2話 波紋
翌朝。
退院した空はその足で学校へ向かった。
校門をくぐり、廊下を歩き、教室へ向かう。その一つ一つが、何度も繰り返してきた動作だった。考えるまでもない。止まる理由も、急ぐ理由もない。ただ足だけが前に進んでいく。
教室に入ると、すでに何人かの生徒が集まっていた。笑い声。机を引く音。朝の気だるい空気。どこにでもある学校の風景だった。
ただ、その中に自分の居場所だけはない。
空は何も言わず自分の席に向かい、鞄を置いた。誰とも目を合わせない。合わせる必要もなかった。
「おー、蒼月。昨日は大変だったみたいだな」
気の抜けた声が飛んできた。
顔を上げると、斜め前の席に腰掛けた夜長 星馬が、片手をひらひらと振っていた。相変わらず締まりのない笑みを浮かべている。
「……別に」
空が短く返すと、星馬は「別に、ねぇ」と小さく笑った。
「でもショッピングモールで異形騒ぎだったんだろ? ニュースにもなってたし。巻き込まれたって聞いたぞ」
空は答えない。
答えなくても、星馬は気にした様子もなく続ける。
「怪我は? もう平気か」
「たいしたことない」
「そっか。ならよかった」
軽い口調だった。
けれど、面白半分で聞いているわけではないことくらいは分かった。
空はそれ以上何も言わず、机の中に手を入れる。昨日まで病院の白しか見ていなかった目には、教室の雑多な色彩が妙に騒がしく映った。
すると星馬が、思い出したように声を潜める。
「ていうかさ」
「……何だよ」
「昨日も白雪さん、現場にいたんだろ?」
一瞬だけ、空の手が止まる。
周囲の何人かも、それとなく耳をそばだてている気配があった。昨日の騒ぎを知っている者は、少なくないのだろう。
星馬は悪意なく続けた。
「朝からみんなその話してる。ショッピングモールでも白雪さんが戦ったって」
空は視線を落としたまま、短く答えた。
「……そうだな」
「やっぱりか」
星馬は納得したように頷く。
「この前の教室の時、俺らも助かったし。ほんとすげぇよな、白雪さん。昨日もあの場にいたなら、そりゃ話題にもなるか」
その言葉には、嫌味はなかった。
ただ率直に、自分たちを守った少女への感心が滲んでいるだけだった。
少なくとも、あの場で自分が何をしたのかをわざわざ口にする気はなかった。むしろその方が都合がいいとすら思えた。
その言葉の通り、教室の空気はどこか落ち着かなかった。
あちこちで断片的に聞こえてくる。
「昨日のショッピングモールの件、白雪さんいたんだろ?」
「この前の教室でも異形倒してたしな」
「やっぱり白雪さん、VECの中でも相当すごいんじゃね?」
そんな声が、ざわざわと教室を満たしていく。
白雪美景がVEC隊員であることも、異形と戦えるだけの実力を持っていることも、もうこのクラスの誰もが知っている。
だが、だからこそ昨日の件は、その認識を補強するには十分すぎた。
教室だけではない。校外でも、異形相手に立ち、人を守っていた。白雪美景はやはり自分たちとは違う側の人間なのだと、改めて思い知らされたのだろう。
空は黙っていた。
星馬も、それ以上深くは聞いてこなかった。空の反応の薄さを見て、これ以上踏み込まない方がいいと判断したのかもしれない。
やがて、教室の前方が少し騒がしくなる。
「あ、白雪さん」
誰かが小さく呟いた。
視線が一斉に入口へ向く。
白雪 美景が教室に入ってきた。
いつも通りの制服姿。銀色の長い髪。無駄のない足取り。だが、その瞬間に教室の空気が変わるのは、もう珍しいことではなかった。
ただ今日は、その視線の熱がいつもより少し強い。
「おはよう、白雪さん」
「昨日、大丈夫だった?」
「ショッピングモールの件、ニュースで見た」
「怪我してない?」
次々に飛んでくる声。
普段から高嶺の花のように見られていた彼女に、気安く話しかける者は多くない。だが今日は違った。称賛と好奇心が、いつもの遠慮を少しだけ押し流していた。
とはいえ、その空気は親しげというより、やはりどこか一線を引いたままのものだった。
美景は少しだけ足を止めた。
「……平気よ」
短く答える。
だが、その程度で熱が引くわけもない。
「この前の件だけでもすごかったのに、昨日もだろ?」
「やっぱ白雪さん、格が違うな」
「VECってやっぱすげぇな」
「怖くなかったの?」
矢継ぎ早に投げられる言葉に、美景はわずかに眉を寄せた。
困っている、というより、どう扱えばいいのか分からない顔だった。もともとこういう注目を好む性格ではないのだろう。
それでも最低限の応答だけは返す。
「仕事をしただけよ」
「詳しいことは話せないわ」
「もうこの話はいいでしょ」
冷たく突き放すほどでもなく、かといって親しげでもない。その距離感はいつもの彼女らしかった。
だが、空はその一連をぼんやりと眺めながら、別のことを考えていた。
――仕事をしただけ。
確かに、美景はそういう顔で戦っていた。
自分の恐怖も迷いも押し込めて、それでも前に出ていた。あの時の背中だけは、妙に焼きついている。
ふと、美景の視線が上がった。
人の隙間越しに、まっすぐ空を見る。
一瞬だけ、教室の喧騒が遠のいた気がした。
次の瞬間、美景は周囲の声を半ば無視するようにして人の間を抜けた。
「え、白雪さん?」
「どこ行くんだ?」
呼びかけも気に留めず、そのまま一直線に空の席まで来る。
教室のざわめきが、今度は別の意味で揺れた。
何人かが明らかに息を呑む。
空は座ったまま、美景を見上げた。
美景はほんの一瞬だけ空を見つめ、それから静かに口を開く。
「蒼月くん」
その声は、周囲に聞かせるためのものではなかった。
「昼休み、ちょっと時間貰える?」
教室が、しんと静まる。
少なくとも、空の周囲だけはそう錯覚するほどに。
星馬が「お?」と面白がるような声を漏らし、近くの生徒たちがあからさまにざわつく。
「なんで蒼月?」
「え、知り合いだったの?」
「昨日一緒にいたからか?」
「……なんであいつ?」
「無感覚者のくせに」
ひそひそとした囁きが、遠慮もなく耳に入る。
好奇心だけじゃない。
もともと空を見下していた連中にとって、美景の方から空へ近づいたという事実そのものが、気に食わないのだろう。
空は一瞬だけ返答を迷った。
美景の目は揺れていなかった。
ただ話がある、というだけの顔ではない。昨日のことを確かめるつもりなのだと、それだけで分かった。
逃げても、たぶん無駄だろう。
空は小さく息を吐いた。
「……分かった」
美景は短く頷く。
「ありがとう」
それだけ言うと、彼女は踵を返し、自分の席へ戻っていった。
その背に、再びいくつもの視線が集まる。
けれど、さっきまでの称賛とは少し違っていた。
今度は、空に向けられる視線が混じっている。
好奇心。困惑。値踏み。嫉妬。侮蔑。
それらを受けても、空は何も言わなかった。
ただ、机の上に置いた自分の手を見下ろす。
昼休み。
たぶん、美景は聞くだろう。
昨日、自分が何をしたのかを。
それを思うだけで、胸の奥にまた重たいものが沈んだ。
朝の喧騒はまだ続いている。
何もかも、表面上はいつも通りの学校だった。
なのに空だけが、その内側で少しずつ日常から弾かれていくような思いを抱いていた。




