ほどけないまま、日常へ
――side. 井神 凉――
――朝。
目を覚ます。
カーテン越しに部屋を照らす光の温度は、昨日と同じはずだった。なのに、胸の奥の歯車だけが、まだ現実と噛み合っていない。
今日から、いつもの一日が始まる。
頭ではそう理解しているのに、なにか最も大切なものを、どこか遠い場所に置き去りにしてきてしまったような空虚さが消えなかった。
朝食をとり、学校の準備をし、制服に袖を通す。
身体は迷いなく、機械のように動く。全部、いつも通りだ。
それでも、鏡に映った自分は、昨日までとはほんの少しだけ違う、見知らぬ誰かのように見えた。
――
コンビニ前。いつもの場所、いつもの時間。
「おはよー!」
「おはようございます、凉くん」
茉依と悠希が、いつも通りに手を振る。
少し遅れて、玲茄も現れた。
「おはよ、凉。……二人とも」
目が合った、その一瞬。
玲茄の黒い瞳が、ほんのわずかに長く俺の顔に留まった。
言葉は何もない。
けれどそれだけで、隠したはずの心の裏側まで見透かされたような気がして、俺はたまらず視線を逸らした。
――
四人で歩き出す。
話題は、学校や家での些細な話。
すべてが、何一つ変わらない日常の風景だ。
その間も、胸の奥では言葉にならない"何か"が、静かに、けれど激しくざわめき続けていた。
――
教室。
「お、昨日ぶりだな」
「今日からまた、いつもの学校だね」
隆一と白峰が、日常に適応した屈託のない笑顔で言う。
授業の合間、昼休みの時間。三日間の思い出を、六人で楽しく共有する。
ありきたりな相槌を打ちながら、ふと、また隣の玲茄と目が合った。
彼女は何も言わずに、俺の横に立つ距離を、数センチだけ詰めてくる。ほんのわずかに触れ合う二人の肩から、彼女の静かな熱が伝わってきた。
――夜。
四人で夕食をとっていたときだった。
「今日泊まるの、私からでいい?」
唐突に、玲茄が言った。
「外泊も挟んだし、リズム戻したいから。いいかな?」
「うん、いいよー」
「私も大丈夫です。お願いしますね」
茉依と悠希は一瞬だけ視線を交わし、それから慈しむような、ひどく大人びた表情で静かに頷いた。
その「お願いしますね」という言葉の意味を、俺だけが測りかねていた。
――
「じゃ、また明日ね」
「おやすみなさい、凉くん」
俺と玲茄は、二人を玄関で見送る。
カチリ、と鍵の回る音が響いた瞬間、周囲の音をすべて吸い込むような静けさが、重低音を伴って落ちてきた。
リビングへ戻ろうとしたところで、前を歩いていた玲茄が不意に足を止める。
どうしたのかと声をかけるより早く、振り返った彼女に、正面から強く抱きしめられていた。
ただ、まっすぐに。一切の逃げ道を塞ぐという、強い意思を込めて。
一瞬、俺の身体が強張る。
「……隠さなくていいよ」
耳元で響く、いつもより低く、湿り気を帯びた声。
「私には、分かるから。凉が今、どこにも行けなくなってること」
首元に回された腕が、俺の背中を包み込む。
胸に押し当てられた強烈な体温と、彼女の甘い匂いが、俺から思考する余地を奪っていく。
重なる鼓動が、俺のものか玲茄のものか、判別がつかなくなっていく。
「……わからないんだ」
気づけば、肺に溜まっていた泥を吐き出すように、声が漏れていた。
「何が、どうなのか。楽しかったはずなのに、帰ってきたら、何かが足りない気がして……でも、それが何かも、ダメな理由も、全部わからない」
言語化しようとするたびに、意味が指の間から零れ落ちていく。
玲茄は何も言わない。ただ、俺の不安を押し潰すように、腕の力をさらに込める。
「いいよ。わからなくて」
否定もせず、肯定もせず。
ただ、絶対に離れない。
そのまま、重なり合うように唇が触れた。
熱。
思考を溶かし、虚無を塗りつぶすための、暴力的なほどの熱。
優しさと呼ぶには遠すぎて。慰めと言うには近すぎた。
それは、現実という迷路で行き場を失った俺にとっての、唯一の"出口"だった。
息が乱れ、皮膚の感覚が言葉を追い越していく。
「……お風呂」
「明日で、いいよね」
甘い囁きが、俺の理性を完全に押し流した。
視界が滲み、昨日から引かれていた境界線が溶けて消えていく。
わからないまま、わからないことすらどうでもよくなるほどに、俺たちは深く、果てしなく混ざり合った。
――
朝。
目を覚ますと、玲茄が俺の上で顔を覗き込んでいた。
無言で、目だけが合う。
胸の奥は、驚くほど静かだった。
けれど、完全な白紙に戻ったわけではない。
少なくとも、昨日までの息苦しい軋みと焦燥感は、玲茄の熱によって形を変え、俺の中に沈殿していた。
二人でシャワーを浴び、何も言わずに朝の支度をする。
――玄関。
「……玲茄、ありがとう」
それだけ言うと、玲茄は少しだけ、誇らしげに笑った。
「感謝はいらないよ。私がしたくてしたことだから」
靴を履きながら、ドアノブに手をかけ、彼女は振り返る。
「それに。あの二人も、同じ」
「……え?」
「凉に一人で抱えさせる気なんて、私たちには最初からなかったから」
そう言って、彼女は満足そうに扉を開けた。
――
コンビニ前。四人が揃う。
「ね。やっぱり」
合流した瞬間、俺の顔を見た茉依が、すべてを見通していたような顔で笑う。
「うん。少しだけ、戻ってますね」
悠希も、確信を込めて小さく頷いた。
「……わかってたのか」
「わかるよー。りょーくんのことなら、心も体も、全部ね」
「それに、玲茄が放っておくわけないですから」
玲茄は何も言わず、ただ慈母のような微笑みを浮かべている。
それ以上何も言えないまま、俺たちは学校へ向けて歩き出す。
いつもの並び。いつもの距離。
俺の心の中の答えは、出ないまま。
それでも、俺を離さない三人の引力に引かれながら、新しい今日が始まっていく。




