。
空はゆっくりと目を伏せた。
自分でも見たくないものを、他人に見透かされかけている。
その事実が、嫌悪と焦燥を混ぜ合わせたまま胸の底に沈む一方で、最後に落とされたその一言だけは、そこに馴染まず、妙に浮いたまま残り続けていた。




