幕間:"痕"を私に置いてって
――side. 井神 凉――
今日の悠希は、明らかに様子がおかしかった。
登校時、コンビニの前で合流した時からだ。隣を歩く悠希から、ずっと射抜くような強い視線を感じていた。
教室に着いてもその異様さは続く。いつもなら茉依や他のクラスメイトと談笑しているようなタイミングでも、今日に限ってはずっと俺の隣に張り付き、無言のまま、ただじっと俺の顔を見つめ続けていた。
そして、昼休み。
俺が隆一や他のクラスメイトたちと、いつものように窓際で雑談していると。自分の席で天井をぼーっと眺めていた悠希が突然立ち上がり、とことことこちらへ一直線に歩み寄ってきた。
そして無言のまま、俺の腕をきゅっと掴んで引く。
「……悪い、ちょっと行ってくる」
隆一たちにそう言い残し、俺は悠希に連れられるまま、使われていない空き教室へと足を踏み入れた。
教室の隅、廊下の扉の窓からは死角になる位置まで来ると、悠希はくるりと振り返り、正面から俺の胸に強く抱きついてきた。
「悠希、どうした?」
背中や頭を優しく撫でながら問いかけると、悠希は俺の胸に顔を埋めたまま、ぽつりと呟いた。
「凉くん。……好き」
学校というパブリックな空間で、悠希がここまで感情を剥き出しにして行動を起こしたことなど、今まで一度もない。これは明らかな異常事態だ。
昼休みの終了まで、あと十分ほど。どうしたものかと思案していると、悠希が不意に顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめてきた。
「……ごめんなさい。でも、不安な気持ちが抜けていってくれないんです」
いったい何があったというのか。……いや、思い当たる節はあった。
様々な用事が重なり、一週間以上、悠希は俺の家に泊まっていない。おそらく、悠希の"充電"が、すっかり空っぽになってしまっているのだ。彼女は今、深刻な禁断症状に陥っているのだろう。
「……今日は悠希の番だろ? もう少しだ。今日は一緒にいような」
「……はい。もう少しだけ、このまま……」
俺の制服をきつく握りしめ、小刻みに震える悠希。
俺は小さく息を吐き、彼女の細い背中に腕を回して、強く抱きしめ返した。
――
夜。俺の部屋。
家に帰ってからも、悠希は俺から決して離れようとしなかった。
夕食も、箸は動かすが、それを一度も口に運んでいない。"あの時"と同じように。
玲茄と茉依もその様子を見て、その深刻性を理解したのか「悠希をお願い」と早々に帰宅していった。
布団に入ると、悠希は俺の胸に顔を押し当て、腕を背中に回し、少しでも密着する面積を増やそうとするように身体をすり寄せてくる。
「やっと……やっと、息ができます……っ」
熱に浮かされたような声で呟きながら、悠希は俺のパジャマの生地をきつく握りしめた。
俺の体温と繋がっていないと、彼女の中にある"喪失の恐怖"が顔を出してしまうのだ。あの冬の、あの"絶望の淵"へと引きずり込まれるような感覚に。
「……凉くんまでいなくなったら、私、今度こそ本当に生きていけません」
震える声でこぼす彼女の頭を、俺はゆっくりと撫でた。
「いなくならないよ。俺は、お前のそばにずっといるからな」
「ずっと……?」
「ああ、ずっとだ」
俺が力強く抱きしめると、悠希は「……っ、あぁっ」と小さく嗚咽を漏らし、安心したように俺の胸で静かに泣いた。
やがて、彼女はゆっくりと顔を上げ、熱を帯びた、甘く湿った瞳で俺を見つめてきた。
「凉くんで……いっぱいにしてください」
すがるように囁きながら、悠希の指先が俺のパジャマの裾へとかかる。
俺は彼女の細い背中に腕を回し、深く唇を重ねて、その狂おしいほどの渇きを、夜の底までゆっくりと満たしていった。
――
翌朝。
窓から差し込む淡い光で目を覚ますと、俺の腕の中で、悠希はすでに起きていた。
彼女は仰向けの状態で、自身の下腹部を、愛おしそうにゆっくりと両手でさすっていた。
「……悠希? どうした?」
俺が声をかけると、悠希はさする手を止めないまま、静かにこちらへ顔を向けた。
その表情は、聖母のように穏やかで、けれどどこか不自然なほどに澄み切っていた。
「……私と凉くんの子供がお腹にいたら、こんな風に不安になることも、なくなるんでしょうか」
ぽつりと落とされたその言葉の重みに、俺は息を呑み、何も言い返すことができなかった。
沈黙する俺を見て、悠希はふわりと柔らかく微笑んだ。
「赤ちゃんは、いりません。……まだ」
まだ。
そのたった二文字の言葉が、ひどく冷たく、そして重い呪いのように。
俺の耳の奥で、いつまでも反響し続けていた。




