膨張
悪夢にしては感覚がリアルに過ぎた。我慢していればそのうち目が覚めて終わる、そんな期待はできそうになかった。恭子は鳥肌の立った足にそろりそろりと力を入れた。震えながら立ち上がる。
大丈夫だ。走れる。
自分に言い聞かせる。いくら不気味だろうと、しょせんは小犬だ。噛み付かれたわけでもないので怪我はないし、特に痛いところもない。
「行こう、1、2、3、GO!」
掛け声と共に華麗なるスタートダッシュを決める。
「あうっ」
二歩で転んだ。ふくらはぎに黒犬が飛びついていた。べろんべろんと容赦なく舐め回される。めまいがするほど気持ちが悪い。だが同時に激しい怒りの発作が込み上げた。
「いい加減にしろ、この!」
うつ伏せに倒れたまま、片足に取り付いた黒犬をもう片方の足で蹴り放そうとする。
「ひゃっ? やっ」
だが黒犬は恭子の迎撃をあっさりと擦り抜けると、ふくらはぎから太股へと登り始め、あまつさえスカートの中にまで潜り込んでパンツを咥えた。
「ぎゃーっ、なにすんのよこのエロ犬!」
必死の抵抗も虚しく、黒犬は巧みに恭子のパンツをずり下ろしていく。そしてついに足首から抜き取られるまでに、さほどの時間はかからなかった。
この犬はおかしい。もちろん最初から不気味ではあったが、今や別種の恐ろしさにあふれていた。
はっきりと見てしまう。小さな黒犬の後ろ脚の間に、隆々とそそり立つモノがある。恭子は心底から戦慄した。
どうしよう。彼氏のより、ずっとおっきい。
黒犬は咥えていたパンツを吐き出すと、これからが本番だとでもいうように恭子の下半身に鼻面を突きつける。
「に、逃げなきゃ……」
恭子はもうほとんど腰が抜けていた。だがこのまま何もせずにいたら、暗い未来に落ちていくばかりだ。一ミリでも黒犬から遠ざかろうと、四つん這いの格好で懸命に手足を動かす。
ぽすん。背中に何かが乗ってきた。首筋にぞっとする気配が吹きつける。スカートが腰の辺りからめくり上げられ、夜気に曝された肌に獣の爪がじわりと食い込む。
「……ひぐっ」
限界だった。頑張ってこらえていた涙がこぼれ、全身から力が抜ける。
「この野郎、離れろっ!」
ふいに鋭く重い風切り音が鳴り響いた。ほぼ同時に、恭子に取り付いた重みがなくなっている。
「くそっ、よけられたか。やっぱり簡単にはいかないな」
誰? 地面にへたり込んだまま、恭子は声のした方に怖々と顔を向けた。夜闇に慣れた目に、金属質のきらめきが飛び込んできてぎょっとする。
「剣……まさか本物?」
黒犬の化け物はもちろん怖い。だが深夜の公園で真剣を振り回す男というのも危険度は相当だ。
呟きを聞きつけたのか、男が恭子の方を見た。だがなぜか妙に焦った様子になって顔を逸らす。とりあえずいきなりこちらに斬り掛かってくることはなさそうだ。
剣を構えた先にはあの黒犬がいる。もし戦うつもりなのだとしたら、敵の敵は味方と思ってもいいのだろうか。
「っていうか、あの子って……」
恭子の知り合いによく似ている気がした。
なんとか間に合った、か?
竜仁はだくだくと流れる汗をシャツの袖で拭った。ずっと走ってきたせいで呼吸がなかなか整わない。
悲鳴を聞きつけることができたのは幸いだった。なにせ森林公園は広い。もしもたまたま近くにいなければ、未だ黒犬の姿を求めてさまよっていたかもしれない。ここに来るのがもう少し遅れていたら、きっと大変な事態になっていた。
あの人ってゼミの先輩だよな。
ちらりと振り返り、しかし目が合うと竜仁は慌ててそっぽを向いた。実にあられもない姿である。とりあえず早くパンツをはいてほしい、などと気を取られている場合ではまるでなかった。
「おわっ!?」
眼前に黒い影が躍りかかる。竜仁はかろうじて剣を引き合わせて迎え撃つ。
相手が普通の犬なら、これで勝負は決していたはずだ。だが破邪の刃は魔獣の身に達することなく、硬い鈎爪に受け止められた。黒犬は反動で空中に身を翻し、距離を置いて着地する。心なしか悔しそうなのは、不意打ちが失敗に終わったからか。
竜仁は気を引き締め直した。今度はしっかりと黒犬の動きに集中したまま、ジリジリと間合を詰める。
黒犬がわずかに下がる。もしも向こうが怖じているなら、かさにかかって攻め倒すだけだ。家に帰ったあと楽勝だったと報告すれば、ユリアも竜仁を見直すに違いない。
飛び込む機を窺う竜仁に対し、黒犬は嘲笑うかのごとく牙を剥いた。
「上等だ!」
竜仁は威勢よく剣を振り上げた。しかしそこまでだった。前に踏み込もうとした足が、凍りついたように竦んでいた。
錯覚でも気のせいでもなかった。サッカーボールみたいに蹴り飛ばせそうな体躯だった黒犬が、竜仁の胸の高さにまで巨大化していた。
ぶわおぉぅんっ!!
「ひゃんっ」
間近から猛烈な吼え声を浴びせられ、竜仁は子犬みたいに縮み上がった。ユリアの言葉がまざまざと思い出される。
“黒犬は昨夜よりもはるかに力を増しています”
“今の我が君の力で打ち破るのは困難です。むしろ瞬時に八つ裂きにされる可能性さえある”
まさしくその通りだったらしい。
全く斬り掛かるどころではない。身も心も痺れたようになって、後退りすることさえままならない。いっそまだ失神していないのを褒めてほしいぐらいだ。
巨大化した黒犬が地面を蹴った。重量感に満ちた体が冗談のように浮き上がり、一直線に突っ込んでくる。振り上げたままだった剣を、竜仁は半ば反射的に振り下ろした。黒犬は爪で刃を受ける。さっきをなぞるような攻防、しかしその結果は大きく違った。
黒犬の突進はわずかも弱まらず、竜仁の抵抗をあっさりと打ち破り、後ろに押し倒した。




