契約の押印、背中を押す鉄の茨
――side. 井神 凉――
休み明けの月曜日。四谷は、学校を休んだ。
石井のところには「ちょっと熱が出ちゃって」と連絡があったらしい。俺たちの、"箱庭の中枢"を見せつけられたのだから、当然の拒絶反応だろう。このまま俺たちと距離を置くのが、彼女にとって一番の正解だ。
だが、翌日の火曜日。
四谷は、何事もなかったかのように教室に姿を現した。
「おはよー、石井! 昨日はごめんねー」
「もう、心配したんだからね。無理しないでよ?」
石井と笑い合うその姿は、どこからどう見ても『普通の明るい女子高生』のそれだった。
しかし、俺の目から見れば、彼女が纏う空気には明らかな違和感があった。無理をしているわけではない。ただ、彼女の中で外れてはいけない何かが外れ――そのまま、別の形で組み直されてしまったような。そんな薄ら寒さがあった。
昼休み。俺が席を立とうとした時、四谷が足早に近づいてきた。
「井神くん。……放課後、ちょっとだけ時間ちょうだい」
周囲に怪しまれない程度の、自然なトーン。俺は小さく頷いて、それに応じた。
――
放課後。
四谷に連れられてやってきたのは、西日の差し込む使われていない空き教室だった。
四谷は窓を背にして立ち、俺を真っ直ぐに見据えた。
その瞳には、一昨日の俺の家で見せたような怯えや絶望はない。あるのは、ひどく歪で、盲目的な決意の光だった。
「井神くんたちが、頭狂ってるのはよく理解した」
四谷の口から紡がれたのは、静かな宣戦布告のような言葉だった。
「でも、そんな狂ってるあなたのことが好きな気持ちが、どうしても消えてくれないの。……だから、一緒にいさせてください」
「……」
「でもね。うちもその狂った仲間に入って、一緒に狂いましょ、とはならないから」
四谷は、自らを保つための強固な盾を構えるように、はっきりと言い放った。
「うちはうちで、自分のルールの中で、好きにさせてもらうね。……それでも、いいですか?」
――なるほど。
俺は内心で、ひどく冷めた感嘆の息を漏らした。
彼女は今、自分なりの妥協点を見つけ、俺に"条件"を突きつけているつもりなのだろう。自分は"染まらない"。いつでも逃げられる安全圏から、自分のルールで関わるのだと。
だが、それは俺たちが彼女に求めていた"役割"そのものだ。
彼女は、反抗しているつもりで、自ら進んで最も都合のいい"場所"におさまってくれたのだ。
「ああ。それでも構わないよ」
俺があっさりとそう答えると、四谷の肩からふっと力が抜け、その表情が普通の恋する女の子のように柔らかく綻んだ。
「そっか。……んじゃ、これで契約完了ってことで」
四谷は一歩だけ俺に近づき、少しだけ背伸びをした。
そして、甘えるような、少しだけ独占欲を滲ませた声で俺を呼んだ。
「――凉」
呼び方が、変わった。
四谷はそのまま、んっ、と目を閉じ、俺に向かってわずかに唇を突き出してきた。
それは彼女にとって、俺との繋がりを確かなものにするための、ロマンチックで特別な儀式なのだろう。
俺は内心で小さくため息をつきながら、目を閉じている彼女の震える唇に、自らの唇を重ねた。
何の熱も、何の感情もない。ただの、契約の押印としてのキス。
だが、四谷はそれだけで満たされたように、俺の肩にすがりつき、幸せそうに吐息を漏らしていた。
――side. 宮藤 玲茄――
空き教室から少し離れた、静かな廊下の曲がり角。
壁に背中を預けていた私は、ふふっと艶やかな笑みを零した。
これで、完了ね。
第三者視点で箱庭を守る、新たな構図の完成。
慶は「自分は普通だ」と思い込んだまま、私たちの箱庭を外から隠すための、優秀な防波堤になってくれた。
彼女はもう、絶対に凉から離れられない。
いつでも逃げられるという甘い建前を抱きしめたまま、外側から私たちを見つめ続ける、哀れで愛おしい共犯者。
欲望は、一度満たされてしまえば、その味を忘れられなくなる。
しかも、満たされるまでの道のりが険しかった分だけ――鉄の茨が背中を押してくるの。
あなたは、幸せよ? 慶。これから、どのくらい凉に溺れるのかしら。
「……さて。茉依と悠希を迎えに行かないと」
私は一人、誰もいない廊下に靴音を響かせながら。
この狂った愛おしい楽園を、さらに盤石にするために、ゆっくりと歩き出した。




