ヘルプレス
竜仁の生命は今や風前の灯だった。地面に背中を打った時の衝撃に加え、上にのしかかった黒犬がぐいぐいと圧力を加えてくるせいで、呼吸さえ満足にできない。頼みの綱の聖剣は、黒犬の太い前肢に押さえ込まれてぴくりとも動かせなくなっていた。
燠火のように赤く光る眼が竜仁を覗き込む。開いた口が牙を覗かせ、喉笛を咬み裂かんとして迫る。
まさしく昨夜の再現だった。ただし黒犬は何倍にも巨大化している。つまり状況はさらに悪くなっていた。
「ユ、ユリア、助けて……」
情けないと恥じる余裕もなく、しもべの少女に希う。ユリアは異世界から転生してきた聖騎士だ。剣の達人にして超絶的霊力の持ち主だ。まさにこの黒犬のような化け物と戦って滅ぼすための存在だ。
だから今度もまたきっと来てくれる。主を救うために現れる。
ユリア、出番だ! 邪悪な獣にきみの力を見せてやれ!
強く念じた思いは、しかしすぐに散り散りになった。首元を痛みが穿ち、脆弱な自我の殻を押し潰す。
竜仁は虚ろに視線をさまよわせた。ここにユリアはいなかった。肌に触れるのは輝く白金の髪ではなく闇よりも暗い漆黒の毛皮、そして兇猛なる魔獣の牙が竜仁の中へと沈んでいく。
自分はこれで終わりなのか。呆然と息を洩らす。やはり一人で戦えるわけもなかったのだ。無価値な武大竜仁の人生は、全くの無意味で無駄だった――黒犬が魔性の言葉でそう告げてくるかのようだ。
たぶんその通りなのだろう。竜仁はむやみにあがこうとするのをやめた。手足にこもった力を抜く。心を空にする。体の下には大地があった。大きな流れがあるのを感じる。身を沿わせる。腹の奥深くにある熱が波打つ。
「せっ」
腰をよじった。生じた回転力を背中から腕を通して剣へと流し、獣の爪を横にずらす。もともと不安定だった黒犬の体勢がぐらりと崩れ、竜仁は力の間隙に身を滑り入れると、巨躯の下から抜け出した。
なめらかに立ち上がり、剣を構える。刀身が淡い白金の光を纏う。ユリアが振るう時に比べれば、その輝きはいかにも弱い。しかし確かに同じ種類の力が剣と自分とを繋いでいた。
黒犬が牙を剥き出し低く唸る。だが飛びかかってくることはしない。逆に少しずつ後ろへと退いていく。
竜仁は意識を研ぎ澄ませた。超大型犬サイズの黒い剛毛の裏に、周囲よりもなお暗い部分があるのに気付く。まるで異形の心臓のように、絶え間なく拍動を繰り返している。
悪しき竜のかけらだと直感する。あのちっぽけな塊を打ち砕けば、化け物は虚無へと還る。
今や黒犬はあからさまに怯んでいた。身を翻そうとするその瞬間を捉え、竜仁は前に出た。
「ふんっ」
一度大きく後ろに引き絞った剣を、真っ直ぐに突き込む。狙いはもちろん闇色の塊だ。
輝く刃は巨体を易々と貫き、混沌とした黒い影の中心に至った。竜仁は内に満ちる力を解き放つ。深淵から迸る光が、世界を白金に染め上げる。
やがて夜の闇が戻った時、黒犬は跡形もなくなっていた。だが取り逃がしたのではない。滅尽したという絶対の確信があった。
「……やった」
がっくりと膝をつく。それでもなおこらえきれず、竜仁はその場にへたり込んだ。とてつもなく疲れていた。ともすればこのまま地の底へ沈んでしまいそうなほどだ。
「あの……大丈夫?」
まるで断末魔にあるかのように喘いでいると、傍らに人の近付く気配がした。顔を向ける。さっき黒犬に襲われていた女だ。まだ逃げていなかったのか。
ざっと見る限り大きな怪我はなさそうだったが、服がところどころ破れている。そういえばスカートの下は今どうなっているのだろう。生白い腰の丸みが記憶の中に甦り、竜仁は頭から追い出そうと首を振った。女は心配そうな顔になった。
「ど、どうしたの突然? 気持ち悪い? 救急車呼ぼうか?」
「全然大丈夫です平気です何も変な想像なんかしてないですから」
「え、変な想像って……」
女は腕で体を覆って後退りした。竜仁は慌てて弁解した。
「いや、ほんとになんにもしないですって。僕にはそんな度胸ないんで」
「……ぷっ、あはは、度胸って。そんな度胸はいらないから。冗談だよ。命がけであたしを守ってくれた人が、そんなひどいことするわけないもんね。本当にありがとう」
「そんな、僕は別に……」
助けたのは事実だが、成り行きでそうなっただけだ。もともと黒犬を倒すことが目的だったので、余り正面切って礼をされてしまうと、照れ臭いというより決まり悪い。
「それより高見沢さんの方は大丈夫ですか? どこか痛いとか、気分が悪いみたいなことは……」
「あたしは平気。でもそっか、あたしのこと知ってたんだ」
「それは同じゼミの先輩ですし」
「高見沢じゃなくて花見沢だけどね」
「えっ、あ、す、すいません……」
「気にしないでいいよ。たまに間違われるの。今まで話したこともなかったしさ。だけど」
花見沢は口の端を吊り上げた。竜仁はそこはかとなく脅威を感じた。ひとつ間違えたら取って喰われそうな気配が漂う。
「あたしはちゃんときみの名前憶えてるよ」
「それはその、光栄です」
「あはっ、こっちこそ光栄だよ。きみって意外といいキャラだったんだね。おねーさん、ちょっと興味出てきちゃったかも。きみは? あたしのことどう思う? ねえ、ブ……」
それまでぐいぐい来ていた花見沢の声が急に途切れた。まるで宙に答えを探すみたいに視線を斜め上に向ける。
「ブ、ブ……ブタくん、だっけ?」




