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ハートブレイク・ホテル

 ユリアの心はさざ波立っていた。危険がすぐ傍で口を開いて待ち構えているのに、気付くことができない。そんな感じがしてならない。

 静かなところだった。建物の外の音は届かず、隣の部屋にも果たして人がいるのか否か分りづらい。ユリアが竜仁と暮らすアパートとは違う。生活の気配が薄いのだ。


 しかし無機質とか無味乾燥というのとは違う。むしろ逆だ。

 室内はきちんと清掃が施されており、変な匂いがするということもない。なのにひどく生々しく湿った気配が漂っているようで、ユリアを落ち着かなくさせる。

 そして部屋の中央には大きなベッドが置かれていた。明らかに一人で使うためのものでない。


「ユリアも何か飲むか?」

 野島は備え付けの冷蔵庫から金色の缶を取り出した。ユリアとは対照的に至ってリラックスした風情である。立ち振舞いがいかにも物慣れている。


「不要だ。貴方と茶を飲むためについてきたわけではない」

 ユリアはことさら厳しい声音を作った。異世界から転生してきたうえに、そもそもが姫育ちの自分であるが、馬鹿でも幼い子供でもない。ここが本来どういう目的で使われる施設なのか、既におよその察しはついていた。

「世界の存亡に関わる重大な事柄とやらについて、早く話を聞かせてもらおう。まさか今さら嘘だったなどとは言わせないぞ」


 野島は口を付けた缶をテーブルの上に置いた。タツヒトに似た顔でユリアを見下ろす。

「覚悟はあるのか?」

「何?」

「大事な奴のためにその身を捧げられるかってことだ」

「当然だ」

 遅滞なくユリアは答えた。それこそユリアが今ここにいる理由である。


「上等じゃねえか」

 野島はやけに愉快そうだった。まるでごちそうを前にした鮫のようだ。

「だったら早速俺に捧げろ」

「なっ!?」

 いきなり乳房を掴まれた。刹那、頭の中が空白になる。タツヒトに似た顔が、似ても似つかぬ邪念に満ちた表情で迫ってくる。


「そんなに固くなるなよ。楽にしろって。すぐに身も心も蕩けさせてやるからよ」

 野島は掌に力を加えた。ユリアの控えめな膨らみが押し潰されて、さらに怪しく蠢めく指が、服地越しに突端をなぶる。

「くぅ、んっ」

「感じてるな?」


 野島が耳元に囁きかける。湿った吐息が肌に触れ、近付くにつれてさらに濃度を増していく。

 体の奥が熱くなる。野島の中にあるものと反応している。

 ユリアは今ようやく理解できていた。初めてこの男と出逢った瞬間から、心をざわつかせていたものの正体を。無視などできるはずがなかった。それを追い求めることは、ほとんどユリアの本能に等しい。もはやすべきことは一つだ。


「せいっ!」

 野島の心臓の位置めがけて零距離から正拳を叩き込む。しかるべき霊力を乗せた一撃に、暗く淀んだ野島の瞳がぐるりと裏返った。丈高い体ががっくりと力を失う。


 くずおれた野島を受け止めると床の上に横たえた。やがて胸の中央から黒い靄が立ち昇り、宙に散じて消えていく。

 野島に取り憑いていた悪しき竜のかけら――いやかけらにも満たない、ごく小さな粒だった。発する波動が弱過ぎてなかなか気付くことができなかったものが、意識下でユリアに影響して惑わせていた。それがユリアと野島の間にあった全てだ。実にくだらない。改めて己の未熟さを思い知る。


 一応呼吸と脈拍を確かめたが、放っておいても大丈夫そうだ。姿は元のまま変わっていない。タツヒトに似ているのは地顔らしい。

 だがそれだけのことだった。こうしてじっと見つめていても、とりわけ感じることはない。

 当然だった。悪いものはユリアが自ら打ち砕いてしまったのだから。




 野島に連れられるままに入った建物を後にする。だが敷地から通りへ出る前にユリアは足を止めていた。誰かがちょうど外にいる。男女の二人連れらしい。微妙に揉めている雰囲気だ。

「……本当に入るんですか?」

「もちろん。私とでは不満なの?」


「まさか、そんなわけはないです。でもいきなりこういうのは、やっぱりまずいんじゃないかなって。ちゃんと気持ちを確かめるのが先でしょう」

「いいえ、まずはやることをやってからよ。そうしないといつまでも先に進めないじゃない。それともずっとそのまま何も知らずにいたいの?」


「分りました……そこまで言うなら僕も覚悟を決めます。入りましょう、鷹司さん」

 さすがにもう黙ってはいられなかった。ユリアは物陰から進み出た。

「我が君、何をなさっているのです」


「ユリア!?」

 竜仁は仰け反って驚いた。

「お前こそ何してるんだよ! ここがどんな場所だか分ってるのか!?」

 だが狼狽するかと思いきや、逆にこちらを責めるような剣幕で詰め寄ってくる。ユリアは思わず後退りしそうになった。だが気力を奮い起こして踏みとどまると、控えめな胸を張った。


「私は悪しき竜の討滅という使命に従ったまでのことです。何も恥じることなどありません」

「それなら確かめてみるわね?」

 不意打ちだった。するりと抱きついた凛子がユリアの首筋に顔をうずめ、結構な勢いで息を吸う。


「すんっ、すんっ」

 匂いを嗅がれている? 

「おい、いい加減に……」

 羞恥に耳が熱くなり、さすがに突き放そうとしたユリアだが、いち早く顔を上げた凛子がにこりと目を細めた。とても嫌な予感がした。


 口許に柔らかなものを押し当てられる。ぞくりとした。手足から力が抜けてしまいそうだった。

 駄目だ。これ以上は許せない。力ずくでもやめさせる。

 だがユリアが本気になったのを察知したのか、凛子は自分から身を離した。そして悪戯っぽいというより、単に悪そうな笑みを浮かべる。


「安心して。今回のところは急所は外しておいたから。次はどうか分らないけどね。ふふっ」

 凛子が優雅に立ち去ってのち、ユリアは憮然として肩を落とした。唇のすぐ脇を指先でそっと拭う。まだ少し温かく湿った感触が残っているかのようだ。


「……そんなに嫌ではなかったけどな」

 ふと呟いて、ぎくりとする。竜仁が呆然とユリアを見つめている。まるで恐ろしいものにでも出くわしたみたいな顔つきだ。

「わ、我が君? 今のは違います。どうぞ誤解なきよう。よろしいですね?」


「うん、分ってるよ、分ってる。全然いけないことじゃないしさ。大事なのはお互いの気持ちだもんな。鷹司さんはいい人だし。きっと上手くいくよ」

 竜仁はうんうんと物分りのいい相槌を打ちながら歩き出した。

「だから違うのです。話をお聞きください! どうかその優しい目をおやめください! お願いですから話を、我が君っ!」

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