優しい魔法と冷たい現実
――side. 四谷 慶――
三人でのお出かけから帰ってきたその日の夜。
うちはお姉ちゃんのアパートに転がり込み、今日あった出来事をすべて報告していた。
「……っていうことがあってね。次は、井神くんと二人でお出かけ行くんだ!」
ホットミルクの入ったマグカップを両手で包み込みながら、うちは弾むような声で言った。
昼間からずっと感じていたモヤモヤした嫉妬も、違和感も、今は「好きな人と二人きりでデートできる」という幸福感で薄れてしまっていた。
「そっか。……良かったね、慶」
お姉ちゃんは、いつものように優しく微笑んでくれた。
でも、ほんの一瞬。うちから視線を外し、何か不安そうな、怯えるような表情をしていた。
「……お姉ちゃん?」
「ううん、何でもない。……慶が自分で決めたことなら、お姉ちゃんは応援するよ。楽しんでおいでね」
「うんっ!」
お姉ちゃんのわずかな強張りが気にならなかったわけじゃない。
でも、恋に浮かれたうちの頭は、彼との二人きりのお出かけのことでいっぱいで、それ以上深く考えることはできなかった。
その後、学校で玲茄から提案され、お出かけの日はすぐに今週末へと決まった。
そこからの数日間は、何を着ていこうか、何を話そうかと考えているだけで、あっという間に過ぎていった。
――
そして迎えた、約束の週末。
井神くんとの二人きりのお出かけは、まさに夢のような時間だった。
隣を歩く井神くんは、先週と同じように周りに気を配り、うちの歩幅に合わせて歩いてくれる。玲茄たちがいない今日だけは、まるで彼を独り占めできているような、自分が特別な彼女になったような錯覚に陥りそうだった。
昼食後、うちらは駅裏のカラオケ店へと入った。
狭くて薄暗い、二人きりの密室。
数曲歌った後、曲が途切れ、部屋の中に静寂が落ちた。画面の光だけが、ソファに座る私たちの顔を青白く照らしている。
(……言うなら、今しかない)
うちはマイクをテーブルに置き、膝の上で両手をぎゅっと握りしめた。
心臓が、破裂しそうなほどうるさい。でも、今日一日彼から貰った優しさが、うちの背中を押してくれていた。
「井神くん」
「……ん?」
「もう、バレちゃってるだろうけど、ちゃんと言うね」
うちは顔を上げ、彼の涼しげな瞳を真っ直ぐに見つめた。
「うち……井神くんのことが、好きです」
言葉は、すぐには返ってこなかった。
井神くんは驚くわけでも、照れるわけでもなく。ただ静かに、凪いだ海のような瞳でうちを見つめ返した。
「ありがとう」
紡がれたのは、ひどく穏やかな声だった。
でも、続く言葉は、うちの淡い期待を無残に打ち砕くものだった。
「でも、四谷の恋人にはなれない」
きっぱりとした、一切の迷いもない拒絶。
わかっていた。わかっていたはずなのに、胸の奥がギリッと音を立てて痛んだ。
視界がじわりと滲む。でも、ここで泣いて『さよなら』なんて絶対に言いたくない。
彼との繋がりが完全に切れてしまうくらいなら――。
「……っ。なら、恋人じゃなくてもいい。恋人じゃなくても……井神くんと一緒にいれる権利は、ありますか……?」
自然と、そんな言葉が漏れていた。惨めだとわかっていても、食い下がるしかなかった。
すると、井神くんの纏う空気が、ふっと変わった。
「四谷が望むなら、"違う形"でなら関われる」
先ほどまでの"優しい男の子"の皮が剥がれ落ち、底知れない冷たさを孕んだ"何か"が顔を出したような――息が詰まるほどの、圧倒的な威圧感。
「……だが、その領域に踏み入るなら。今後知ること、聞くことは、絶対に誰にも漏らさないと誓ってもらう必要がある」
淡々とした声が、狭いカラオケの部屋に響く。
「しかも、いざ踏み込んでみて、『やっぱり無理でした』なんてことは絶対に許さない。……それに」
井神くんの目が、鋭くうちを射抜いた。
「俺たちの関係を続けるため、守るために、四谷にやってもらうこと、動いてもらうことが出てくる。それは、一般常識からかけ離れた、倫理なんてドブに捨ててるような、そういうレベルのことが次々出てくるかもしれない。……その時、『できません』と言うことは、許さない。俺たちと一緒にいるということは、そういうものから逃げられないということだ」
背筋が、ゾクゾクと粟立った。
それは警告でも、忠告でもない。
絶対的な服従を強いる、"悪魔との契約"だった。
一般常識からかけ離れたこと。倫理をドブに捨てるようなこと。
――そんなこと、普通の女子高生であるうちが、できるわけがない。
恐怖と混乱で、喉がひゅっと鳴った。
『はい』なんて、簡単に言えるはずがない。でも、『いいえ』と言えば、彼との繋がりはここで絶たれてしまう。
「……っ、う、うぅ……っ」
答えられない。
でも、失いたくない。
うちはたまらず両手で顔を覆い、ポロポロと涙を零しながら訴えた。
「はいって、言えない……っ。でも、離れたくない……! 離れたくないんだよぉ……っ!」
みっともなく泣きじゃくるうちを、井神くんはただ黙って見下ろしていた。
やがて、彼はゆっくりとソファから立ち上がった。
「……なら。明日の午前十時、俺の家に来るといい。そこで、決めてくれ」
それだけ言い残し、彼は伝票を手に取った。
その後、駅前まで送ってくれた井神くんの背中は――もう昼間のように歩幅を合わせてはくれず、触れることすら許されないほど、冷たく、遠く感じられた。
駅前広場で「じゃあな」とだけ告げて去っていく彼を見送りながら。
うちはただ、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、一人で立ち尽くすことしかできなかった。
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次回更新は4/9予定です。




