いってきます
「ユリア!」
すぐにでも探しに行こうと腰を浮かせた竜仁に、安堵と焦燥がいっぺんに押し寄せる。
ユリアは未だ部屋にいた。戸の開いた押し入れの前で、苦しげにうずくまっている。
「ユリア、何してるんだよ。調子が悪いんなら寝てないと駄目だろう」
傍に寄り添った竜仁は、ユリアがゴルフバッグに手を掛けていることに気付いた。その中には聖剣が納められているはずだ。
「我が君……黒犬がまた、現れました」
「だってあれはきみが昨日倒したじゃないか。もういないよ」
絞り出すように言った相手をなだめ、布団に連れ戻そうとする。だがユリアは子供がいやいやをするように首を振った。
「……討ち損ねていたのです。行かなければ」
「だとしても、駄目だ。まともに立って歩くこともできないくせに、どうするっていうんだ」
軽く腹が立ってくる。朝よりももっとユリアの熱は高くなっていた。自分のことなんだからそのぐらい分っているだろう。
「いいかいユリア、君の主として命じる。大人しく寝てるんだ。つまらない黒犬のことなんか気にするな。きみの体の方が何十倍も何百倍も大事なんだよ」
「我が君……しかしそれが私の使命なのです。今の自分が万全からほど遠いことは重々承知しております。ですから独りでやれるとは申しません。どうか我が君のお力添えを……タツヒト様の魂の断片を持つ者として、私を支えてはくださいませんか?」
ユリアの瞳が潤んでいる。まるで瑠璃色の空に星がちらついているかのように美しい。見つめていると吸い込まれそうな気分になってくる。
「ユリア……きみの気持ちは分ったよ」
「我が君……! それでは」
「でも駄目だ」
ユリアはぽかんと口を開けた。竜仁はつい苦笑しそうになった頬を引き締めた。
「代わりに僕が戦う。だからこれから、きみの剣を使わせてほしい」
それは聖騎士たるユリアに伝えられた異世界の至宝だ。片や竜仁はこの世界に生まれた普通の人間に過ぎない。十全に真価を発揮させることはまず不可能だと思っていいだろう。
だが、いやだからこそ、竜仁が手にする意味がある。
“ユリアのように戦え。もともとこの世界に属する汝が等しき力を持つならば、ユリアもまたこの世界に属する者となれよう”
ユリアの病を癒やす術を問う竜仁に、かつてユリアの世界で天剣騎士だった男はそう答えた。
もちろん一朝一夕にかなうことではないだろう。長い修業期間が必要になるはずだ。
それでも竜仁が決意を示すことで、きっとユリアの心の負担は軽くなる。そしてたとえわずかずつでも竜仁がユリアの域に近付けば、ユリアの体も応じて良くなっていくに違いない。
竜仁は未来へと歩む覚悟を決めた。
数日のうちに、などとむちゃなことは言わない。しかし黒犬程度の妖物ならば数週間、もとい半年もあればきっと竜仁単独で討伐できるだけの力を身に付けられる、ような気になれるよう前向きに善処する所存である。
その時までは放置することになってしまうが、黒騎士のような危険な存在ではないのだ。とりあえず良しとしよう。
「ああ、我が君、竜仁様……」
初め呆然としていたユリアの目に、やがて理解の色が浮かんだ。そして深い感動に打ち震えた声音で告げた。
「どうぞ御武運を」
「え……いや違うよ? 別に今すぐ戦いに行こうっていうんじゃなくて……」
ユリアにぎゅっと手を握り締められて、姑息な竜仁の言葉が口の中だけで消えていく。ユリアは眉間の辺りにうっすらと悲壮感をさえ漂わせていた。
「……黒犬は昨夜よりもはるかに力を増しています。ここからでもはっきりと存在を感知できるほど……もはや別物と思うべきでしょう」
「そ、そうなんだ……じゃあ僕にはまだまるっきり荷が重いんじゃないかなあって」
「おそらく……今の我が君の力で打ち破るのは困難です。むしろ瞬時に八つ裂きにされる可能性さえある……」
「だ、だからさ、今日のところは」
「だがそれでも」
ユリアは竜仁の手を自分の胸に掻き抱いた。熱い。柔らかい。竜仁の顔までぽーっと熱くなってくる。
「それでも、我が君は行かれるのですね……己の誇りを貫くために、命を懸けて」
「うん、あ、いや」
「竜仁様っ」
「は、はいっ」
「……また必ずお逢いいたしましょう。たとえ幾度生まれ変わろうと、幾つ世界を隔てようと、ユリアは竜仁様のお傍に参ります」
「えっと、そんな遠くに旅立つような予定はないんだけど……」
「どうぞお心を強くお持ちくださいますよう……私もすぐに後を追います……」
ユリアは儚くも気丈に微笑んだ。そして力尽きたように竜仁に倒れ掛かり、再び意識を失った。
竜仁は重く息をついた。華奢な少女の体を布団に運び、寝かせる。額や首筋の汗を拭うと、触れるのをためらうほど体温が高い。それでも表情はぐっと穏やかになっていた。暫しの間ユリアを見下ろしたのち、竜仁は顔を上げた。
「しょうがない。いってくるよ」




