幸福な自己欺瞞
――side. 四谷 慶――
気がつけば――
うちはまた、冷たいコンクリートの床に膝を抱えて座り込んでいた。
お姉ちゃんのアパートのドアの前。
井神くんの家からどうやってここまで辿り着いたのか、記憶がひどく曖昧だった。
ただ、脳裏にはあの狂った光景が、何度も何度もリフレインしている。
折崎先輩がすり寄り、茉依ちゃんが甘え、悠希ちゃんがその手を撫でる。
――そのすべてを、玲茄が微笑んで見ていた。
やがてうちの方を向いて。
なにもしゃべってないのに。
問いかけられているような、逃げ場のない目で見つめてきて――
「……う……」
思い出すだけで、吐き気がする。
あんなの、絶対に"まとも"じゃない。うちの知っている恋愛でも、青春でもない。
どれくらいそうして蹲っていたのだろう。いつのまにか、周りは真っ暗になっていた。
井神くんの家からは、お昼前くらいに出てきたんだっけ。頭、全然回らないや。
ただ、黒い絵の具で塗りつぶされたような視界の中で、意味もなくまばたきを繰り返すことしかできない。
やがて、静寂を破るように、コツコツという足音がこちらへ近づいてきた。
「……えっ。慶!?」
仕事から帰ってきたお姉ちゃんが、うちの姿を見つけて駆け寄ってくる。
うちはゆっくりと顔を上げ、冷え切った足に力を入れて、自力で立ち上がった。
この前みたいに、泣き叫んだりはしなかった。もう、涙すら枯れ果てて、心の中が空っぽになっていたから。
「どうしたの……また、何かあったの?」
心配そうに顔を覗き込んでくるお姉ちゃんに、うちは焦点の合わない目を向けたまま、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、あの人たちは、普通じゃなかったよ」
お姉ちゃんは息を呑み、そして、痛ましそうな顔でうちの肩を抱き寄せた。
「……そっか」
「うん。あんなこと、聞かなきゃよかった。あんな世界、知らなきゃよかった」
部屋に入り、温かいソファに座らされても、うちの体の震えは止まらなかった。
完全にうちのキャパシティを超えた狂気。
あの中に踏み込めば、うちなんて簡単に壊れてしまう。だから、絶対に引き返さなきゃいけない。
「……でもね」
うちは、自分の胸をぎゅっと掴んだ。
「でも……好きなんだよね。あんなの見ちゃったのに。どうしても、井神くんのことが、好きなの。……離れたくないの」
どれだけ異常でも。どれだけ歪でも。
今までずっと見つめてきた、優しくて、かっこよくて。うちの不器用な彼への気持ちが、どうしても消えてくれない。
逃げ出したい恐怖と、手放したくない執着。その二つがうちの中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、息ができないほど苦しかった。
そんな、どうしようもない自己矛盾に引き裂かれそうになっているうちの頭を。
お姉ちゃんが、ぽん、と優しく撫でた。
「ならさ。それこそ、慶の好きなように付き合っていったらいいじゃん」
「……え?」
お姉ちゃんは、うちの背中を力強く押すように、明るく、はっきりと言った。
「あっちが普通じゃないなら、あっちの土俵に上がって、まじめに言うことなんて聞いてやらなくていいんだよ」
「まじめに、言うこと聞かない……?」
「そう。向こうのルールに合わせる必要なんてないの。慶は慶の土俵の範囲内でなら、何したっていいじゃん。『私は私のルールで好きにさせてもらう』って、堂々としてればいいんだよ」
――ドクン、と。
うちの心臓が、大きく脈打った。
(……そっか。そうすればいいんだ)
お姉ちゃんのその言葉は、真っ暗闇の中で見つけた、一筋の蜘蛛の糸だった。
井神くんは『"壁"になることが、うちと一緒にいられる唯一の条件』と言った。
玲茄は『耐えられないなら教えなさい』と言った。
でも、うちはそれにバカ正直に従う必要なんてないんだ。
向こうが勝手に決めたルールに、付き合う義理なんてない。
うちはあくまで"普通の女の子"として、うちのルールの範囲内で、彼と一緒にいる権利だけを勝ち取ればいい。
一線を引いて、いつでも逃げられる場所に立ちながら、都合のいい時だけ彼に触れればいいんだ。
――それなら、壊れずに済む。
「……そっか。……そうだよね」
うちの口から、ふうっと深い息が漏れた。
胸につっかえていた重い泥のようなものが、嘘みたいにスッと消えていくのを感じた。
「なんか……わかったかも。ありがとう、お姉ちゃん」
うちは、今日一番の笑顔を作って、お姉ちゃんの方を向いた。
「うんうん。慶が後悔しないのが一番だからね」
お姉ちゃんは安心したように微笑み返してくれた。
きっとお姉ちゃんは、うちが『彼と対等な関係を築く』ためのアドバイスをしてくれたんだと思う。
「……ふふっ」
うちは、笑った。
心はすっかり晴れやかだった。これで、大好きな井神くんと一緒にいられる。
ただ――向かいの窓ガラスに映るうちの瞳は。
光を一切反射しないほどに、
虚ろで――濁りきっていた。




