十日目
翌日の昼過ぎ、杏々は商会のいつもの部屋にいた。
最初に保存食の話を持ち込んでから、ずいぶんここへ来る回数が増えた。以前なら商会といえば護衛依頼の荷を受け取ったり、商人の話を聞いたりする場所だったのに、今では机の上に肉と紙が並んでいる光景にも慣れてきている。
今日は、その試験の十日目だった。
「これで最初の分は最後?」
杏々が机の上の袋を見る。
「最初に決めてた区切りとしてはな」
商人が答える。
「ただし、今日食えて終わりじゃないぞ」
「分かってる。値段とかある」
「ちゃんと覚えてるじゃないか」
「いっぱい聞いたから」
肉屋と食品担当の男もすでに準備を始めていた。十日前に同じ条件で作り、今日まで一度も開けずに置いてあった最後の袋を確認していく。
見た目だけなら、七日目よりさらに乾燥が進んでいる。特に薄切り肉は端が強く反り、指で触っただけでも硬くなっているのが分かった。
「匂いは変じゃない」
杏々が少し顔を近づける。
「まだ食うなよ」
「嗅いでるだけ」
「最近その辺はちゃんと待つようになったな」
「食べる日決まってるから」
理由はやはり食べ物だった。
肉屋たちの確認が終わるまで待ってから、最初の基本味が杏々の前へ置かれた。
杏々は一枚取って噛んだ。
すぐには言葉が出ない。
七日目より明らかに硬い。噛み切れないほどではないが、口の中で戻るまで少し時間がかかる。
「固い」
「やっぱり来たか」
「食べられるけど、旅で毎日これだとちょっと嫌」
「味は?」
杏々はさらに噛みながら、十日前から順番に思い返した。
「塩はかなり強く感じる。作った日はちょっと弱いと思ったけど、三日目でちょうどよくなって、七日でもパンならよかった。今日は、そのままだと強い」
「パンと一緒なら?」
「食べられる。でも七日の方が好き」
商人は記録へ目を落とした。
「つまり、十日持つことは持つが、味としては七日くらいまでの方がいい?」
「私はそう思う」
「俺も近いな」
肉屋が自分の分を噛みながら頷いた。
「十日目になると、薄くした分だけ乾きすぎる。保存性だけ考えりゃ悪くないが、これなら普通の干し肉でもいい」
その一言に商人が反応した。
「そこだな」
今回の薄切り保存肉は、普通の干し肉より食べやすく、味を変えやすいところに意味がある。長く持たせようとして硬くなりすぎれば、その利点が薄れる。
「じゃあ十日用じゃない?」
杏々が聞く。
「少なくとも、この作り方のままならな。一週間前後で食べる商品として考えた方がよさそうだ」
「その方が美味しい」
「お前の評価基準は最後までそこだな」
「大事だから」
そこは一度も変わらなかった。
次は香草入り。
こちらは一口食べた時点で、杏々が少し首を傾げた。
「ほとんど普通の肉になった」
「そこまで香り落ちたか?」
「残ってるけど弱い。七日でもかなり減ってたけど、今日はもっと少ない」
肉屋も食べて確かめる。
「確かにな。辛うじて違いは分かるが、わざわざ香草入りとして売るほどじゃないかもしれん」
「香草増やしたら?」
「それも試せる。ただ、今度は作った直後が強すぎる可能性がある」
杏々は十日前の味を思い出す。
「最初の日、今よりかなり香った」
「だろ?」
「なら、七日くらいで食べるなら今のままでもいいかも」
食品担当が頷いた。
「最初から保存期間を長くしすぎず、『七日くらいまでに食べるもの』として作るなら、それで成立する可能性はある」
「十日持つけど、十日用じゃない」
「そういうことだな」
杏々は少し納得した。
保存食だからといって、食べられる限界まで引っ張る必要はない。美味しく食べられる期間を決め、その範囲で売る。
その考え方にも、かなり慣れてきた。
最後の辛味入りは、十日経っても比較的特徴が残っていた。
「辛いのはまだ分かる」
「香りは?」
「減ってる。でも辛さあるから味違うのは分かる」
「硬さは同じか」
「うん。そこは普通のと一緒」
杏々は少し考えてから付け足した。
「辛いのだけなら十日でも食べたい。でも肉自体は七日の方がいい」
「味付けでごまかせても、食感の問題は残るってことだな」
「そう」
最初の薄切り肉については、かなり方向が見えてきた。
十日間保存できること自体は確認できた。
ただ、商品として一番美味しく使えるのはそれより短い。
七日前後を目安にし、普通味と香草入りを基本にする。辛味入りは好みが分かれるので、もし作るとしても後からでいい。
少なくとも、最初から三種類を並べる必要はなさそうだった。
◆
スープ用の方は、薄切り肉より変化が穏やかだった。
三種類をこれまでと同じ水量で煮ていくと、肉は乾いた状態ではかなり硬くなっていたが、しばらく煮ることである程度戻った。
杏々は最初の薄味を飲み、少し考える。
「まだ普通に飲める」
「塩は?」
「前より少し強い。でも薄いやつだから、今でもそのままで平気」
二番目の中間も試す。ここまでずっと一番使いやすいと評価してきたものだ。
「これもいい」
「十日でも?」
「うん。七日より少し濃く感じるけど、まだそのまま飲める。パンにも合うし、豆ちょっと入れても大丈夫そう」
「結局これが残ったか」
商人が笑う。
最後の濃い味は、杏々が一口飲んですぐに水を少し足した。
「そのままだとしょっぱい」
「十日目では厳しいか」
「でも水増やしたら使える。芋とか豆いっぱい入れるなら、もっといいと思う」
「使い道はあるけど、最初の商品としては説明が増えるな」
「真ん中の方が簡単」
「そういうことだ」
食品担当の男が、今までの記録をまとめながら話す。
「薄切り肉は、保存そのものより味と食感の変化が早い。スープ用は煮る前提だから、その辺の変化を吸収しやすい。今のところ、商品として形にしやすいのはこっちかもしれないな」
「スープが先?」
杏々が聞く。
「可能性は高い」
「薄い肉なくなる?」
「なくすとは言ってない。二つとも試験は続ける。ただ、同時に全部進めると面倒だから、先に一つ形にするならスープ用の方が楽そうだって話だ」
「ならいい」
杏々は安心した。
薄切り肉も食べたい。
スープも食べたい。
結局そこだった。
ただ、商売側から見ても、スープ用の方には別の利点がある。多少野菜が砕けても問題になりにくく、肉が少し硬くなっても煮れば戻る。パンや豆など旅人が元から持っている食事に足せるので、一袋の量を多くしすぎなくていい。
そして一泊二日の実地試験で、「袋を開けて鍋へ入れるだけ」という使い方そのものは十分便利だと分かっている。
「問題は袋」
杏々が言う。
「そう。あと値段だ」
「紐直したのある」
「次に外へ持っていく分な。それをもう一度試してもらう」
「いつ?」
「ちょうどいい仕事があった時でいい。今度は一泊より少し長い方がありがたいが、保存食のために仕事を作るつもりはない」
「二泊くらい?」
「その程度なら十分だ」
「探す」
「無理に探すな」
「分かってる」
最近、このやり取りも増えた。
杏々は前よりちゃんと待てる。
ただし、ちょうどいい依頼があれば迷わず取るつもりだった。
◆
十日目の試験が終わると、商人たちは今までの記録を一度まとめることにした。
次に見るのは、保存期間だけではない。
肉屋が同じ味を繰り返し作れるか。
一回分の材料費がいくらになるか。
普通の保存肉と比べて、どれくらい高くなるのか。
袋を一食分ずつ用意する手間がどれだけ増えるのか。
商会が利益を乗せた時、冒険者や商隊の人間が実際に買える値段になるのか。
ここから先は、杏々が味見をするだけでは決められないことが増えていく。
「私、何する?」
「食べる」
「お」
「それと、外へ持っていった時の使い勝手を見る。作り方や値段はこっちで詰める」
「いい役」
「お前に数字の帳簿までやらせる気はない」
「助かる」
杏々は素直だった。
「あと、今後は何回か同じものを作って、味がちゃんと揃うかも見たい」
肉屋が言う。
「一回だけ上手くいっても意味ないからな」
「同じ味を作れるか見る?」
「そういうことだ。前にお前が作ってたやつは、その日の感覚で塩も香草も変えてただろ。商品にするなら、誰が買っても『前に食べたのとだいたい同じだ』と思えるくらいには揃えたい」
「なら、私も食べ比べる」
「その役は頼む。作るたびに違ってたら教えてくれ」
「分かった」
杏々は少し嬉しそうだった。
食べる仕事がまだ続くらしい。
試験の区切りとして今日も謝礼を受け取る。
「最初の試験終わった」
「ああ。とりあえずな」
「成功?」
「失敗ではない。むしろかなりいいところまで来てる。ただ、売れるかどうかはここからだ」
「まだ待つ」
「またそれだな」
「最近多い」
「商売も研究も農業も、だいたいそんなもんだ」
杏々は硬貨をしまった。
その辺も、この世界へ来た頃より少し分かるようになった。
◆
商会を出た後は、まだ日が高かったので市場へ寄った。
魚屋の前を通る。
「川鎧魚ある?」
「今日はない」
「そっか」
「でも昨日、小さいのが一匹だけ別の店に入ったらしいぞ」
杏々が止まる。
「小さい?」
「成魚じゃない。食うにはまだ微妙な大きさだ」
「じゃあ待つ」
「お前がそれ言うと妙な感じするな」
「美味しい方がいい」
「なるほどな」
無理に小さいものを買う必要はない。食べたいのは川鎧魚であって、名前だけ同じものなら何でもいいわけではなかった。
今日は代わりに鶏肉と野菜を買い、家へ帰る。
夕食を作る前に、杏々は味噌と醤油の壺を軽く確認した。仕込んでからまだ一か月ほどしか経っていないので、こちらは当然まだ先だ。
「これはもっと待つ」
保存食の十日が急に短く感じる。
家で普通の食事を済ませた後、日記を開いた。
『十日後』
『薄い肉 食べられる』
『でも七日の方が美味しい』
『固くなった』
『塩も強い』
香草については、
『十日だと香草かなり弱い』
『七日くらいまでがよさそう』
辛味入りには、
『辛いのはまだ分かる』
『でも肉は固い』
と書く。
スープの記録はもっと簡単だった。
『真ん中 十日でもいい』
『煮るから肉の固さ戻る』
『最初に売るならスープの方かも』
そこまで書いてから、杏々は今日聞いた次の段階も残した。
『次は値段』
『同じ味を何回も作れるか』
『袋もう一回外で試す』
『私は食べる』
最後の一行だけ、少し筆が軽かった。
十日前までは、自分が作った保存食を商人が見つけただけだった。それが十日間試され、味を比べ、外へ持ち出され、少しずつ形が決まってきた。
まだ商品ではない。
名前もない。
値段も決まっていない。
それでも、最初よりは確実に先へ進んでいる。
「一区切り」
杏々は日記を閉じた。
その日は、保存食の完成日ではなかった。
ただ、自分だけが食べるものだった保存食が、他の誰かにも渡せるかもしれないものへ変わり始めた日だった。




