幕間:"普通の恋人"、という実験
――side. 宮藤 玲茄――
金曜日の夕食後。
リビングには、穏やかな時間が流れていた。
ダイニングテーブルでは、茉依と悠希が並んで座り、二人で"ノート"に今日の"レポート"を書き込んでいる。今日は悠希が泊まる日だ。だから私は、もう少ししたら家に帰らなければならない。
帰るギリギリまでこの温度を感じていたくて、私はソファに座る凉の隣にピタリと体を寄せた。
凉は嫌がることもなく、静かに私を受け入れてくれる。
彼の肩に寄りかかりながら、私はゆっくりと今の自分の"心"を分析し始めていた。
茉依、悠希、美琴さん、そして慶。
凉を取り巻く盤面の駒が揃い、私たちの箱庭はこれ以上ないほど強固になった。そのことに安堵しているはずなのに、私の胸の奥底では、ふつふつと黒い感情が沸き立っていた。
――嫉妬。
彼女たちが凉に向ける好意。そして、凉が彼女たちに分け与える優しさ。
それがどうしようもなく目につき、無意識下で抑え込んでいたその感情を、だんだんと自覚できるようになってきてしまった。
私が"あの時"からここまで盤面を整えてきた原動力は、間違いなくこの"嫉妬心"だ。
だが、安定期に入った今のこの状況において、嫉妬は――もう、盤面を乱すだけの不要なノイズでしかない。
(……この気持ちを抑えるために。今は、凉にたくさん甘えなきゃ)
私は、自分の中の黒い靄を溶かすように、凉の腕にさらにギュッと抱きついた。
――side. 井神 凉――
玲茄が、俺の腕にすり寄るように甘えている。
茉依や悠希が同じ空間にいる時、玲茄がこんな風に密着してくることはほとんどない。彼女はいつも、一歩引いて離れた位置から微笑んでいるのが常だからだ。
ふと視線を落とすと、玲茄もこちらを見上げており、パチリと目が合った。
玲茄は少しはにかむように笑ったが、いつもの余裕のある微笑みではない。どこか固さを感じる。何か、胸の内で考え事をしているような表情だった。これは、ただの"甘え"じゃない。
「……玲茄、明日、何も用事なかったよな?」
俺が確認すると、玲茄は不思議そうに目を瞬かせながら、こくりと頷いた。
「ちょっと、ごめんな」
俺は玲茄から体を離して立ち上がり、ダイニングテーブルでノートを書いている二人のところへ歩み寄った。
「茉依、悠希。明日なんだけど、朝から玲茄と出掛けたいんだ。二人には、今度必ず埋め合わせするからさ」
俺がそう伝えると、茉依と悠希は顔を見合わせ、それからソファにいる玲茄の方へ視線を向けた。
「いいよ! 私たちは掃除して、ちゃんとお留守番してるから!」
茉依がにこっと笑って快諾する。
悠希はじっと俺の顔を見つめた後、静かな声で言った。
「玲茄のこと、いっぱい甘やかしてあげて下さい」
「……ああ。ありがとう」
俺がソファに戻って腰を下ろすと、玲茄が俺の首筋に顔を埋めてきた。
「……ありがと。楽しみ」
小さく震えるその声に、俺は彼女の頭をそっと撫でた。
――
翌日。駅前広場。
待ち合わせ場所は家ではなく、あえて外にした。
俺は待ち合わせ時間の三十分前に到着したのだが、それから間もなくして、私服姿の玲茄もやってきた。
お互いの姿を認めた瞬間、
「「……早いって」」
綺麗に声が重なり、俺たちは思わず笑い合った。
電車に乗り、目的の駅へと向かう。場所は、玲茄が以前行ってみたいと言っていた少し遠方の水族館だ。
よほど楽しみだったのか、今日の玲茄はいつもの落ち着いた雰囲気が消え、どこかはしゃいだ、年相応の女の子の顔をしていた。
電車を降りる時には、ごく自然に、玲茄の方から手を繋いできた。
水族館の中は暗く、青い光に包まれていた。
玲茄は大きな水槽の前から一歩も動こうとせず、「わぁ……」と感嘆の声を漏らしながら、泳ぐ魚たちを目で追っている。
その無邪気な横顔を見て、俺は思わずふっと吹き出してしまった。
「なによ……」
笑われたことに気づいた玲茄が、むっとしたように頬を膨らませる。
「いや……可愛いなと思って」
俺が素直に言うと、玲茄は「……ばか」と呟き、耳を赤くして再び水槽の方へ顔を向けてしまった。
その後も他愛のないやり取りを重ねながら、俺たちは余すところなく水族館を堪能し、併設されたレストランで昼食をとった。
帰り際、ギフトショップで茉依たちへのおみやげを買い、本当に、"ごく普通の恋人"のように一日を楽しんだ。
――
夕方。駅前広場の近くにあるカフェ。
俺たちは、窓の外を歩く人たちを眺めながら、カウンター席に座っていた。
「今日、すっごく楽しかったわ。ありがとう、凉」
玲茄が、満足そうな笑みを浮かべる。
だが、その直後。彼女が纏う空気が、スッと変わった。真顔になり、俺の目をじっと見つめてくる。
「ねえ。"普通の恋人"って、こんな感じなんでしょうね。……どうだった?」
その問いの意味を、俺は正確に理解した。
「"普通"なら……今日一日、玲茄のことで頭がいっぱいになるんだろうな」
俺は、玲茄の目を見つめたまま答えた。
「だけど俺は、楽しんでいる玲茄を見ながら、『茉依と悠希が一緒にいたら』とか、『あいつらならこっちのコーナーに行きたがるだろうな』とか……そんなことも考えてた。それって、全然普通じゃないよな」
俺の答えを聞いて、玲茄は「そうね」と短く同意した。
そして、正面を向き、目を閉じてから、ぽつりとこぼした。
「ごめんね。"あの時"、凉の"普通"を、壊しちゃって」
それは、玲茄の中に潜む罪悪感の欠片だったのかもしれない。
俺は玲茄の美しい横顔を見てから、同じように正面を見据えた。
「謝らなくてもいい。俺は、後悔してないから」
普通じゃなくていい。俺たちが――俺が望んだのは、この"歪な楽園"なのだから。
俺の言葉を聞いた玲茄は、ふわりと微笑み、立ち上がった。
「さ、お家へ帰りましょ。茉依と悠希が待ってるわ」
そう言って、俺の腕を引く。
「ああ」と答え、俺も立ち上がって彼女の隣を歩き出した。
家路に向かう俺たちの手は、もう、握られていなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次回から、第九章をスタートします。
第九章公開まで少々お時間をいただきます(4/24~4/30の間には再開いたします)
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