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四人でいることが、日常だった ――名前のない楽園――  作者: いもたにし
第九章 僕らが"普通"を捨てた日々
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溺れる"先"

 ――side. 井神 凉――


 翌週の月曜日。茉依さんは宣言通り、教室に復帰した。

 朝、登校してきた彼女の周りにはすぐにクラスメイトが集まり、「大丈夫だった?」「無理しないでね」と声をかけていた。茉依さんは「心配かけてごめんね。もう平気だよ」と、笑顔で応じている。

 その健気な姿を見つめながら、僕は昨日――日曜日の出来事を思い返していた。



 ――


 あの深夜の出来事を境に、悠希さんは劇的に落ち着きを取り戻した。

 僕が促すと素直に水を飲み、台所を借りて作ったおかゆを少しずつ口にしてくれた。その間、茉依さんもずっと僕の隣に座り、決して離れようとはしなかった。


 夕方。そろそろ帰らなければならない時間になり、僕が腰を上げると、悠希さんは「帰っちゃうんですか……?」と、ひどく悲しそうな顔をした。

 僕は、昨夜自分が悠希さんに言った言葉を思い出す。

(疲れて頭がうまく働かなかったとはいえ、『僕のために生きて』なんて、とんでもないことを言ってしまったな……)

 けれど、あの言葉が、暗闇に落ちていた彼女を現実に引き留める唯一の拠り所になってしまったのは事実だ。言った以上、僕には彼女を守り抜く責任がある。


 よし、と気持ちを切り替えた僕は、ベッドに座る悠希さんの頭にポン、と優しく手を乗せた。

「明日も、放課後に必ず会いに来るから。短い時間になっちゃうけど、一緒にいるからね」

 それでも寂しそうに俯く彼女に、僕は微笑みかけた。

「そうだ。何か、僕にしてほしいことある?」


 すると悠希さんは顔を上げ、僕に向かって両手を広げた。

「……だっこ、して下さい」


「えっ」

 予想外の要求に、思わず固まる。横で見ていた茉依さんも「悠希!?」と驚いた声を上げた。

 しかし悠希さんは手を広げたまま、すがるような瞳で僕を見つめ続けている。僕は観念し、壊れ物に触れるように、あまり密着しすぎないようそっと彼女を抱擁した。


「……ありがとうございます。凉くん」

 腕の中で、悠希さんが微かに微笑む。彼女の、僕を呼ぶ名前が変わっていた。


「それじゃ、また明日ね」

 部屋を出て、一階の玄関に向かう。見送りに来てくれた茉依さんに向き直ると、彼女はなぜか、ほっぺたをパンパンに膨らませて不満そうな顔をしていた。


「……井神くん、私にも『頼っていい』って言ったよね」

「え?」

「私のこと、ちゃんと見てくれるって、言ったよね」


 そう言うと、茉依さんも悠希さんと同じように両手を広げた。

 僕は少し躊躇したが、彼女のまっすぐな視線に気圧され、その小さな体を抱きしめた。

 悠希さんの時のようにそっと触れるだけのハグではない。茉依さんは僕の服の背中をギュッと力強く握りしめ、僕という存在を独占しようとするかのような、強い執着を感じる抱擁だった。


「……これで、私も頑張れる」

 僕の胸に顔を埋めたまま、茉依さんがぼそっと呟いた。そして体を離すと、少し照れたように笑う。

「明日から、教室に行けると思うよ。……りょーくん」

 茉依さんの呼び方も、変わっていた。


 二人に頼られる心地よい重みを感じながら、僕が「それじゃあ」と玄関の扉を開けようとした、その時だった。

 ガチャリと外から扉が開き、疲れ切った顔の大人二人が入ってきた。


「あ、お父さんとお母さん。おかえりなさい」

 茉依さんの言葉に、僕はハッとして姿勢を正した。

「こんにちは、初めまして。茉依さんのクラスメイトの、井神凉といいます」


 すかさず挨拶をしたものの、ご両親は僕の素性を聞いた後も、明らかに怪訝な顔を崩さなかった。

 親の不在時に、娘たちしかいない家に異性のクラスメイトが入り込んでいるのだ。親として警戒するのは至極もっともな反応だった。


「茉依さんと悠希さんのお見舞いに来ました。悠希さんの健康状態があまり良くなさそうなので、明日、病院に連れて行ってあげてほしいです」

 僕はできるだけ丁寧にそう伝えたが、お父さんは「ああ、わざわざありがとう」と口では言いながらも、最後まで疑いの目を向けていた。


「それでは、お邪魔しました」

 僕が家を出る間際、背後に立つ茉依さんの顔が、激しく歪んでいたのを視界の端に捉えた。



 ――


「りょーくん、ちょっと廊下行こう」


 昼休み。授業が終わるや否や、茉依さんが小走りで僕の席にやってきて、袖を引いた。

 人気の少ない渡り廊下まで移動すると、茉依さんはこちらに向き直り、勢いよく頭を下げた。


「昨日は、お父さんたちがごめんなさい!」

「えっ、いいよ、別に気にしてないから……」

「ダメだよ! 私、お父さんたちにすっごく怒ったの。りょーくんは私たちを助けてくれたのに、あんな目で見るなんて最低だって! それを聞いてた悠希もふらふらしながら出てきて、怒ったの!」


 双子揃って、親にものすごい剣幕で詰め寄ったらしい。

「今日、放課後に家に来てくれた時に、お父さんたち、謝りたいって言ってた。あと、お礼も言いたいって……」

「お礼?」

「うん。今日の午前中、お母さんが悠希を病院に連れて行ったんだけど……」



 ――


 放課後。中里家を訪れると、玄関にはご両親が揃って立っていた。

 昨日の怪訝な表情は欠片もなく、二人は僕を見るなり深く頭を下げた。


「昨日は、本当にすまなかった。そして……悠希を助けてくれて、本当にありがとう」

 お父さんの声は震えていた。


 午前中に病院で診察を受けた結果、僕が水やおかゆを与える前は三日間絶食状態だったらしく、悠希さんは脱水症状と栄養失調を起こしていた。僕がいなかったら危険な状態だったらしい。


「三日もまともに飲み食いしていなかったなんて、私たちは全く気づけなかった……。しっかり、食べているところを見るべきだった。君が水と消化の良いものを摂らせてくれたおかげで、最悪の事態を免れたと、お医者さんに言われたんだ」

「君は、娘たちの命の恩人だよ……!」

 お母さんも涙ぐみながら僕の手を握った。


(……ああ、そうか)

 大人たちに頭を下げられながら、僕の胸の奥底で、甘くて黒い優越感がとろりと溶け出した。

 この人たちは親なのに、娘たちの悲鳴に気づけなかった。

 彼女たちを本当に救えるのは、保護者である大人たちじゃない。


 僕、なんだ。



 ――


 それ以降、僕は毎日のように放課後を双子の家で過ごし、短い時間だけでも悠希さんに寄り添い続けた。

 僕が顔を出すだけで悠希さんの目は光を取り戻し、茉依さんは嬉しそうに僕の隣をキープした。


 翌週にはついに悠希さんも教室に復帰し、僕たちは平穏を取り戻したかに見えた。


 ――しかし。

 その平穏は、また唐突に破られることとなる。


 その日の夜。外では冷たい雨が激しく打ちつけていた。

 自室で机に向かっていた僕の耳に、玄関のチャイムが鳴り響く音が届いた。母さんは珍しく残業でまだ帰ってこず、父さんは出張中。今は僕一人しかいない。

 不審に思いながら一階へ降り、チェーン越しに玄関のドアを開けた。


「……えっ?」


 少しだけ開いたドアの隙間に立っていたのは、宮藤さんだった。

 傘も差さず、服はずぶ濡れ。髪からは雨の雫が滴り落ちている。

 そして何より僕の目を惹いたのは、外灯に照らされた彼女の頬に浮かび上がった、赤く腫れたような手形の痕だった。

 僕は急いでチェーンを外し、雨の吹き込むポーチへ飛び出した。


「宮藤さん……!? どうしたの、その顔、それにこんなに濡れて……!」

「ごめんなさい、井神くん……っ」


 宮藤さんは、糸が切れた操り人形のようにその場にへたり込み、冷たいタイルの床に手をついた。

「お母さんと、喧嘩して……叩かれて……家、出てきちゃった……」

 震える肩。雨に混じって零れ落ちる涙。

「もう、どうしていいかわからなくて……私、私……!」


 その痛ましい姿を見た瞬間、僕の頭の中でカチリと何かが切り替わった。


 ああ。

 また、僕を必要としている人が現れた。


「宮藤さん」

 僕は彼女の冷え切った体を強く抱き起こした。

「もう大丈夫。ここにいて」


 双子を救済し、そして今度は彼女を救済する。

 自分こそが彼女たちの唯一の居場所なのだという使命感に酔いしれながら、僕は宮藤さんを、家の中へと招き入れたのだった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次回更新は5/26-27頃予定です。


本作を少しでも楽しんでいただけましたら、感想やブックマーク登録、評価などをいただけますと執筆の大きな励みになります。


引き続き、どうぞよろしくお願いいたします!

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