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四人でいることが、日常だった ――名前のない楽園――  作者: いもたにし
第九章 僕らが"普通"を捨てた日々
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救いの"檻"

 ――side. 井神 凉――


 二月の終わり。雨模様の月曜日の朝。

 教室の席に着いた僕の耳に、担任の先生の短い報告が届いた。


「中里さんは、家庭の事情で数日お休みになります」

 その言葉に、僕は思わず宮藤さんの方を振り向いた。彼女も同じようにこちらを見て、不安そうに少しだけ眉をひそめていた。


(……もしかして)

 嫌な予感がした。正月におばあちゃんが倒れたときの、双子の顔が思い浮かぶ。その顔が、頭から離れなかった。


 朝のホームルーム後、僕は宮藤さんと廊下で落ち合った。

「井神くん……」

「うん。……多分、おばあちゃんのことだよね」

「そうだと思う。でも、こういう時はそっとしておいた方がいいわ。私たちからの連絡は避けましょう。……もし、何か連絡があったら、私に教えてもらえる?」

「うん、わかった」

 宮藤さんの提案に頷き、その場は別れたものの、僕の胸の中にはどうしようもないザワザワとした胸騒ぎだけが残っていた。


 月、火、水。

 三日が過ぎても、二人は登校してこなかった。僕のスマホにも、一度もメッセージは届いていない。

 そして木曜日の朝も、茉依さんの席は空っぽのままだった。


 胸騒ぎが限界に達しようとしていた休み時間。宮藤さんが僕の席にやってきて、「ちょっと来て」と小声で告げた。

 連れ出されたのは、人通りの少ない渡り廊下だった。


「なにか分かったの?」

「……ええ。茉依ちゃん、今日は学校に来てるの。でも、教室じゃなくて、別室にいるのよ」

「別室……?」

「……さっき先生に聞いてね。やっぱり、おばあちゃんが亡くなったそうよ。土曜日に」


 心臓が、どくりと冷たく跳ねた。


「茉依ちゃんはなんとか学校に来たみたいだけれど、教室にいられる状況じゃないみたいなの。悠希ちゃんに至っては、学校に来れる状態じゃなくて休んでるって」

「そんなことに……。僕、すぐに行かないと」


 焦る僕を制するように、宮藤さんはスッと声を落とし、真剣な眼差しで僕を見つめた。

「待って。……もしかしたら、状況は思っているよりも悪いかもしれないわ。今からだと時間がないから、お昼休みになってから、茉依ちゃんに会いに行きましょう」

 彼女の不穏な響きに、僕は息を呑み、頷くことしかできなかった。


 昼休みを告げるチャイムが鳴った瞬間、僕は立ち上がった。

 宮藤さんに連れられて足を踏み入れたのは、生徒指導室やカウンセリングルームが並ぶ、普段は生徒が寄り付かない静かな区画だった。


「ここよ」

 宮藤さんが足を止めたのは、"和室"と書かれた札のかかった引き戸の前だった。保健室がいっぱいの時に使われる予備の休養室だという。


「ここに茉依さんが……」

「私は入らないわ。井神くんだけで行って」

 宮藤さんは僕に向き直り、静かに告げた。

「茉依ちゃんを支えてあげてね」

 その言葉には、僕にすべてを委ねるような強い信頼が込められていた。僕は小さく息を吐き、静かに引き戸を開けた。


 明かりのついていない、薄暗い和室の中央。

 机に向かって、何も書かれていないノートを開いたまま、茉依さんが呆然と座っていた。

 僕が入ってきたというのに、彼女はこちらをちらりとも見ない。ただ虚空を見つめている。

「茉依さん……」

 たまらず傍に駆け寄り、肩に手を置くと、彼女は首だけをギギギと機械のように僕に向けた。


「……あ、井神くん。こんにちは」

 声のトーンはいつも通り。けれど、その目は焦点を結んでおらず、無理に作った笑顔のせいか、頬が微かに痙攣を起こしていた。


 それを見た瞬間、僕は直感した。

 ――あ、このままだと、茉依さんが壊れてしまう。


 僕はすかさず手を伸ばし、座っている彼女を力強く抱きしめた。

「ごめん。……嫌だったら、離れて」

 そう言いながらも、僕の腕は彼女の小さな背中をきつく拘束していた。僕が彼女を抱きとめてやらなければ、今にも彼女が消えてしまいそうだった。


 茉依さんはしばらく、人形のように微動だにしなかった。

 やがて、震える小さな手が僕の背中にゆっくりと回され、制服の生地をぎゅっと握りしめた。

「……っ、あ……う、ああぁっ……!」

 僕の胸に顔を埋めた彼女から、(せき)を切ったように涙が溢れ出した。大声を上げて泣きじゃくるその慟哭(どうこく)を、僕はただ黙って受け止めた。


 どれくらいそうしていただろうか。

 泣き叫ぶ声が小さなしゃくりあげに変わり、茉依さんがゆっくりと僕の胸から顔を離した。

 それでも僕たちは、抱き合ったままだった。彼女が僕から離れようとしなかったからだ。


「おばあちゃん、また急に具合悪くなっちゃったの」

 ぽつり、ぽつりと。茉依さんは低く、湿った声で話し始めた。

「私たちが病院に着いたときは、意識はあったの。でも、もうダメだってわかってたみたい」


 それは、彼女たちのおばあちゃんが病室で息を引き取る直前のことだった。


「おばあちゃんね、私と悠希に、お別れの言葉みたいなこと言ったの。……でも、それを聞いた悠希が、『おばあちゃんなんて、嫌い!』って、病室を飛び出しちゃったの。……その直後に、苦しみだして」

 茉依さんの手が、僕の背中をさらに強く握りしめる。

「おばあちゃん、最期に私に言ったの。『悠希を一人にしないで。ごめんねって、愛してるって伝えて』って。……でも、戻ってきた悠希は、息してないおばあちゃんを見て、錯乱しちゃって……ずっと、ごめんなさいって言い続けて……」


 謝れなかった。心無い言葉をぶつけたまま、二度と会えなくなってしまった。

 その絶望が、悠希さんの心を粉々に砕いてしまったのだ。


「私、伝えようとしたんだよ……! おばあちゃんは怒ってない、愛してるって言ってたよって。でも、私の言葉なんて全然悠希に届かなくて。……私が何か言えば言うほど、悠希がもっと壊れちゃう気がして、怖くて、それ以上、なにも言えなかった……!」

 茉依さんの目から再び大粒の涙が零れ落ちる。


「私じゃ、ダメなの。私、"お姉ちゃん"なのに、"双子の片割れ"っていう役割しかないのに! 悠希を助けることすら、できないの……っ」


 茉依さんのこの言葉を聞いて、どうして"素の明るい茉依さん"と、"仮面を被ったおとなしい茉依さん"が存在するのか、わかった気がした。


 僕は、彼女の話を「うん、うん」と決して否定せず、すべてを受け入れるように聞き続けた。

 そして彼女の悲痛な吐露が終わると、僕は彼女の肩を掴み、涙で濡れた瞳を真っ直ぐに見据えた。


「茉依さんは、たしかに"双子のお姉ちゃん"かもしれない。でも、その前に"中里茉依"っていう一人の女の子だよ」

 僕の言葉に、彼女の肩がビクッと跳ねる。

「僕はずっとそう見てるし、これからもそう。他の人がなんて言おうと、僕だけは変わらないよ」

 彼女の、心の一番柔らかくて弱い部分。そこに、僕という絶対的な味方がいるのだと、深く刻み込むように言葉を紡ぐ。

「だから、僕を信じて」


 焦点の合っていなかった茉依さんの瞳が、ようやくはっきりと僕を捕らえた。

 その目には、色濃い"無力感"と、僕への強い"信頼感"が入り混じっていた。


「私……井神くんを、頼っていい?」

「うん。僕が守るよ」


 迷いなくそう答えた瞬間。茉依さんの顔に、救われたような、でもどこか"自分自身で立ち直ることを手放した"ような、歪んだ安堵が浮かんだ。

 それは――まるで溺れていた人がようやく掴んだ浮き輪を、二度と離すまいとしているみたいだった。


「……お願い。悠希を、助けて」

 茉依さんは祈るように囁いた。

「悠希、お父さんとお母さんの前では弱ってる素振りを見せないの。でも、自分の部屋に引きこもって、水もご飯も全然食べようとしなくて……このままだと、悠希がどんどんダメになっちゃう」

「わかった。僕に任せて」


 悠希さんの命という一番重い責任を、彼女は僕に明け渡している。

 本来なら怖がるべきなのかもしれない。

 けれどその時の僕は、"自分が必要とされている"という感覚に、奇妙な高揚を覚えてしまっていた。

 彼女たちは今、深い悲しみの底で、一人では立っていられないほど弱り切っている。僕にしか、彼女たちを救えないのだ。


 その日の放課後、僕は茉依さんに寄り添って一緒に帰り、彼女を家まで送り届けた。 

 僕が、彼女たちを守らなければならない。その気持ちだけが、この時の僕を支配していた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次回更新は5/19予定です。


本作を少しでも楽しんでいただけましたら、感想やブックマーク登録、評価などをいただけますと執筆の大きな励みになります。


引き続き、どうぞよろしくお願いいたします!

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