勇者になる前
旧街道の調査護衛を終えてからも、杏々は赤ランクの仕事を続けていた。
王都の外へ出る日もあれば、昼には帰ってこられる仕事を選ぶ日もある。護衛、採取班への同行、街道周辺の巡回、荷車の先行確認。たまに魔物を倒すこともあるが、赤ランクになってから杏々が覚えたのは、戦うことよりも「何も起こさず帰ってくる仕事」の方が多いということだった。
そうした日々がさらに十日ほど続いた。
保存食の方は商人たちが原価や作業量を計算する段階に入ったため、杏々が毎日のように呼ばれることはなくなった。肉屋が作った別の試作を何度か食べ比べ、「前より少し塩が多い」「香草はこっちの方が同じくらい」と伝えた程度である。
味噌と醤油の壺は、当然まだ待つ。
畑も待つ。
川鎧魚も入荷待ち。
待っているものばかり増えたが、その間にも仕事はできるし、ご飯も食べられる。
杏々はそれで困っていなかった。
その日の仕事は午前中で終わった。
王都の東側にある資材倉庫まで荷車を護衛し、荷物を渡して帰ってくるだけの短い依頼で、報告まで済ませてもまだ昼を少し過ぎたくらいだった。
「今日は早い」
「問題がなければ、こういう仕事もありますよ」
受付嬢から報酬を受け取り、杏々はそのまま市場へ向かおうとした。
そこで呼び止められる。
「杏々さん。リネットさんから伝言が来てます」
「リネットちゃん?」
「今日は研究室にいるそうです。時間があれば来てほしいと」
「何か分かった?」
「そこまでは聞いてません」
杏々は少し考えた。
昼ご飯はまだだった。
「先に食べていい?」
「私に聞かれても」
「じゃあ食べてから行く」
「その方がリネットさんも話しやすいと思います」
受付嬢の判断は正しかった。
空腹のまま長い話を聞かせるよりは、先に食べさせておいた方がいい。
杏々は市場で焼いた鶏肉を挟んだパンと、野菜の入った温かい汁を食べ、それでも少し足りなかったので小さな焼き菓子を二つ追加した。それからようやく研究棟へ向かった。
リネットのいる部屋を訪ねると、机の上には以前より紙が増えていた。
「来たよ」
「あ、杏々さん。ありがとうございます」
眼鏡の奥の目が少し疲れている。
杏々は机を見る。
「また増えた」
「増えました」
「寝てる?」
「寝ています」
「本当?」
「最近、みんな同じこと聞くんですよ」
「じゃあ怪しい」
「寝てますから」
以前ならそのまま言い合いになっていたかもしれないが、リネットも最近は杏々の扱いに慣れている。眼鏡を押し上げると、机の中央に何枚かの写しを並べた。
「今日は、前に話した古い水路の記録の続きです」
「三百年前くらいの?」
「そうです」
それなら杏々も覚えていた。
およそ三百年前。
古い記録の中に、「異邦より招かれし者」「外より来たりし者」「地の理を異にする者」といった呼び方をされた人物が登場する。
その人物が現れた時期の前後で、水路の作り方や農地の使い方に変化があった。
そして、もっと後の記録では、その人物が「勇者」と呼ばれている。
「前は、水路を作った後に新しく使われ始めた土地が増えている、というところまででしたよね」
「うん」
「その後の記録が少し見つかりました」
リネットは一枚の紙を杏々の前へ向ける。
杏々は眺めた。
「読めない」
「知ってます」
「じゃあ読んで」
「そのつもりです」
現地の文字も簡単なものなら以前より読めるようになっているが、三百年前の公文書となると別だった。今と字形も違い、言葉遣いも古い。杏々にとっては、ほとんど模様に近い。
リネットは写しの一部を指した。
「これは、当時の地方役人が残した土地の記録です。水路が作られた後、今まで使われていなかった土地を耕地に変えたことが書かれています」
「いっぱい採れた?」
「そこが、まだはっきりしません。ただ、別の記録では数年後に、その地域から納められる穀物の量が増えています」
「じゃあ水路のおかげ?」
「そう言いたくなるんですけど、それだけでは断定できません」
杏々が頷く。
その言葉にも慣れた。
水路ができた。
その後、畑が増えた。
さらに後に収穫量も増えた。
順番だけを見れば関係がありそうだが、その間に天候が良かったかもしれないし、人が増えたのかもしれない。別の技術が同時に入った可能性もある。
「でも、今回面白いのはそこじゃないんです」
リネットが別の紙を出した。
「こっちは、その人物について直接書いてある記録です」
「勇者?」
「まだ勇者じゃありません」
杏々がリネットを見る。
「まだ?」
「少なくとも、この記録では」
リネットは少し身を乗り出した。
「これ、水路が完成した頃とほぼ同時期の記録なんです。でも、その人物のことを『勇者』とは一度も書いていません」
「何て書いてるの?」
「『招かれし客人』。別の場所では『異邦の知恵を持つ者』です」
「客人」
「はい」
「戦ってない?」
「戦ったかどうかは分かりません。ただ、この一連の記録には戦闘の話がほとんどないんです」
杏々は紙を見た。
読めない。
なのでリネットの顔を見る。
「何してたの?」
「水路の位置について意見を出したとか、農地を一度に広げすぎないように話したとか、井戸の周りを汚さないようにしたとか……そういう話ばかりです」
「普通」
「普通なんですよ」
リネットが少し強く言った。
「少なくとも、私たちが今『勇者』と聞いて想像するような記録じゃないんです」
今のアルヴェリア王国で勇者と言えば、魔王や魔族に対抗するために召喚される特別な存在である。
強大な力を持つ。
魔族と戦う。
国を救う。
杏々自身も、そのつもりで城へ呼ばれた。
結果として魔力が一切なかったので失敗扱いされたが、召喚した側が期待していたのは明らかに戦う勇者だった。
「でもこの人、水路?」
「水路だけではないみたいです」
リネットはさらに数枚を並べる。
「まだ断片的ですが、食料の保管方法について助言したらしい記述と、病人が出た時に井戸を分けたという記述もあります」
杏々の眉が少し動いた。
「井戸分ける?」
「病気の人が使う水場と、そうでない人が使う水場を分けた、という意味だと思います」
「それ大事かも」
「杏々さんもそう思います?」
「病気によるけど、水で広がるやつなら」
リネットの筆が動いた。
「ちょっと待ってください。今の、もう少し詳しく」
「え」
「水で広がる病気って?」
「あるよ」
「どういう?」
「いっぱいあると思うけど……」
杏々はそこで止まった。
小さい身体では、知っていることを一つずつ整理して説明するのが面倒になりやすい。
だから、考える。
「汚い水飲んで、お腹壊すやつとか」
「それは、この世界にもあります」
「病気の人の……その、出したやつとかが水に入って、それ飲んだ人がまた病気になるのもある」
リネットの表情が変わった。
「それ、本当に?」
「元の世界では」
「魔力なしで?」
「病気に魔力関係あるの?」
「こちらでは、病の説明に魔力循環を使うことも多いので……」
「全部?」
「全部ではありません」
「なら分かんない」
杏々はすぐに引いた。
元の世界の知識を、そのまま異世界へ当てはめるつもりはない。
リネットもそれ以上断定せず、横に大きな疑問符を書いた。
「……これも別に調べたいですが、今は置きます」
「増えた」
「杏々さんが増やしたんですよ」
「ごめん」
「謝らなくていいですけど!」
やはり仕事は増える。
杏々はちょっとだけ申し訳なくなった。
リネットは一度紙を整理し、話を元へ戻した。
「とにかく、三百年前のこの人物は、少なくとも初期の記録では『勇者』ではありませんでした。王国へ呼ばれた特別な人物ではあった。でも、記録されている功績は戦闘ではなく、生活や土地に関するものが中心です」
「いつ勇者になったの?」
「そこです」
今度のリネットは、すぐには紙を出さなかった。
「今見つかっている範囲だと、その人物が亡くなった後か、かなり晩年になってからです」
「後から?」
「可能性があります」
後世に作られた年代記では、その人物は明確に「古き勇者」と呼ばれている。
さらに後の時代になると、「国を救った異邦の勇者」という記述へ変わっていく。
けれど、本人が生きていた頃に近い記録では、その呼び方が見つからない。
「書いた人が違うだけじゃない?」
「それもあります。時代によって言葉が違うだけかもしれません。それに、まだ見つけていない記録で勇者と呼ばれている可能性もあります」
「じゃあまだ分かんない」
「はい。でも……」
リネットはそこで一度言葉を切った。
「もしこれが偶然ではないなら、『勇者だから召喚された』のではなく、『召喚された人を後から勇者と呼ぶようになった』可能性があります」
部屋が少し静かになった。
杏々はすぐには答えなかった。
机に並んでいる紙を見る。
読めない字。
昔の人。
水路。
畑。
井戸。
保存。
どれも魔王を倒した話ではない。
「じゃあ、私も?」
杏々が言った。
リネットが顔を上げる。
「何です?」
「勇者じゃなくてもよかった?」
召喚された時。
城では杏々を勇者として扱おうとした。
けれど魔力を測り、何も出なかった。
だから失敗だと言われた。
もし昔の召喚が、そもそも今と違う目的で行われていたのなら。
「……まだ、そこまでは言えません」
リネットは慎重に答えた。
「杏々さんの召喚と三百年前の召喚が同じ仕組みだったかも分かりません。当時の人が何を目的に召喚したのかも分かっていません」
「うん」
「ただ」
リネットは紙を一枚持ち上げた。
「少なくとも私は、杏々さんに魔力がなかったから召喚が失敗した、という説明を、そのまま信じるのはやめました」
杏々は少し考えた。
「そうなの?」
「そうなんです」
「私はもう冒険者だから、どっちでもいいけど」
「杏々さんはそうでしょうね!」
「ご飯食べられるし」
「知ってます!」
リネットの声が少し大きくなり、部屋の外で誰かが通り過ぎる足音が止まった。
リネットは咳払いする。
「……とにかく、調べます」
「うん」
「あと、これはまだ誰にでも話せる内容ではありません。研究所内でも、今は古記録の分類をやっていることにしています」
「危ない?」
「今すぐ危ないとは思いません。ただ、現在の勇者召喚の前提そのものに関わる可能性があるので、断片だけで話を広げたくありません」
「分かった」
杏々はそういう約束は守る。
食べ物のことなら口が軽くなることもあるが、誰かが困るような話を勝手に広げる気はなかった。
リネットは少し安心したように息を吐き、それから机の隅に置いてあった小さな包みを杏々へ差し出した。
「これ、資料室の人からです」
「何?」
「焼き菓子です。前に杏々さんが荷物運びを手伝った時のお礼だそうです」
杏々の目が変わる。
「誰?」
「ほら、以前資料庫で――」
「焼き菓子くれる人?」
「人を食べ物で覚えないでください!」
「思い出した」
「絶対名前は思い出してませんよね?」
「顔は分かる」
「名前は?」
「……焼き菓子の」
「もういいです」
包みを開けると、小さな木の実を混ぜた硬めの焼き菓子が三枚入っていた。
杏々は一枚食べる。
「美味しい」
「今の話、全部飛んでませんよね?」
「覚えてるよ」
「本当ですか?」
「三百年前の人、水路と畑と井戸。最初は勇者って書いてない。後から勇者になったかも」
ほとんど合っていた。
リネットは少し驚いてから、肩を落とした。
「食べながらの方が記憶力いいんじゃないですか?」
「そうかも」
「そんな馬鹿な……」
実際には、杏々は食べ物と一緒に話したこともかなりよく覚えている。
リネットが渡してくれた焼き菓子が美味しかったので、今日の話もたぶん長く残るだろう。
研究室を出る頃には、外はもう夕方になっていた。
杏々は家へ向かいながら、三百年前の人物のことを少しだけ考えた。
呼ばれて。
知らない土地に来て。
水路の話をして。
畑の話をして。
井戸の使い方を変えた。
それで後から勇者になった。
「変なの」
今の勇者とは、ずいぶん違う。
けれど。
美味しいものを食べるために冒険者になって、畑で聞いた話をして、保存食を作って、それを商人が商品にしようとしている自分も、外から見れば似たようなことをしているのかもしれない。
杏々はそこまで考え、
「まあいいか」
とやめた。
勇者になるつもりはない。
今日は夕食に何を作るかの方が大事だった。
家へ帰る途中で肉と茸を買い、少し濃いめの煮込みを作る。食後に日記を開くと、今日聞いたことを忘れないうちに書き始めた。
『三百年前の呼ばれた人』
『最初は勇者って書いてない』
『水路 畑 井戸』
『後から勇者になったかも』
『まだ分からない』
そして、その下へ少し大きな字で、
『焼き菓子 木の実入り 固いけどおいしい』
と書く。
三百年前の勇者についての記録と、今日食べた焼き菓子。
杏々の日記では、同じ一日の出来事として並んでいた。
けれどリネットの机の上では、小さな違和感がまた一つ増えている。
勇者とは何なのか。
何のために、異世界から人を呼んでいたのか。
そして、今の王国が使っている勇者召喚は、本当に昔と同じものなのか。
答えはまだ、古い紙の中に埋まったままだった。




