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誰もいない夜

 ――side. 井神 凉――


 夜。

 本来なら、今日は玲茄が泊まる日だった。


「今日は帰るわね」


 そう告げられた声に、特別な理由がある様子や感情の揺れは含まれていなかった。

 たまにあることだ。


「そっか」

「また明日」


 会話はそれだけで終わる。

 こういうイレギュラーな日は、次の順番である茉依か悠希が繰り上げて泊まる。それが、俺たちの間のいつもの流れだ。


 ……だったはずだが。


「私も今日は帰るねー。明日、朝からお母さんのお手伝いあるんだー」

 茉依はあっけらかんと言って、軽やかに鞄を肩にかけた。


「悠希は?」

「私もです。……今日は、お家でやることがあって」


 三人とも、同じような温度で、同じ方向を向いている。

 事前に相談した様子も、その場で示し合わせた気配もない。


 ただ、流れるように"今日は誰も残らない"という結果に収束した、というだけだ。


「じゃあ」

「またねー」

「おやすみなさい」


 玄関で三人を見送って、ドアを閉める。

 鍵を回す無機質な金属音が、やけに重く家の中に響いた。


 ――静かだ。


 テレビはついていない。キッチンも暗い。

 ついさっきまでこの空間を満たしていた三人の気配と生活音が、潮が引くように一気に消え去っている。


 俺はリビングに立ったまま、しばらく動けなかった。


 誰もいない。

 ただそれだけのことなのに、思考に奇妙な空白ができる。


「……」


 ソファに腰を下ろす。

 いつもなら誰かが座り、俺に体温を預けてくる場所。右を見ても左を見ても、今はぽっかりと空間が空いているだけだ。


 今日は、肩にかかる髪の感触もない。

 俺の反応を探るような、甘い視線もない。


 それを"物足りない"と思うのか、あるいは"自由だ"と思うのか。

 自分でもよくわからなかった。


 寂しいとは違う。落ち着かないわけでもない。


 ただ、"一人でいる"という感覚の輪郭を、すぐには思い出せなかった。

 自分だけの、誰の目も意識しなくていい夜。


 風呂に入り、明日の準備を済ませ、歯を磨く。

 コップを洗う音も、衣擦れの音も、すべてが一人分だ。誰とも歩調を合わせる必要がない分、支度はいつもより早く終わった。


 部屋の明かりを消し、布団に入る。


 シーツは、驚くほど平坦だった。

 くしゃりと音を立てて沈み込むのは、俺一人分の質量だけ。


 暗闇の中で、天井を見る。


 ――思えば。


 この一年、こうして完全に一人で夜を迎えることは、ほとんどなかった。

 常に誰かがいて、別の呼吸があって、直接触れていなくても、すぐそこに"他者"がいた。

 それが、俺が維持し続けてきた"形"だったから。


 一人でも、眠れる。

 明日も、普通に朝は来る。


 静かな部屋で、自分の心臓の音だけが一定のリズムを刻んでいる。

 目を閉じる。

 明日になれば、また四人で並んで登校する。それを全く疑っていない自分がいた。



 ――


 朝。


 目覚ましが鳴る前に、ふと目が覚めた。

 いつもより少しだけ深く、すっきりとした目覚めだった。


 身支度をして、家を出る。

 頬を撫でる春の風が、昨日より少しだけ冷たく感じられた。



 ――


 いつものコンビニの前で、三人の姿を見つける。

 目が合って、吸い込まれるように自然に合流する。

 その距離感は、寸分違わずいつも通りだった。


「おはよ、凉」

「りょーくん、おはよー! よく眠れた?」

「おはようございます、凉くん」


「あぁ、おはよう」


 それ以上、何かを言う必要はなかった。

 誰も泊まらなかった夜を経て、俺たちは何一つ変わっていなかった。


 俺たちは、今日も四人でいる。

 それ以上の理由は、ない。

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