1話 目覚
白い天井が、ぼやけて見えた。
視界の端で、蛍光灯の光が滲んでいる。鼻先を掠めるのは、消毒液の匂い。耳を澄ませば、一定の間隔で鳴る電子音と、遠くを行き交う足音がかすかに混じっていた。
どこだ、ここ。
そう思った直後、鈍い痛みが頭の奥で脈打った。
空はわずかに眉をひそめ、重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。身体を起こそうとして、右手に何かが触れた。
温かい。
視線を向けると、ベッドの脇の椅子に突っ伏すようにして眠っている海未の姿があった。どうやら自分の病室から来て、そのまま待っているうちに眠ってしまったらしい。
「……海未」
掠れた声が、自分でも驚くほど弱々しく響く。
その声に反応して、海未の肩がぴくりと震えた。やがてゆっくり顔を上げ、眠気の残る目が空を映した瞬間、その表情が一変する。
「……お兄ちゃん」
呆然とした声だった。けれど次の瞬間には、それがはっきりとした安堵に変わる。
「よかった……ほんとに、よかった……!」
海未は椅子を鳴らしながら立ち上がり、ベッドに身を乗り出した。泣きそうなのを堪えているのが分かる声音に、空は返す言葉を失う。
「どこか痛くない? 気分悪いとか、変な感じとかない? 先生はもう大丈夫だって言ってたけど、でも、お兄ちゃん全然起きなくて……」
矢継ぎ早に飛んでくる言葉は、たぶんずっと飲み込んできた不安そのものだった。
空は瞬きをひとつして、記憶を手繰る。
崩れたショッピングモール。悲鳴。押し寄せる圧力。白雪美景の背中。そして――自分が“あれ”を使ったこと。
そこまで思い出したところで、胸の奥に鈍い澱が落ちた。
「……俺、どれくらい寝てた」
「一日、ちょっとくらい」
「そんなに」
「そんなにだよ」
海未は責めるように言ったあと、すぐに視線を伏せた。
「……すごく、心配したんだから」
その一言が、ひどく重かった。
空は天井を見上げる。真っ白で、無機質で、何ひとつ答えてはくれない天井だ。こういう時、どう返すのが正しいのか、昔からよく分からない。
大丈夫だと言えば済む話じゃない。実際に心配をかけたのは事実で、何度目かも分からない。
喉の奥が少しだけ詰まる。
「……悪い」
結局、出てきたのはそれだけだった。
海未は何も言わない。怒っているわけじゃない。ただ、その言葉だけで片づけられるものではないと知っている顔だった。
その沈黙に耐えきれなくなって、空はゆっくりと左手を布団の脇へ伸ばす。そこに、自分が目を覚ましたら渡そうと思っていた小さな紙袋があった。
持ち上げて、海未の方へ差し出す。
「これ」
「……え?」
「前の、詫び」
海未が目を丸くする。
空は視線を逸らしたまま続けた。
「この前、酷い言い方したから。海未はなんも悪くないのに」
「……お兄ちゃん」
「ついでに、今までの分も」
言ってから、自分でも何を言っているのか分からなくなった。今までの分、などと一つにまとめてしまえるほど軽い話ではない。
けれど、他に言い方が見つからなかった。
海未は紙袋を両手で受け取り、そっと中を覗く。中には、小さな白いぬいぐるみと、個包装の焼き菓子がいくつか入っていた。
「……ぬいぐるみ?」
「なんとなく、お前のベッドのとこに置いといても邪魔にならなさそうだったから」
空は少し間を置いてから、ぶっきらぼうに続ける。
「菓子の方は……今すぐじゃなくていい。元気な時に食え」
海未は一瞬きょとんとして、それから少しだけ笑った。
「うん。食べられそうな時に、少しずつ食べる」
「……無理すんなよ」
「してないよ」
困ったような、けれどちゃんと嬉しそうな笑みだった。ただ、その目はまだ赤い。
空はその顔を見ていられず、再び視線を落とす。
「悪かったよ。心配かけて」
「……うん」
「ほんとに」
短く区切るように言うと、海未はしばらく何も返さなかった。
やがて、紙袋を胸の前で抱えたまま、ぽつりと呟く。
「お兄ちゃんが無事なら、それでよかった」
その言葉は、責めるよりずっと痛かった。守られているのは、自分の方だ。
そんなことは、嫌になるほど分かっている。
けれど今回、自分は確かに誰かを守れたはずだった。あの瞬間、目の前から零れ落ちようとしていたものを、ほんの少しだけでも掴めたはずだった。
なのに、その結果が海未のこの顔だと思うと、胸の奥に沈んだ澱は消えてくれない。
「……そろそろ戻らないと。看護師さんに見つかったら、また怒られるし」
海未がそう言って立ち上がる。
「ああ」
空が頷くと、海未は扉の方へ向かいかけて、ふと立ち止まった。振り返った横顔には、まだ少しだけ不安が残っている。
「お兄ちゃん」
「なんだよ」
「起きてくれて、ほんとによかった」
それだけ言って、海未は今度こそ病室を出て行った。
扉が静かに閉まる。
再び部屋に静寂が戻ると、空はひとり、浅く息を吐いた。
目覚めたばかりの身体は重い。頭の奥にもまだ鈍い痛みが残っている。けれど、それ以上に重いのは、意識を失う直前に使った“感覚”の残滓だった。
嫌悪は消えない。
忘れたことなど、一度もない。
それでも――
空は薄く目を閉じる。
崩れ落ちる瓦礫の下で、伸ばした手の感触だけが、今も妙に鮮明に残っていた。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「失礼します」
入ってきたのは、白衣姿の医師だった。カルテを手にしたまま、空の顔を見る。
「目が覚めたようですね。気分はどうですか」
「……別に」
「頭痛や吐き気は?」
「少し」
医師は短く頷き、手元の記録に何かを書き込んだ。
「過度の疲労による意識消失です。大きな異常はありません。今日は安静にして、問題がなければ明日には帰れます」
大きな異常はない。
その言葉は、ひどく軽かった。
空の中では、何ひとつ軽くなっていないというのに。
「……そうですか」
それだけ返すと、医師は二、三の確認を済ませ、すぐに病室を出ていった。
再び静かになる。
異常はない。問題はない。明日には帰れる。
そう言われても、胸の奥に残るものは少しも薄れなかった。
自分はまた“あれ”を使った。
使ってしまった。
しかも今度は、ただ衝動に任せたわけじゃない。自分の意志で、美景の“感覚”をなぞった。
守るためだったはずなのに、思い返すほど気分が悪くなる。
あの力を使うたび、自分が自分ではないものに近づいていくような気がした。
けれど同時に、瓦礫の下から誰かを引き上げた感触だけは、妙にはっきり残っている。
空は顔を覆うように片手を目元に当てた。
分からない。
何が正しかったのかも、自分が何を嫌がっているのかも。
ただ、もう眠る気にもなれなかった。




