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監視者の免罪符、偽りの境界線

――side. 井神 凉――


 昼休みの教室。


 教室内の空気は、どこか落ち着きがなく浮ついていた。

 原因は単純だ。今日はバレンタインデー。

 男子たちは朝から期待と不安を隠しきれず、この時期特有の青臭い空気が教室に充満している。


 そんな喧騒を断ち切るように、教卓の上がパッと華やいだ。


「はーい! 私たちが作ったひとくちガトーショコラは、一人一個だよ!」


 茉依が弾けるような笑顔で、教卓に大きめの箱を置いた。中から小分けにされたたくさんの小さな袋を取り出していく。

 その瞬間、クラスの男たちから怒涛のような歓声が上がった。


「よっしゃあ!」

「マジか、あの三人の手作りかよ! 生きてて良かったー!」


 浮足立つ男子たちを横目に、悠希が淡々と付け加える。


「作ったのはほとんど私と玲茄ですけどね。茉依はつまみ食い担当でしたから」

「ちょっと悠希、ひどい! 私も袋詰め頑張ったもん!」


 二人のやり取りに教室がドッと沸く。

 玲茄が柔らかい笑みを浮かべ、クラス全体を見渡した。


「男子だけじゃなくて、女子の分も用意してあるわ。みんな、遠慮しないで持っていってね」


 その言葉に、女子たちも「ありがとう!」「宮藤さん大好き!」と教卓へ群がる。その中には、石井に連れられた慶の姿もあった。


 俺と隆一、それに数人のクラスメイトは、その様子を窓際から眺めていた。

 手には、教卓に行く前に渡された小さな袋がある。


「……義理でも、あの三人の手作りがもらえるなんてな。このクラスで良かったぜ」


 クラスメイトの一人が、尊いものを見るような目で呟いた。周りの男たちも深く頷き合っている。

 俺と隆一は、早速袋を開けて口に放り込んだ。


「うめぇ。あいつら、頭が良いだけじゃなくて料理まで得意なんだな」

 隆一が本気で感心したように、ガトーショコラを咀嚼している。

 俺たちの"箱庭"は、こうして周囲の好意に包まれながら、また一歩、平穏な日常へと擬態していく。


 そんな時だった。


「はい、こっちの君たちにも"義理"チョコをあげよう」


 石井を伴った慶が、小さな袋を持って俺たちのところへやってきた。

 彼女は市販品のチョコを隆一や他のクラスメイトに配っていく。


「おお、マジか四谷! ありがとうな!」

「まさか四谷からももらえるなんて、今日は当たり日だぜ」


 喜ぶ男たちを横目に、慶が俺の方を向いた。

 そして、先ほど配っていたものとは明らかに違う、厚みのある大きな箱を俺の手に載せた。


「凉には、はい、これ」


 一瞬、周囲の時間が止まった。

 隆一たちが「えっ……」と声を失って固まり、石井も目を丸くして、教卓にいる三人と慶を交互に見比べた。


「あんた、それ……」


 石井の問いかけに、慶は事も無げに、だがはっきりと言い放った。


「うん。本命」


「……マジでか!?」


 隆一たちは周囲に気づかれないよう配慮しながらも、驚愕している。俺が「……ありがとう」と受け取ると、慶は困ったように、けれどどこか楽しげに笑って見せた。


「てかね、うち凉に告ったんだけどさ、フラれちゃったんだよね。で、色々あって、めげずにこんな状態なの」


「いや、意味わかんねーし!」


 石井の鋭い突っ込みに、男たちも「フラれて本命?」と困惑した顔をしている。

 慶は彼らを見渡し、まるで重大な秘密を共有するように声を落とした。


「凉とあの三人ってさ、付き合ってないのはみんな知ってると思うけど……なんか近くで見てたら気づいたんだ。この人たち、恋愛ってものをさっぱり理解できてないし、たぶんそこらへんのネジが飛んでるのね」


 その言葉に、何人かが「あー……」「なんとなくわかる気がする」と声を漏らす。


「だからさ、誰か一人を外から引っ張ろうとしたり、抜け駆けしようとすると、あの三人の猛反撃に遭うのよ。でもね、崩そうとしないで『一緒に楽しもう』って入っていくと、案外すんなり受け入れてくれるんだ」


 慶は誇らしげに胸を張った。


「だから、これから先どうなるかわからないけど。うちは、このよくわからない関係を監視して、変なことし始めたら突っ込む立ち位置になったの。目指してる大学も同じだから、大学でもそんな感じでやっていこうかなって」


 いつの間にか、クラスのほとんどが慶の話に聞き入っていた。

 井神たちが浮世離れしているのは、そういう理由だったのか――。

 周囲の納得が、波のように広がっていく。


 実際には、そんな綺麗な話ではない。

 だが、慶が提示した"監視者"という役割は、第三者にとってこれ以上ないほど"都合のいい理由付け"となった。

 彼女は今、自ら進んで、俺たちの異質さを外部の常識へ翻訳する"防波堤"として機能し始めているのだ。


「でもよぉ……」


 一人のクラスメイトが、遠い目で呟いた。


「四谷のこと狙ってた奴って結構いたのに……これ、みんな玉砕しちまったな」


「あはは。ごめんね、みんな諦めて!」


 四谷は誰に向けたわけでもなく、明るく手を合わせて謝っていた。

 その隣で俺は、視線を教卓の方へ向け、玲茄の微笑んだ顔を見つめていた。



 ――


 夕方。

 俺の家のリビングでは、四人と慶が集まってお茶を飲んでいた。


「あんな感じで良かったかな、凉」


 慶が少し不安げに上目遣いで尋ねてくる。


「ああ。ありがとうな」


 俺が彼女の頭をそっと撫でると、四谷は頬を赤くして「えへへ」と相好を崩した。

 玲茄が紅茶を注ぎ足しながら、穏やかに問いかける。


「慶、今日は夕食、どうする? よかったら食べていく?」


「ううん、今日はこれ飲んだら帰るよ! お姉ちゃんのところに行く約束してるから」


 紅茶を飲み干した慶は「また明日ね」と手を振り、軽やかな足取りで家を出ていった。


 彼女がこの箱庭に加わり、人員配置は完了した。

 あと一年――いや、俺たちのこの箱庭の行く末が決まるまで、十か月。


 険しい道だ。だが、やり遂げなければならない。

 誰も欠けることなく、この歪で美しい"名前のない楽園"を守り抜くために。

 俺たち四人が、四人で居続けるために。

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