今日は宿がない
帰路二日目。
朝から空が暗かった。
雨が降っているわけではない。
ただ、山側から厚い雲が流れてきていて、昨日までより風も少し強い。
商隊は予定通り宿場を出たが、責任者は出発前から何度も空を見ていた。
「今日は少し急ぐ」
護衛と御者を集めて説明する。
「昼過ぎから雨になるかもしれん。街道がぬかるむ前に、できるだけ距離を稼ぎたい」
「次の宿場まで?」
「順調ならな」
杏々も空を見上げた。
「雨嫌」
「濡れるからか?」
「ご飯作りにくい」
盾役が杏々を見る。
「そこなんだな」
◆
午前中は普段より休憩を短くして進んだ。
牛や馬を無理に急がせることはできないが、止まる時間を減らせば多少は距離を稼げる。
杏々も黙って荷車の横を歩く。
王都へ近づくにつれて山は少しずつ遠くなっているものの、まだ道には起伏が多い。
風が木々を揺らす。
時々、大きな葉が街道へ飛んでくる。
「来そう」
杏々が言った。
「分かるのか?」
弓使いが聞く。
「匂いする」
「雨の?」
「たぶん」
元の世界でも、雨の前には空気の匂いが変わることがあった。
理屈までは覚えていない。
でも、この匂いは知っていた。
◆
昼休みも短かった。
火は使わない。
支給されたパンと干し肉を食べる。
杏々も今日はそのまま食べた。
「出さないのか?」
保存食を観察し続けている商人が聞く。
「急いでるから」
「ちゃんと状況で変えるんだな」
「食べるの遅くなると出発遅れる」
「そこは分かるんだな」
「護衛だから」
杏々は干し肉を噛む。
硬い。
「でも夜は美味しいの食べる」
「宿場に着けばな」
「着くでしょ?」
「たぶんな」
商人は空を見る。
「たぶん」
杏々も空を見た。
◆
雨が降り始めたのは、その一刻ほど後だった。
最初は細かい。
すぐに強くなる。
荷車には布をかけ、濡れて困る荷はさらに内側へ寄せる。
全員が雨具を使う。
杏々も小さな身体に合わせた外套を被った。
「前見えにくい」
「だから気をつけろ」
盾役が声を張る。
雨音で普段より会話が聞こえにくい。
街道はすぐに水を含み始めた。
◆
それでも最初のうちは進めた。
問題が起きたのは、午後も半ばを過ぎた頃だった。
先頭から合図が来る。
「止まれ!」
荷車が順番に停止する。
杏々はすぐ前方を見る。
魔物ではない。
道だった。
緩い斜面を横切る部分で、街道の端が少し崩れている。
完全に通れないわけではないが、八台の荷車をそのまま通すには危ない。
「朝はまだ平気だった道か?」
「昨夜から緩んでたんだろうな」
御者が地面を見る。
「この雨じゃ、さらに崩れるかもしれん」
◆
護衛と商隊の責任者で確認する。
反対側へ大きく迂回する道はない。
慎重に一台ずつ通すことはできそうだが、その分かなり時間がかかる。
次の宿場まで、まだ距離がある。
「今日中は厳しいか」
責任者が呟いた。
杏々が聞く。
「宿ない?」
「この先にも小さな休憩所はある。屋根はないが、水場と野営地はあるはずだ」
「外?」
「そうなるな」
杏々は雨を見る。
「ご飯どうする?」
「まず道だ」
「うん」
◆
一台ずつ通すことになった。
荷を軽くするため、必要なものは一時的に人の手で運ぶ。
杏々も手伝う。
小さい身体で荷箱を抱えて歩く姿に、ローディン側から加わった商隊の者が何度か二度見していた。
「それ重いぞ?」
「大丈夫」
「……本当に大丈夫そうだな」
ただし、何でも杏々一人に持たせることはしない。
地面が悪い。
足元を滑らせれば、荷を壊す可能性がある。
必要以上に力を使う場面ではなかった。
◆
最も危ない場所では、荷車の片側を数人で支えながら通した。
杏々も車輪側へ立つ。
「押す?」
「倒れそうになった時だけ頼む」
「分かった」
以前なら先に持ち上げようとしたかもしれない。
今は御者の指示を待つ。
馬を進ませる。
車輪が泥を噛む。
少し傾く。
「今!」
声が飛ぶ。
杏々は荷台へ手を当てた。
押し戻す。
ほんの一瞬だけ。
荷車が元の角度へ戻る。
「そのまま!」
無事に通過した。
◆
八台すべてを通し終える頃には、かなり日が傾いていた。
雨もまだ止まない。
責任者は判断を変えた。
「今日は宿場を諦める。次の休憩地で野営する」
杏々がすぐ聞く。
「屋根は?」
「ない」
「火は?」
「雨が弱まれば使える。駄目なら冷たい飯だ」
「……」
杏々の顔が少し曇る。
「そこまで嫌か?」
槍使いが笑う。
「温かいの食べたい」
「分かるけどな」
◆
休憩地へ着いた頃には、雨は少し弱くなっていた。
街道から外れた林の手前。
簡単に整地された広場と、水を汲める場所がある。
屋根はない。
商隊の者たちは慣れた様子で防水布を張り始めた。
荷車同士の間にも布を渡す。
護衛は周囲を確認する。
魔物の痕跡は見つからない。
それでも今夜は宿場より警戒を厚くする必要がある。
◆
「火、一つならいけるぞ!」
御者の声がした。
杏々が振り返る。
「お」
雨を避けられる場所に、小さな火が起きている。
ただし、全員分の料理を一から作るほどの余裕はない。
商隊の支給食は、パンと干し肉、それに湯で戻せる乾燥豆だった。
普段の野営なら十分だ。
杏々は自分の鞄を見る。
「今日使お」
◆
取り出したのは、スープ用に作った保存肉だった。
普通に食べるものより塩を少し強くしてあり、そのまま大量に食べるためではない。
乾燥野菜も出す。
「鍋借りていい?」
料理を担当していた御者に聞く。
「何する?」
「スープ」
「全員分は無理だぞ」
「自分の少し」
「なら使い終わったら空けてくれ」
「うん」
◆
小さな鍋へ水を入れる。
乾燥野菜。
保存肉。
支給された乾燥豆も少し。
火へかける。
肉から塩気と旨味が出るので、追加の調味料は少なくていい。
最後に香草を少し。
「できた」
湯気が立つ。
雨の中で嗅ぐ温かいスープの匂いは、家で作る時よりずっと美味しそうだった。
◆
「ずるくないか?」
後ろから声がした。
昨日から一緒の商人だった。
「何が?」
「こっちは干し肉齧ってるのに」
「支給の豆も入ってる」
「そうじゃない」
男は鍋を見る。
「それ、昨日言ってたスープ用か?」
「うん」
「食っていい?」
「少しなら」
杏々は小さな器に分けた。
商人が一口飲む。
しばらく黙る。
「……これだな」
「何?」
「たぶん、こっちの方が売りやすいかもしれん」
◆
杏々が首を傾げる。
「肉より?」
「肉そのものじゃなくて、この使い方だ」
商人は鍋を指した。
「支給された豆と水があれば、こいつを入れるだけで味が変わる。干し肉をそのまま食うより温かいものにもできる」
「乾燥野菜もいるよ」
「それもまとめればいい」
「まとめる?」
男の頭の中で何かが動き始めている。
「一食分ずつ袋にするんだ」
◆
「肉、乾燥野菜、香草。必要なら豆も」
「水入れて煮る?」
「そうだ」
「それ便利」
「作った本人が今気づくな」
「私は別々で持ってた」
「だから商品にするならまとめるんだよ」
杏々は考える。
鍋へ入れるものを一袋にしておけば、旅先で順番に探す必要がない。
「楽かも」
「だろ?」
「小さい時でもできる」
「そこが基準なのか?」
「面倒じゃない方がいい」
「買う側も同じだよ」
◆
商人はさらに考える。
「ただし、鍋と火は必要だな」
「雨強いと無理」
「今日くらいならいけるが、もっと酷ければ駄目だ」
「じゃあ肉だけ食べる」
「そういう逃げ道もいるな」
「パン用もある」
「だから組み合わせか」
杏々は自分の食料袋を見た。
香草肉。
辛味肉。
スープ用。
干し魚。
甘味。
「全部違う」
「それがいいんだろうな」
◆
話を聞いていた盾役も寄ってきた。
「俺にも少し残ってるか?」
「ある」
「助かる」
弓使いと槍使いにも分ける。
全員へたくさん配れる量ではない。
ほんの少し。
支給食へ足すだけ。
それでも、冷たいパンと硬い干し肉だけだった夕食に、温かいものが一杯増えた。
「うまいな」
「雨の日は特にな」
「これなら金払ってもいいかもな」
槍使いが言った。
商人がすぐ反応する。
「いくらなら払う?」
「今聞くのかよ」
「今だから聞くんだよ」
「仕事熱心」
杏々が感心する。
◆
商人は護衛三人へ簡単に質問し始めた。
毎回欲しいか。
野営の日だけでいいか。
一食いくらなら買うか。
肉が多い方がいいか。
軽い方がいいか。
辛味は必要か。
「俺は辛いのはいらん」
盾役が言う。
「香草くらいでいい」
「俺は辛い方がいい」
槍使いは逆だった。
「魚もあるなら欲しいな」
弓使いが言う。
杏々は聞いている。
「みんな違う」
「だから種類がある方がいいんだ」
商人が答えた。
「でも種類を増やすと作る方は大変になる」
「面倒?」
「ものすごくな」
「じゃあ三つくらい」
「もう商品構成考えてるじゃねえか」
「食べるなら三つほしい」
「買う側の話か」
◆
杏々は自分のスープを飲む。
温かい。
肉の味が豆へ染みている。
「今日これ持ってきてよかった」
「だろう?」
「宿なくなったから」
「そういう予定外の日に使えるのも価値だな」
商人はもう完全に商売の顔になっていた。
「予定通り宿に泊まれるなら、そこで温かい飯を食えばいい。でも商隊は毎回そうはいかん」
「今日みたいに?」
「そうだ。道が崩れる。雨が降る。車輪が壊れる。魔物で遅れる。いくらでもある」
「ご飯困る」
「だから保存食がある」
杏々は頷いた。
「でも美味しい方がいい」
「そこがお前のやつだな」
◆
夕食を終えると、護衛は見張りの順番を決めた。
今日は宿場ではない。
周囲は暗い林。
雨はほとんど止んだが、濡れた木々から水滴が落ち続けている。
杏々は二番目の見張りになった。
まだ少し時間がある。
防水布の下へ入り、荷物を確認した。
「甘いの」
今日はまだ食べていない。
一個取り出す。
◆
隣で帳簿を書いていた商人が見る。
「まだ食うのか?」
「甘いのは別」
「その焼き菓子も保存食なんだよな」
杏々の手が止まる。
「これはあげない」
「取らんよ」
「残り少ない」
「何個だ?」
杏々は数える。
「四個」
「あと二日くらいだろ?」
「予備ある」
「予備を絶対消費する気だろ」
「予備だから」
「意味分かってるか?」
◆
杏々は焼き菓子を食べながら、雨上がりの匂いを嗅いだ。
今日は予定通りには進まなかった。
本当なら宿場で温かい夕食を食べていた。
でも、道が崩れて届かなかった。
その代わり、自分で持ってきたものを使った。
「予備ってこういう時?」
商人が顔を上げる。
「そうだな」
「じゃあ持ってきて正解」
「食い物に関してだけは準備がいいな」
「だけじゃない」
「他は?」
「着替えもある」
「普通だ」
◆
見張りの時間になる。
杏々は広場の外周をゆっくり歩いた。
濡れた地面。
木々。
暗い道。
遠くで何か小さな動物の音がしたが、近づいてくる気配はない。
気の流れも軽く確認する。
遠征五日目。
身体の調子はまだいい。
本格的な型をやっていなくても、以前ほど崩れる感じがない。
「これも楽になってる」
小さく呟く。
王都へ戻ったら、もう一度きちんと調整して確かめるつもりだった。
◆
翌朝。
雨は上がっていた。
雲の切れ目から薄く光が差している。
濡れた街道を確認してから、商隊は少し遅めに出発することになった。
杏々は朝食として、昨日の残りのパンと固いチーズを食べる。
「ローディンの?」
「うん」
「持って帰るんじゃなかったのか?」
盾役が聞く。
「一個は旅用になった」
「減ってるぞ」
「あと二個ある」
「王都に着く頃、一個になってそうだな」
杏々は少し考えた。
「それはだめ」
「本当か?」
「一個はちゃんと持って帰る」
目標が下がっていた。
◆
出発前、昨日の商人が杏々へ言った。
「王都へ戻ったら、保存肉の店だけじゃなく、乾燥野菜を扱ってる店も教えてくれ」
「なんで?」
「昨日のスープを試すなら必要だろ」
「ああ」
「それと魚屋もだ」
「魚もやる?」
「まず候補だけな。一度に全部はやらん」
「ちゃんとしてる」
「昨日も聞いたぞ、それ」
「商人だから?」
「そうだよ」
◆
杏々は荷車の横へ戻る。
今日が帰路三日目。
順調なら、明日には王都へ着く。
予定より少し遅れている。
それでも問題はない。
荷も無事。
人も無事。
チーズもまだ二個ある。
「大丈夫」
「何が?」
槍使いが聞く。
「色々」
◆
昨夜の日記には、
『五日目』
『雨』
『道ちょっと崩れた』
『宿まで行けなかった』
『外で寝た』
と書いてある。
続いて、
『スープ用の肉使った』
『乾燥野菜と豆入れた』
『雨の日すごく美味しい』
さらに、
『一食分まとめた袋にするかも』
『商隊の人かなり本気』
と残した。
最後には、
『甘いの あと四個』
『チーズ あと二個』
『一個は絶対持って帰る』
と書かれていた。
何を最優先で守るべきかは、読む人によって意見が分かれそうな日記だった。




