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四人でいることが、日常だった ――名前のない楽園――  作者: いもたにし
第九章 僕らが"普通"を捨てた日々
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縋る"先"

 ――side. 井神 凉――


 金曜日。茉依さんは前日と同じように別室へ登校し、僕は休み時間のたびに彼女の元へ足を運んだ。

 僕が部屋に入るだけで彼女は安堵の息を吐き、言葉一つ一つに静かに頷いて、普通に会話ができるまでに落ち着きを取り戻していた。


 それでも時折、その顔に暗い影が差すのは、やはり悠希さんのことが気がかりだからだろう。

 茉依さんによれば、悠希さんはお葬式が終わって以降、ずっと自室に引きこもってしまっているという。ご両親も心配してはいるものの、親戚たちとの話し合いや事務的な手続きに忙殺されていて、悠希さんの深刻な状況を正しく認識しきれていないようだった。


 今すぐにでも駆けつけたい衝動を抑えつつ、僕は「明日、悠希さんの様子を見に行くよ」と伝え、土曜日に彼女たちの家を訪ねる約束を取り付けた。



 ――


 翌日。午後に中里家を訪ねると、出迎えてくれたのは茉依さん一人だけだった。


「ご両親は?」

「朝から、おばあちゃんのお家に行ってるの。明日の夜まで帰ってこないって」

 玄関に上がりながら尋ねると、茉依さんは俯きがちにそう答えた。

「親戚の人たちと話し合わなきゃいけないことがたくさんあるみたい。本当は連れていきたかったみたいなんだけど、悠希がまだ辛いだろうからって。悠希のことお願いね、って……」


 茉依さんが少し調子を取り戻したように見えたことと、「お姉ちゃんがいるから留守番させても大丈夫だろう」という無自覚な過信。それが、二人をこの家に置き去りにした理由だった。


「そっか。……悠希さんは?」

「ずっと、部屋にいるの。お母さんたちが部屋に行くとね、ベッドの上でうずくまってるけど、最低限の受け答えはするんだって。食事も部屋に届けてて、ほんのちょっとは減ってるって言ってた。でも、ほんとに食べてるのかなって、不安なの」


 茉依さんに案内されて二階に上がり、悠希さんの部屋のドアの前に立つ。

 すると、部屋の中から、言葉までは聞き取れないが、微かな話し声のようなものが聞こえた。

 茉依さんを振り返ると、彼女はひどく不安そうな顔をしていた。


 僕は意を決し、部屋のドアを静かに開けた。


 昼間だというのに厚いカーテンが引かれた薄暗い部屋。

 その中で、悠希さんはベッドの上に膝を抱えてうずくまっていた。

 その顔は、ぼうっと放たれる青白い光に照らされている。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 彼女は、スマホの画面に映る"おばあちゃんの写真"を見つめながら、ひたすら虚ろな声で呟き続けていた。



 ――


 その異様な光景に圧倒され、僕はしばらくドアの前で立ち尽くしてしまった。


 ハッと我に返って駆け寄ると、スマホの光に浮かび上がった彼女の顔は、ひどく痩せこけていた。

 掠れた声。カサカサに乾いた唇。茉依さんの不安通り、彼女は食事も水分もろくに摂っていないのだろう。精神的にも肉体的にも限界が近いことは誰の目にも明らかだった。


 僕はすぐさまベッドの縁に腰を下ろし、冷え切った悠希さんの手に自分の手を重ねた。

 茉依さんは僕にすべてを委ねるように、部屋の隅の壁際に座り込み、祈るように両手を組んで見守っている。


「悠希さん、僕だよ」

 僕が声をかけても、悠希さんの焦点はスマホの画面から動かなかった。

「ごめんなさい……私が、あんなこと言ったから……」

「大丈夫だよ、悠希さん。少しお水を飲もう? 悠希さんは悪くないよ。自分を責めないで」


 僕はペットボトルの水を少しずつ飲ませながら、何度も何度も優しい言葉をかけ続けた。

 しかし、僕の言葉はまるで透明な膜に弾かれるように、彼女には届いていなかった。どれだけ慰めても、彼女の口から零れるのは「ごめんなさい」という空虚な謝罪の言葉だけだった。


(……ダメだ。このままじゃ、本当に悠希さんが壊れてしまう)

 大人が誰もいないこの家で、彼女たちを残して帰ることなんてできるはずがない。

 だけど、突然友達の家に、ましてや親が不在の女の子の家に泊まるなんてことは、絶対に許されるはずがない。

 どうしたらいいのか。悠希さんに言葉をかけつつ、考えを巡らせ続けた。



 ――


 夕方になり、僕は廊下に出て頭を抱えた。結局、いい案など何も浮かばなかった。

 ダメもとで母さんに電話してみようか。そう思って通話アプリを開くと、従姉の美琴ねえちゃんの名前が目についた。

 僕は、すがるようにその名前をタップし、ねえちゃんに電話をかけていた。


『凉ちゃん? どうしたの、こんな時間に珍しいね』

「ごめん、ねえちゃん。すごく困ってて、ねえちゃんに電話かけちゃったんだ」

 僕は声を潜め、必死の思いで訴えかけた。


 どうしても助けたい友達がいること。このまま帰ってしまうと、取り返しのつかないことになりそうなこと。

 このまま夜も話し相手になりたいけれど、急に友達の家に外泊したいなんて言ったところで、許可が出るはずがないこと。


「どうしたらいいかな。ごめんね、こんな話しちゃって」


 僕の切実な声色からただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、電話口のねえちゃんは少し黙った後、小さく息をついた。

『……わかった。じゃあ、今日は私の家に泊まるということにしよう。私からかずおじちゃんに電話しておくから、凉ちゃんは智里さんに私の家に泊まることになった、って電話するんだ。私のお母さんにも、上手く言っておくから』

「ねえちゃん、本当にありがとう……!」

『他でもない凉ちゃんの頼みだもの。そのかわり、今度本当にうちに泊まりに来るんだよ? それでチャラにしてあげる』


 ねえちゃんに何度も感謝を伝え、電話を切る。

 すぐに言われた通り、ねえちゃんから父さんに連絡を入れてもらい、その直後に僕から母さんへ『ねえちゃんの家に泊まることになった』と電話をする。

 これで二段構えのアリバイ工作は完了し、僕たちだけの夜が作られた。



 ――


 夜の帳が下り、家の中は深い静寂に包まれた。

 僕は電話の後もずっと悠希さんの傍に座り、慰めの言葉をかけ続けていた。けれど、時計の針が深夜の二時を回っても、彼女は相変わらずスマホの画面に向かって「ごめんなさい」と呟くばかりだ。

 部屋の隅では、限界を迎えた茉依さんが毛布にくるまり、いつの間にか眠りに落ちていた。


 水はなんとか飲んでくれた。しかし、食べ物には一切口をつけてくれない。

 このままではさらに衰弱していく一方だ。


 疲労と強烈な睡魔が、僕の思考を鈍らせていく。

 同時に、僕の胸の奥で、無意識の苛立ちが黒いインクのように滲み始めていた。


(どうして僕の言葉が届かないんだ。……どうして)

 慰めても、寄り添っても、彼女は僕を見ようとしない。

 うつらうつらと揺れる視界の中で、スマホに向かって謝り続ける悠希さんの姿をぼんやりと見つめていた。


 おばあちゃんに向かって、届かない言葉を吐き続ける悠希さん。

 それは、僕が悠希さんに向かって言葉をかけていることと同義なんだろうか。


 そうだ。悠希さんは――


「……おばあちゃんに、ひどいこと言ったんだもんね」


 静かな部屋に、僕の独り言がポロリとこぼれ落ちた。


「取り返しのつかないこと、しちゃったんだ」


 その瞬間だった。

 スマホの明かりに照らされた悠希さんの虚ろな目が、大きく見開かれた。

 彼女は弾かれたように顔を上げ、初めて真っ直ぐに僕を見た。


「っ……あ……!」

 悠希さんは、震える手で僕の服の袖を強く掴んだ。


「ど、どうしたらいいですか……っ? 私、どうしたら許してもらえますか……っ!?」

 すがるように泣きつく彼女の突然の豹変に、僕は戸惑った。


 何が起きた? どう対応すればいい? 何を言えば、彼女を救える?

 必死に思考を回そうとするが、極度の疲労と眠気で頭がうまく働かない。


 僕が今、言ったこと。それは、優しい言葉ではなく、責める言葉だったはずだ。

 彼女は、どうしたら許してもらえるか、と言った。


 ――そうか。彼女が一番欲しかったのは、「君は悪くない」という優しい慰めなどではなかったのだ。


 その時、朦朧とする意識の中で、僕の中にある一つの"本能"だけがむき出しになった。


 ――この子たちを、僕の手で、僕だけの力で、守り抜きたい。


 僕は、すがりついてくる悠希さんの華奢な肩を抱き寄せ、その耳元で静かに囁いた。

「悠希さんの後悔は、僕が全部背負う。全部僕にぶつけるんだ」

「い、がみくん……」

「だから、悠希さんは……僕のために生きて」


 その言葉は、悠希さんの壊れかけた心に、あまりにも優しく入り込んでしまった。

「あ……ああぁっ……!」

 悠希さんは僕の胸に顔を押し当て、小さな子供のように声を上げて泣きじゃくった。


 もう、スマホの画面は見ていない。

 彼女のすがる先は――もう"面影"だけではなくなっていた。


 こうして、僕と彼女たちの間には、後戻りのできない"なにか"が打ち込まれたのだった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次回更新は5/22-23頃予定です。


本作を少しでも楽しんでいただけましたら、感想やブックマーク登録、評価などをいただけますと執筆の大きな励みになります。


引き続き、どうぞよろしくお願いいたします!

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