幕間:あの日、彼女たちが譲ったもの
――side. 井神 凉――
日曜日の朝。家のリビング。
今日は朝早くから慶が遊びに来ており、茉依と悠希を含めた三人でキッチンに並び、わいわいとお菓子作りに勤しんでいる。
俺はというと、リビングのソファの上で、完全に身動きが取れなくなっていた。
ゆったりとしたTシャツとショートパンツ姿の玲茄が、俺の太ももの上に座り、正面からぎゅっと抱き着いて離れないのだ。
俺が少しだけ顔を上げて玲茄の目を見ると、彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
そして、俺の耳を軽く甘噛みしたり、自分の頬をすりすりと俺の頬に擦り寄せたりと、子猫のように甘えてくる。
すぐ数メートル先で三人がお菓子を作っているというのに、このソファの上だけが、切り取られたように二人だけの濃密な空間になっていた。
しかし、さすがにそれがバレていないわけがない。
「……お二人さん。さすがにちょっとイチャつきすぎだよ」
ジト目になった慶が、ボウルで生地をかき混ぜながら呆れたように言った。
「れなっちがリビングでりょーくんとあんなにくっついてるのって、珍しいねー」
茉依も、手を止めずにくすくすと笑う。
「大体ソファの上でそういうことしてるのって、茉依ですからね」
悠希が淡々とツッコミを入れた。
「ふふっ。ごめんなさい」
玲茄は悪びれる様子もなく微笑み、俺の首筋へすっぽりと顔を埋めた。
それからしばらく、キッチンからは三人の賑やかなガールズトークが聞こえてきていた。楽しげな笑い声や、お菓子の甘い匂いがリビングに漂う。
俺と玲茄は、その穏やかな空気をBGMにするように、ソファの上でゆったりとした時間を過ごし続けていた。
――
「そういえばさ」
一通り作業が完了してダイニングテーブルで休憩していた慶が、思い出したように言った。
「玲茄たちって……みんな、凉に初めて、あげたの?」
唐突過ぎる話題に俺は驚くが、三人は全く動じていない。
「そうだよー!」
茉依が元気に答える。
「未だに鮮明に思い出せます。……忘れません」
悠希も、当時を思い出すように淡々と語った。
「わぁー、そうなんだ。じゃあ……」
慶はそこで何かを言いかけ、すぐに口をつぐんだ。
「ううん、やっぱなんでもない」
俺には、慶が言いたかったことの続きが容易に予想できた。
――『じゃあ、凉の初めては誰がもらったの?』だろう。
俺の隣で、玲茄がふふっと笑った。
「慶。好奇心は猫を殺す、よ?」
その一瞬だけ、目を細めた彼女の瞳から温度が完全に消え去っていた。
それは、優しくも鋭い、明確な牽制だった。
「だから、言ってないのに! ひどい!」
慌てて抗議する慶を見て、玲茄と茉依、そして悠希が楽しそうに笑い声を上げた。
――
女の子たちの賑やかな笑い声を聞きながら、俺はふと、"あの時"のことを思い出していた。
俺と彼女たちが、初めて一線を越えた日。
俺の部屋の床に敷かれた布団に、玲茄、茉依、悠希の三人が並んで寝転がっていた。
それを、俺が立ち尽くして見下ろしている。どこか神聖ですらある異様な光景だった。
『……最初は、玲茄ちゃんにしてあげて』
茉依が、静かに目を閉じて言った。
『その次は、お姉ちゃんに。……最後は、私です』
悠希も、それに同意するように静かな声で順番を告げた。
玲茄は、真っ直ぐに俺の目を見たまま、一言も発さなかった。
本当は、自分が一番最初になりたい。俺の初めてをもらいたい。
あの時、三人の間には間違いなくそういう独占欲やエゴがあった。その気持ちは、沈黙の中から痛いほどに伝わってきた。
けれど、彼女たちは譲ったのだ。
この"歪な箱庭"では――そうすべきなのだという強い覚悟が、言葉を交わさずとも、彼女たちの中で完全に一致していた。
彼女たちの異様なまでの結束と、俺に対する愛情の深さは、あの最初の夜からすでに形成されていたのだ。
――
「凉?」
不意に名前を呼ばれ、我に返る。
前を見ると、俺の顔を覗き込んだ玲茄が、不思議そうにじっとこちらを見ていた。
俺は何も言わず、あの最初の夜からずっと変わらない感謝と愛おしさを込めて、彼女の頭を優しく撫でた。
すると、玲茄は何かを察したようにふわりと目を細め、安心しきったように、再び俺の首筋へと顔を埋めたのだった。
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