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恋焦がれた先は――ただの、壁

――side. 四谷 慶――


 翌日、日曜日。

 うちは指定された時間通りに、井神くんの家のインターホンを押した。


 心臓が、痛いほどバクバクと鳴っている。

 昨日のカラオケで突きつけられた、あの冷酷な言葉。それでも、彼と繋がりを絶たれる恐怖の方が勝ってしまい、うちはフラフラとこの場所へ足を踏み入れてしまった。


 ガチャリ、と重い扉が開く。

「……おはよう、四谷」

 出迎えた井神くんの声には、感情の色が一切なかった。


 靴を脱ぎ、彼に案内されるままリビングへと足を踏み入れる。

 そこは、息が詰まるほどに甘く、そして重苦しい空気が立ち込めていた。


「慶。いらっしゃい」


 ソファの中心に腰を下ろしていた玲茄が、優雅に微笑む。

 その隣には、茉依ちゃんと悠希ちゃん。そしてダイニングテーブルの椅子には、元生徒会長である折崎先輩が、まるで当然のように鎮座していた。

 この"四人の女たち"が、一つの空間で完全に調和し、静かにうちを見つめている。


 井神くんが玲茄たちの座っているソファに近づくと、玲茄はすっと床に降りて彼を座らせ、そのまま脚に寄り掛かった。

 うちは震える膝を必死に抑えながら、井神くんの正面、ローテーブルを挟んだ小さなソファに、ちょこんと腰を下ろした。


「四谷」

 井神くんの低く、冷たい声が響く。


「……本当に、踏み入れる覚悟はあるか。これから先の話を聞いたら、もう、ただのクラスメイトには戻れない。引き返せないぞ」


 最終確認。

 この部屋の異様な空気。昨日言われた『倫理を捨てる』という言葉。

 普通の感覚なら、ここで逃げ出すべきなんだ。頭の片隅で警鐘が鳴り響いているのに。


「……はい」


 うちは、彼との繋がりを失いたくない一心で、致命的なその二文字を口にしてしまった。


 井神くんは短く「そうか」と呟くと、そこから、淡々と"真実"を語り始めた。

 まるで、今日の天気でも教えるかのような、平坦で事務的な声。


 井神くんを中心として、彼女たちがどのように成り立っているのか。

 この倫理が排除された箱庭で、どんな常識外れの"生活"が、毎日当たり前のように繰り返されているのか。


 語られる内容は狂っているのに、この部屋にいる全員が「それが正解だ」と信じて疑っていない。


 でも一番恐ろしかったのは、私と同じ"一般人"だったはずの折崎先輩が、この歪な世界に、すっかり溶け込んでいるという事実だった。


 井神くんの目が、真っ直ぐにうちを射抜く。

「俺たちの関係は、社会から見ればただの"異物"だ。だからこそ、外部の人間に対して、『俺たちは"普通"である』とカモフラージュするための、第三者の視点が必要になる」


「第三者……の、視点」

「ああ。俺たちと一緒にいながら、外側から俺たちを守るための、"一般人"の壁。……それが、四谷が俺と一緒にいられる唯一の条件だ」


 ――ガツン、と。

 頭を殴られたような衝撃だった。

 恋人になれないどころの話じゃない。彼らを外の目から守るための、ただの"壁役"。それが、うちの存在価値。


「……あ……」

 言葉を失ううちの目の前で、追い打ちをかけるように信じられない光景が繰り広げられた。

 あろうことか、あの厳格だった元生徒会長の折崎先輩が、いつの間にか床を這うようにして井神くんの足元にすり寄り、その太ももに愛おしそうに頬を擦り寄せたのだ。


「涼ちゃん……私も、役に立っているだろう……?」

「ああ。みこねぇはよくやってるよ」


 井神くんが頭を撫でると、折崎先輩はとろけるような、見たこともない甘い表情を浮かべた。


「りょーくん。お話終わった?」


 甘ったるい声を出して、茉依ちゃんが井神くんの首筋に顔を寄せる。

 さらには、悠希ちゃんまでもが、トロンとした目で井神くんの手を愛おしそうに撫で始めたのだ。


 そこに、嫉妬はない。

 別の女の子が彼に甘えているのを見ても、玲茄はただ、聖母のように美しく微笑んでいるだけ。


 恋愛じゃない。これはもう、別のなにかだ。


「……あ……あ……」

 喉がひゅくひゅくと鳴るだけで、まともな呼吸すらできない。


 そんな、限界を迎えて震えるうちの肩に。

 ふわりと、玲茄が優しく手を置いた。


「今日は、このまま帰りなさい」


 玲茄の顔が、うちの耳元に近づく。

「無理して今すぐに答えを出さなくていいわ。……どうしてもダメそうだ、耐えられないって思ったら、私に教えてね」


 それは、優しさのようでいて、絶対にうちを逃がさない悪魔の囁きだった。


「……っ」


 うちは弾かれたように立ち上がり、誰の顔も見れないまま、逃げるように玄関へと駆け出した。


 重い扉を開け、冬の冷たい外気の中に飛び出す。

 背後で扉が閉まる音が、うちと彼らの生きる世界を隔てる、残酷な境界線の音に聞こえた。


 うちは、自分がどこをどう歩いているのかもわからないまま、ただ虚ろな目で、お姉ちゃんのアパートへと向かってふらふらと歩き続けていた。

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