家に一人
――side. 井神 凉――
――朝。
カーテンの隙間から差し込む鋭い光が網膜を刺し、目が覚めた。
視線を巡らせると、隣ではまだ三人が布団にくるまり、心地よさそうに等間隔の寝息を立てている。
少しだけ身体に残る気怠い眠気と、胸の底にへばりつくような名残惜しさを引きずるようにして、静かに布団から抜け出す。
今日で、この二泊三日は終わる。
――
リビングに出ると、すでに二人は起きていた。
「おはよう、井神くん」
「おう、よく眠れたか」
「……おはよう」
窓の外の海を眺めながらコーヒーを飲んでいた二人の声は、いつも通りの響きで。
でも昨日までとは、どこか温度が違うように思えた。
全員が揃ってから簡単な朝食を済ませ、六人で別荘の片付けを始める。
シーツを剥がして綺麗に四角く畳み、使った食器を完璧に洗い上げ、生活の痕跡を一つ残らずゴミ袋にまとめていく。
「なんかさー……」
茉依が、洗い終えたコップを水切りラックに伏せながら、ポツリと漏らした。
「帰る準備してると、急に実感が湧いてくるよね」
「わかります」
悠希が、俺がまとめたゴミ袋の口を固く縛りながら頷く。
「終わっちゃうんだな、って感じがします」
俺も、同じだった。
昨日まで、確かにこの空間を満たしていたはずの熱量と密度が、片付けという作業を通して少しずつ形を失っていく。
楽しかった記憶だけが、行き場をなくして宙に浮いていた。
「明日から、また学校ね」
「急に寂しくなってきたよ。……ずっとここにいたいのにー」
「……そうですね」
そんな、諦めを含んだ言葉が自然と零れる。
皆、口元には微笑を浮かべているのに、その目はどこか遠い。
否応なしに現実に引き戻されるこの感覚は、冷たい水が足元からひたひたと上がってくるのに似ていた。
午前中いっぱいをかけて、隅々まで掃除を終えた。
最後に誰もいなくなったリビングを見渡す。
そこにはもう、俺たちがいた痕跡は何一つ残っていない。来たときのままの、ひどく無機質な空間だけが広がっていた。
「お世話になりました」
玲茄が、誰に向けたわけでもない感謝を、空気に溶かすように口にした。
それで、ようやく一つの区切りがついた気がした。
――いや、区切りがついたのだと、この時の俺は”思いたかった”だけなのだ。
――
午後。
駅へ向かう坂道は、来たときよりもずっと静かだった。
帰りの電車に揺られ、移り変わる窓の外の景色を眺める。
二泊三日の断片が、走馬灯のように頭の中を駆け巡っていた。
眩しい海、夕食の匂い、月明かり、そして夜道に伸びた六つの影。
確かに、楽しかった。
一生、忘れないと言い切れるほどに。
やがて電車が地元の駅に着き、改札を抜ける。
鼻を突くアスファルトの匂い。機械的なアナウンス。見慣れた街の喧騒と、無個性な人の流れ。
その規則正しい社会のサイクルに身を投じた瞬間、俺たちは"六人だけの特別な塊"から、"ありふれた高校生"へと強制的に書き換えられた。
「じゃ、また明日な」
「また、学校でね。みんな、ゆっくり休んで」
隆一と白峰が、いつもの調子で手を振る。
明日があることを前提にした、日常の挨拶。
二人を見送り、俺たち四人は家の方向へ歩き出した。
会話の内容は、三日間の思い出から、自然と明日の時間割や授業の話へと移っていく。
それなのに。
さっきまで身体を包んでいた潮風の匂いや、あの静かな夜の温度が、まだ皮膚の裏側に張り付いて離れない。
――
家の前に着く。
「じゃ、今日はみんな大人しく帰るってことで。お疲れさま」
「おつかれさまー。りょーくん、また明日ね」
「また、明日です」
三人が、それぞれの家へ帰っていく。
数分前まで密着していたはずの体温が、三方向へと物理的に引き剥がされていく。俺は、彼女たちの後ろ姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。
重い玄関の鍵を開け、中に入る。
家の中は、まるで時が止まっていたかのように、ひんやりと静まり返っていた。
――
自分の部屋に戻り、椅子に深く腰を下ろす。
鞄を床に置いたまま、電気もつけず、しばらく何もせずに天井を見上げていた。
四人で過ごした時間。六人で過ごした時間。
特に、隆一と優花がいてくれたことの大きさを、静寂の中で一人、噛み締める。
彼らが"外側の世界"とのクッションになってくれていたからこそ、俺たちはあれほどまでに心穏やかな旅行を楽しめたのだ。
当たり前のようでいて、その実、奇跡のような三日間だった。
明日から、またいつもの日々が始まる。
学校へ行き、四人で並び、周囲の視線を浴びながら、この"塊"を守り続ける。
ただ、それだけのはずなのに。
胸の奥に、名前のつかない、ざらついた嫌な感覚がこびりついていた。
そのまま、ゆっくりと目を閉じる。
明日。
いつも通りの朝が来る。それだけは、分かっている。
ただ、その"いつも通り"が、昨日までのそれと"同じ色"をしているのかどうか、俺には確信が持てなかった。
――元に戻るんだ。
そう、自分に言い聞かせたいだけなのかもしれない。
静まり返った部屋の中で、遠くで響いたパトカーのサイレンの音が、妙に耳の奥に残って離れなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次回更新は、2月13日(金)になります。




