川鎧魚、来た
リネットの研究室で三百年前の「勇者になる前の人」の話を聞いた翌日、杏々は朝から王都の西側を歩いていた。
今日の依頼は、街道沿いに設置された荷馬車用の休憩所をいくつか回り、壊れた柵や標識がないか確認する仕事だった。戦う必要はほとんどなく、午前中のうちに終わる。赤ランクとしては軽い依頼だが、最近の杏々はこういう仕事も普通に受けるようになっていた。
以前なら、魔物を倒す仕事の方が報酬が高ければ、そちらを選んでいたかもしれない。
今は違う。
近くて、早く終わる。昼から市場へ行ける。それも立派な選択理由だった。
「全部問題なし」
王都へ戻り、受付で報告を済ませる。
「はい。確認しました。今日も早いですね」
「市場行く」
「そうだと思いました」
杏々が報酬を受け取って踵を返そうとすると、受付嬢が「あ」と声を上げた。
「そうでした。杏々さんに伝言があります」
「誰?」
「西市場の魚屋さんです」
杏々が足を止める。
「魚?」
「『来たから、今日中に来い』だそうです」
「川鎧魚?」
「たぶんそうです」
「行く」
「報酬をしまってから行ってください」
もう半分歩き出していた杏々は戻り、硬貨をきちんと袋へ入れた。
「行ってくる」
「はい。転ばないでくださいね」
「転ばない」
ギルドを出ると、さっきまでより少しだけ歩く速度が上がった。走ってはいないが、明らかに急いでいる。
西市場へ着く頃には昼前で、魚屋の前には何人か客がいた。
杏々が人の隙間から店を覗くと、店主がすぐに気づいた。
「来たじゃねえか。早いな」
「伝言聞いた」
「そうか」
「ある?」
「あるから呼んだんだよ」
店主は店の奥へ入り、濡らした布を掛けていた木箱を引き寄せた。布をめくる。
中にいたのは、一匹の大きな魚だった。
杏々の目がわずかに開く。
「お」
川鎧魚。
以前、市場で初めて名前を聞いた時から食べてみたかった魚である。
胴は太く、背から側面にかけて並ぶ鱗は普通の魚より明らかに大きい。色は暗い灰銀で、一枚一枚が重なっている様子は、名前の通り小さな鎧を並べたように見えた。
「大きい」
「今年入った中じゃ、まあまともな方だな」
「成魚?」
「ああ。小さいのじゃない」
杏々は魚をじっと見る。
以前、別の店へ小さな個体が入ったと聞いた時は、食べるにはまだ早いからと見送った。今日は違う。体長も十分にあり、腹も痩せていない。鱗の隙間から見える皮にも張りがあり、身もしっかり詰まっているように見えた。
「これ私の?」
「取り置きしてやったんだから、お前が買うならな」
「買う」
「値段聞いてから言え」
提示された額は、普通の川魚なら何匹も買える値段だった。
「高い」
「だから先に言っただろ」
杏々はもう一度、川鎧魚を見る。
「でも買える」
「赤になったからな」
「うん」
黄ランクだった頃なら、かなり悩んだと思う。食べられない金額ではないが、一匹の魚に使えば何日かの食費へ響く。
今は違った。
長距離護衛や調査護衛などを受けるようになり、報酬は以前より安定している。保存食の試食謝礼や、ぬいぐるみから入る小さな金もある。
毎日食べるには高い。それでも、ずっと待っていた魚を一匹買うくらいなら問題ない。
「これください」
「毎度」
杏々は代金を払い、店主が魚を包み始めるのを見ていた。
「今年はこれで三匹目だ」
杏々が顔を上げる。
「この店?」
「ああ。うちに入った成魚はな。小さいのならもう少し来てるが」
「やっぱり少ない?」
「少ないな」
店主の手は止まらない。
「昔なら、入る時期になればもうちょい選べた。今じゃ『入ったら教えてくれ』って客が何人もいる」
「私以外も?」
「当たり前だ。美味い魚なんだから」
「そっか」
杏々は少しだけ嬉しそうだった。
自分が食べたいと思ったものを、他の人も美味しいと思っている。ただ、魚が少ないという話そのものは変わらない。今日一匹入ったからといって、川鎧魚が戻ってきたわけではなかった。
「どこで獲れた?」
「いつもの川だ。ただ、前によく網を入れてた場所より少し上らしい」
「上?」
「漁師がそう言ってた。水温か流れか知らんが、最近は獲れる場所も少しずつ変わってるらしいぞ」
杏々は覚えておく。
すぐリネットへ持っていくつもりはなかった。川鎧魚が減っている話そのものは、もう以前からある。一匹の場所が変わっただけでは、まだ何とも言えない。
「じゃあ持って帰る」
「待て。捌けるのか?」
「できる」
「こいつ鱗硬いぞ」
「知ってる?」
「名前見れば分かる」
「名前で包丁は通らねえよ」
店主は呆れたように鼻を鳴らした。
「普通の魚みたいに鱗引きしようとすると苦労するぞ。端から包丁を入れて、浮かせながら外した方が早い。皮まで剥がすなよ」
「皮食べられる?」
「食える。むしろ焼くなら皮も美味い。ただ、鱗はちゃんと処理しろ」
「焼く」
「最初から決めてたのか?」
「半分焼いて、半分煮る」
「全部今日食う気か」
杏々が少し考える。
「食べられる」
「そういう問題じゃねえ。明日に残せ」
「分かった」
店主は包みを閉じかけ、それからふと思い出したように手を止めた。
「あと、剥がした鱗も捨てるなよ」
杏々が首を傾げる。
「食べる?」
「食うな」
「じゃあ何するの?」
「洗って乾かしとけ。川鎧魚の鱗は硬いから、細工屋が小物の補強や飾りに使う。漁師が仕掛けに使うこともあるし、防具屋に回ることもある」
「防具?」
杏々の視線が魚の鱗へ戻った。
「ああ。これだけで鎧を作るわけじゃねえぞ。乾かして処理したやつを革や布に重ねて、腕当てとか、軽い防具の補強に使うんだとさ。金属より軽いから好む奴もいるらしい」
「強い?」
「鉄板みたいにはいかねえよ。ただ、何もない革一枚よりは刃や爪に強くなるって話だ」
杏々は一枚の鱗を指先で軽く押した。まだ魚についている状態でも、普通の魚より明らかに硬い。
「売れる?」
「大した額じゃねえぞ」
「でも売れる?」
「状態が良けりゃな。泥や身が付いたままじゃ駄目だ。洗って、ちゃんと乾かして持ってこい。うちでまとめて細工屋に回してもいい」
「じゃあ取っとく」
「頭と骨も食うんだろ?」
「出汁」
「皮も食う」
「うん」
「身も食う」
「当然」
店主は魚を包み直しながら笑った。
「お前、一匹ほとんど捨てるとこねえな」
「食べられるの捨てるのもったいない」
「鱗は食べるなって言ってるだろ」
「売る」
「それならいい」
包みを受け取ると、思っていた以上に重かった。小さな身体で大きな魚を抱えて歩く姿はかなり目立つが、杏々は気にしない。
今日は寄り道もせず、まっすぐ家へ帰った。
部屋に入るなり荷物を置き、川鎧魚を調理台へ乗せる。改めて見ると、やはり大きい。
「いいね」
食べ物を前にした時だけ、表情が少し柔らかくなる。
包丁を出し、まず鱗の状態を確かめた。
魚屋の言った通りだった。普通の川魚のように包丁の背で撫でる程度では取れない。厚く重なった鱗が皮へ強く付いていて、無理に剥がそうとすると身まで傷めそうだった。
「なるほど」
杏々は刃の角度を変え、尾側から鱗の下へ薄く入れた。
一枚ずつ力任せに剥がそうとせず、根元を浮かせてから刃を滑らせる。すると、大きな鱗がぱちりと外れた。
杏々はそれを摘まんで見る。
「硬い」
指で曲げようとしても、普通の魚の鱗のようには簡単にしならない。薄い板のようだった。
「これなら腕につけるのも分かるかも」
自分で使うと決めたわけではない。ただ、魚屋が言っていた用途を聞いた後だと、布や革の表面へ重ねる姿は想像できた。
食べるものではないと分かれば興味はいくらか下がったものの、売れると聞いた以上は捨てない。横に小さな器を置き、外した鱗をそこへ入れていく。
一枚ずつ剥がし方が分かるにつれて手も速くなり、魚の側面から灰銀色の鱗が次々と外れていった。
全部同じ大きさではない。背側のものはやや小さく、胴の中央にあるものは大きく厚い。
「大きいの綺麗」
杏々は欠けていない鱗だけ少し分けて置いた。装飾に使うにしても補強材に使うにしても、形のいい方が喜ばれる気がしたからである。
鱗を取り終えると、魚の腹を開き、内臓を外した。
骨は太く、身も厚い。白身だが、触った感覚だけで少し脂があるのが分かった。
「これ美味しいやつ」
まだ食べていないのに決めた。
半身は大きめに切り分け、今日は皮付きで焼く。もう半身は翌日に回すつもりで、塩をして冷たい場所へ置いた。頭と骨も鍋へ入れる。
「出汁」
そこも重要だった。
調理に入る前に、外した鱗を一度水で洗った。表面についていたぬめりや細かな身を指で落とし、布の上へ一枚ずつ並べていく。
「乾かす」
窓際の風が通る場所へ置いた。
魚屋へ持っていけばまとめて引き取ってくれるらしい。大した金額ではないと言っていたが、一匹の魚から食べるところ以外にも何か残るのは少し面白い。
「腕当てか」
杏々は一番大きな鱗を見る。
戦う時に重い鎧を着るつもりはない。動きを邪魔するものは嫌いだった。
ただ、これくらい軽いものを革に重ねる程度なら、使い方によっては邪魔にならないのかもしれない。
「まあ、今度聞く」
自分で考えても分からない。そういうものは職人に聞けばいい。
杏々はそれ以上考えず、夕食の準備へ意識を戻した。
最初に焼く身には、塩を少しだけ振った。
初めて食べる魚なので、香草も強い味付けも使わない。素材そのものの味を覚えてから、次を考えたかった。
皮側から火へ掛ける。
最初は静かだった。やがて皮の下から脂が滲み、熱した鍋へ落ちるたび、小さな音を立て始める。
じゅ、と音がした。
香りが変わる。
「お」
杏々が少しだけ鍋へ顔を近づける。
川魚らしい香りはある。けれど、土や泥を連想させる匂いはほとんどない。それよりも、焼けた皮と脂の香ばしさの方が先に立っていた。
皮は厚い。普通の魚なら火が入りすぎるところまで焼いても、まだ形を保っている。
表面が少しずつ縮み、灰色だった皮に焼き色が付き始めた。
「まだ」
杏々は触らない。
ここで早く返せば、皮が鍋に貼り付いて剥がれるかもしれない。ずっと待っていた魚である。最初の一回くらい、ちゃんと焼きたかった。
脂がさらに出る。
皮の端が少し持ち上がったところで、杏々は箸を入れた。抵抗がない。
「今」
裏返す。
焼けた皮が見えた。
表面は細かく縮み、ところどころ薄く膨らんでいる。箸の先で軽く触れると、ぱり、と乾いた音がした。
「いい」
身側は火を入れすぎないよう少し弱める。
川鎧魚の切り身は厚く、中まで熱が入るには時間がかかった。
最近、本当に待つことが増えた。保存食も、畑も、発酵も、川鎧魚が市場へ来るのも、魚が焼けるのも。
ただし、これは数分だった。
「これは待てる」
壺とは違う。
焼き上がった身を皿へ移しても、杏々はすぐには口へ入れなかった。まず匂いを嗅ぐ。
焼く前より川魚らしさは穏やかになり、その代わり皮から出た脂の香りが強くなっていた。
箸を入れる。
焼けた皮が、ぱり、と小さく割れた。その下から白い身が大きな塊になって外れる。
思ったより柔らかい。
身がぼろぼろ崩れるのではなく、層になってほぐれる。表面には薄く脂が滲んでいた。
「……おお」
杏々はまず、皮を入れずに身だけ取った。
一口。
そのまま噛む。
すぐには次へ行かなかった。
味が弱いわけではない。ただ、最初に塩気や脂が強く押してくる魚ではなかった。
噛んだ瞬間は淡い。白身の柔らかさと、ほんの少しの塩。けれど、二度、三度と噛むうちに、身そのものの甘さがゆっくり出てくる。
その後から脂が広がった。
脂はあるのに重くない。飲み込んだ後には、肉でも海の魚でもない、川魚らしい香りが少しだけ残る。
杏々はもう一度、同じ場所の身を少し取った。
今度はもっとゆっくり噛む。
「……美味しい」
いつもと同じ短い言葉だった。
でも、次の一口までの間がいつもより長かった。
ずっと待っていた。
市場で名前を聞いてから何度も魚屋を覗いた。入荷がないと言われた。小さい個体が来たと聞いた時も、ちゃんと育ったものを食べたくて見送った。
赤ランクになり、ようやく値段を見ても「買える」と言えるようになった。
それで食べた味が、ちゃんと美味しい。
「よかった」
杏々が小さく言った。
次は皮を付けて食べる。
ぱり。
噛んだ瞬間、今度は最初から印象が変わった。
「ん」
皮の表面は硬い。けれど噛み切れないほどではない。
焼けた部分が割れた直後、そのすぐ下に残っていた脂が口の中へ広がる。身だけを食べた時はゆっくり現れた旨味が、皮と一緒だと最初から強い。
「皮、すごくいい」
杏々はもう一度皮付きの身を食べる。
今度は少し塩を足した。
「こっち」
味が締まる。
皮の脂と身の甘さがはっきり分かれるようになった。
「塩だけでいい」
香草を使わなかったのは正解だった。
もちろん別の味付けも合うだろう。煮てもいい。蒸してもいい。香草と合わせてもいいかもしれない。
でも、初めて食べる一回はこれでよかった。
杏々は食べる場所も変えてみた。
腹側は少し脂が強い。背側は身の締まりが少し強く、淡い味が分かりやすい。骨の近くは量こそ少ないが、味が濃い。
「場所で違う」
全部覚えておく。
食べ物に関してだけは、そういう違いがほとんど苦にならない。
杏々はパンを一つ取り出した。
川鎧魚だけでも十分美味しい。けれど、皮から落ちた脂をパンへ少し吸わせてみる。
一口。
「これもいい」
今度は少し笑った。
大きく表情が変わるわけではない。それでも杏々を知っている人間なら、かなり気に入っていると分かる程度には口元が緩んでいた。
焼いた身を食べながら、頭と骨を入れた鍋も見る。
まだ薄い。
「もっと」
火を弱くしたまま、さらに煮る。
骨の隙間に残っていた身がほぐれ、表面には細かな脂が浮いてきた。
杏々は焼き魚を食べ終える頃まで待ち、それから汁を少し器へ取った。
最初は塩も入れず、そのまま飲む。
「……あ」
焼いた身とは違う。
身だけなら淡かった味が、汁では最初からはっきりしている。骨の周りの旨味と脂が湯へ出ていて、飲み込んだ後にも魚の味が残った。
それでも臭みは強くない。
「出汁いい」
塩を少し加える。
もう一度飲む。
「もっといい」
今度は葉物を少し入れた。野菜へ魚の脂が絡む。
「鍋いける」
翌日用に残してある半身を見る。
最初は煮るつもりだった。でも今は鍋も試したい。蒸したらどうなるのかも気になる。もう一度皮を焼いて、今度は少し違う塩加減も試したい。
「一匹じゃ足りない」
量が足りないという意味ではなかった。
もちろん杏々なら全部食べることもできる。そうではなく、試したい食べ方が多すぎた。
「次もいる」
その言葉は、魚屋で買った時より真剣だった。
次がいつ入るか分からない。その事実が、今までより少しだけ残念に感じられる。
「いっぱい獲れたらいいのに」
美味しいから。
それが一番最初に出てくる理由だった。
けれど、魚屋から聞いた「昔より少ない」という話も、食べ終えた後では少し違う重さを持っていた。
こんなに美味しいものなら、昔はもっと普通に食べられていた人たちが羨ましい。それが減っているなら、残念だった。
原因までは分からない。
だから、そこから先はまだ考えない。
食事を終えて片付ける頃、窓際に並べた鱗の表面からはだいぶ水気が引いていた。
杏々は一枚だけ持ち上げる。
まだ完全には乾いていないが、濡れていた時より硬さがはっきりしている。
「ほんとに鎧みたい」
名前を付けた人も、同じことを思ったのかもしれない。
杏々は鱗を指先で軽く弾いてみた。
薄いのに、乾き始めるとかなり張りがある。これを何枚か重ねて革に付ける。魚屋の話を思い出すと、腕当ての補強になるというのも少し分かる気がした。
「軽い」
金属よりずっと軽い。これなら動きを邪魔しにくいかもしれない。
杏々は自分の腕へ鱗を一枚当ててみた。
もちろん一枚だけでは何の装備にもならない。しかも今は小さい身体だ。本来の身体へ戻れば腕の長さも太さも変わる。
「そのままは無理」
服と同じだった。
両方の身体で使うなら、それに合わせた作り方が必要になる。
杏々はそこで少しだけ興味を持った。
「細工屋、見てみたい」
食べ終わった魚から残ったものが、今度は装備に変わるかもしれない。それは少し面白い。
とはいえ、今すぐ何かを作るつもりはない。まずは乾かす。そして魚屋へ持っていく。その時に、どこへ渡すのか聞けばいい。
食後、満足したまま日記を開いた。
『川鎧魚きた』
『大きい』
『高い』
『でも買えた』
その次はかなり細かくなった。
『鱗すごく固い』
『尾の方から刃入れたらやりやすい』
『鱗は洗って乾かす』
『細工 補強 腕当てにも使うらしい』
『軽い』
『皮は残す』
『皮焼くとぱりぱり』
食べた部分については、さらに文字が増えた。
『身は白い』
『最初は味淡い』
『噛むと甘い』
『脂あるけど重くない』
『腹の方が脂多い』
『背の方は少し締まってる』
『骨の近く味濃い』
『皮と一緒だとすごくおいしい』
『塩だけでいい』
『パンにも合う』
『骨と頭の汁かなりおいしい』
『鍋もたぶんいい』
『明日は残り食べる』
杏々の日記としては異様に長い。
名前の覚えられない人間と二泊三日一緒に仕事をした時より、今日一匹食べた魚の方が細かく記録されていた。
そこまで書いてから、魚屋で聞いた話も思い出す。
『今年店に成魚三匹』
『前より少ない』
『獲れる場所少し上になったらしい』
『一匹だけだからまだ分からない』
最後の一行は、最近の杏々の日記によく出てくるようになった。
まだ分からない。
昔なら、そこまで気にしなかったかもしれない。
美味しい。少ない。場所が変わった。それだけで話は終わっていた。
今は、森や川や山でいろいろなものを見てきたせいで、一つの出来事だけで決めない方がいいと知っている。
ただし、美味しさについては別だった。
杏々は少し考え、
『川鎧魚 かなりおいしい』
と大きく書いた。
さらにその横へ、
『また食べたい』
と付け足す。
こちらに保留はなかった。
日記を閉じると、翌日用に残してある半身を確認する。それから、窓際の鱗も確認した。
「魚、全部使える」
身。皮。頭。骨。そして鱗。
内臓の一部以外は、ほとんど残らなかった。
「いい魚」
杏々にとって、その評価には味以外のものも少しだけ加わった。
ただ、それでも一番は味だった。
翌日の半身をどうするか考えながら、杏々はもう一度今日の焼いた皮を思い出す。
「……鍋もしたい」
煮るか、蒸すか、鍋にするか、もう一度焼くか。
それに、乾いた鱗を魚屋へ持っていけば、その先には細工屋か防具屋がいるらしい。
食べた魚が、今度は別の形で自分の生活へ残るかもしれない。
研究室で聞いた三百年前の勇者のことは、今日はほとんど考えなかった。
川鎧魚が来たからである。
杏々にとっては、それも十分に大きな一日だった。




