持って帰る
翌朝、杏々は予定より早く目を覚ました。
窓の外はまだ明るくなりきっていない。
昨日、宿へ戻る前に聞いた話では、積み替えが順調に進んだため、商隊は昼を待たずにローディンを出る可能性が高いらしい。
つまり、朝しかない。
「食べに行こ」
杏々はすぐに起きた。
◆
宿の食堂でも朝食は出る。
麦粥。
卵。
昨日食べた若酪。
焼いたパン。
普通なら十分だった。
杏々もちゃんと食べた。
その上で外へ出る。
「どこ行くんだ?」
入口で槍使いと会った。
「朝ご飯」
「今食ってただろ」
「食べた」
「じゃあ何しに行くんだ」
「まだ食べてない朝ご飯」
「意味分からん」
◆
早朝の市場は、昨日の夕方とは少し雰囲気が違った。
商人よりも、町の住民が多い。
焼きたてのパン。
乳。
卵。
朝に食べるための温かい料理。
杏々は匂いを追って歩き、一軒の露店で止まった。
鉄板の上で、薄い麦生地が焼かれている。
その上には砕いた若酪と細かく切った肉。
「それ一個」
「朝飯食ってきた顔じゃないね」
「食べてきた」
「じゃあ二回目かい」
「うん」
「元気だねえ」
◆
焼き上がった平焼きを受け取る。
昨日食べたものより生地が薄い。
端は少しぱりっとしている。
中央は若酪が溶けて柔らかい。
一口食べると、乳の酸味と肉の塩気が一緒に来た。
「おいしい」
「朝はこれくらいがちょうどいいだろ」
「蜂蜜も合う?」
「肉入りに?」
「うん」
「好きなら止めないけどね」
少しだけ垂らしてもらった。
食べる。
「合う」
「本当かい?」
「甘い、しょっぱい、乳」
「そう言われるとそんな気もするねえ」
◆
平焼きを食べ終えた後、杏々は別の店で乳を温めた飲み物も買った。
香草が少し入っている。
「これも王都にある?」
「似たのはあるだろうけど、こっちじゃよく飲むよ」
「なんで?」
「乳が近いからね」
杏々はカップを見る。
「近いといっぱいある」
「そりゃそうさ。遠くまで運べないものもあるからね」
「これ?」
「生の乳なんかは特にね。悪くなる前に飲むか、加工する」
「だから若酪とか固いのにする?」
「そういうこと」
杏々は少し考えた。
昨日は単純に美味しいと思っていた。
けれど、固く熟成させたものと、柔らかいものでは意味も違う。
「遠くに持ってくためでもあるんだ」
「まあ、それだけじゃないけどね」
「なるほど」
◆
そこで杏々は思い出した。
「持って帰れるやつ欲しい」
「自分で食べるのかい?」
「うん」
「なら柔らかいのより、こっちの固いやつにしな。数日は旅するんだろ?」
「三日」
「だったら包みをちゃんとしておけば大丈夫だ」
店の人に保存しやすいものを選んでもらう。
牛乳から作った固いもの。
羊乳の少し癖が強いもの。
二種類。
「重い?」
「このくらいなら」
「もっと?」
「いらない」
少し考えてから訂正した。
「……もう一個だけ」
「増えたね」
「帰ってから食べる分」
◆
宿へ戻る頃には、商隊の者たちが出発準備を始めていた。
杏々の手に増えた包みを見て、盾役がため息をつく。
「また荷物増やしたのか」
「チーズ」
「そのチーズってのは何なんだ」
「乳固めたやつ」
「若酪のことか?」
「たぶん全部チーズ」
「全部一緒にするなよ」
「元の世界だとそういう仲間だった」
「へえ」
盾役は杏々の包みを見た。
「三日持つのか?」
「持つやつ選んだ」
「そこはちゃんとしてるな」
「食べられなくなるともったいない」
◆
商隊の荷も、来た時とはかなり変わっていた。
王都から運んできた布地や加工品の代わりに、ローディンから持ち帰る品が積まれている。
羊毛。
革。
固い乳製品。
燻製肉。
乾燥させた薬草。
麦。
杏々は荷札を見ながら歩く。
読める単語が増えている。
「肉」
「それは荷物だから食うなよ」
昨日の商人が言った。
「食べない」
「本当に?」
「仕事のは」
「信用していいんだな?」
「買うなら自分のお金で買う」
「そこは真面目なんだよなあ」
◆
積み込みを確認しているうちに、杏々は一つの荷箱の前で止まった。
「これチーズ?」
「そうだ」
商人が答える。
「王都へ持ってく分だ」
「いっぱい」
「ローディンじゃ珍しくないが、王都へ行けば値段が上がる」
「なんで?」
「運ぶ手間がかかるからだよ」
「三日だけなのに?」
「三日も、だ」
杏々が首を傾げる。
◆
商人は荷箱の蓋を確認しながら説明した。
「運んでる間、荷車も人も必要だ。道中で食う飯もいる。宿代もかかる。護衛にも金を払う」
「私たち?」
「そうだ」
「私のご飯代もチーズに入る?」
「ものすごく簡単に言えば、少しはな」
杏々がチーズを見る。
「私食べると高くなる?」
「お前一人の食費だけで値段は決まらんから安心しろ」
「そっか」
「何を心配してるんだ」
◆
ただ、杏々にも少し分かった。
美味しいものがある場所。
食べたい人がいる場所。
その二つが離れていれば、誰かが運ばなければならない。
運ぶには時間がかかる。
その間に悪くなるものもある。
だから加工する。
保存する。
そして運ぶ。
「保存食と同じ」
杏々が言った。
「何が?」
「遠くで食べるため」
商人が一瞬止まる。
「まあ、そうだな」
「なるほど」
「何か今さら納得したな?」
「保存するの、自分が旅する時だけじゃないんだ」
「当たり前だろ」
「今分かった」
◆
商人は笑ってから、荷箱を閉じた。
「だから昨日の嬢ちゃんの保存食も気になってるんだよ」
「肉?」
「肉だけじゃない」
「魚も?」
「全部だ」
杏々の鞄を見る。
「旅する奴が持って歩くなら、味だけじゃなく軽さや大きさも商品になる」
「小さい方がいい?」
「同じだけ食えるならな」
「でも小さくするとお腹いっぱいにならない」
「そこは量の問題だ」
「難しい」
「商売だからな」
◆
男は荷台へ腰を預けた。
「昨日の夜、少し考えたんだが」
「何?」
「帰ったら、最初から売るんじゃなくて試してみる」
「何を?」
「同じような保存食を何種類か作って、三日、七日、十日くらいで状態を見る」
杏々が少し真面目に聞く。
「食べる?」
「もちろん。匂い、味、硬さ、傷んでないかも見る」
「大事」
「それから、実際に旅する奴にも持たせる」
「商隊?」
「商隊でもいいし、冒険者でもいい」
「私も?」
「お前は普段から食ってるだろ」
「じゃあ試す」
「まだ作るとも決まってないぞ」
「作ったら」
「その時は頼むかもしれんな」
◆
杏々は少し考えた。
「辛いのも試す?」
「売るなら好みが分かれるだろうな」
「じゃあ辛くないのもいる」
「そういうことだ」
「香草も嫌いな人いる?」
「いるだろう」
「じゃあ普通のも」
「……嬢ちゃん」
「何?」
「昨日まで『面倒』って言ってなかったか?」
「食べる話だから」
「そうか」
商人は納得した。
◆
「それと、最初から一週間分を一袋にする必要もない」
商人が続ける。
「なんで?」
「三日しか移動しない奴もいる。逆に十日以上動く奴もいる」
「じゃあ分ける?」
「例えばな」
男は指を三本立てた。
「短い旅用」
次に増やす。
「一週間くらい」
さらに、
「長旅用」
杏々が考える。
「甘いの数変える?」
「そこなのか?」
「三日なら三個」
「一日一個固定なんだな」
「予備もいる」
「じゃあ三日で五個か?」
杏々は少し考えた。
「四個でいい」
「一個しか予備ないぞ」
「三日なら我慢できる」
「妙な基準があるんだな」
◆
話している間に積み込みが終わった。
商隊の責任者が護衛を集める。
帰路の確認。
来た道を基本的には戻る。
ただし、昨日倒木があった地点は宿場から情報が回っており、すでに処理されている可能性が高い。
「帰りも気を抜かないように」
「はい」
他の三人が答える。
杏々も頷く。
「うん」
「それと、荷は行きより価値の高いものが少し増えている。特に加工乳製品と薬草は狙われる可能性がある」
杏々がチーズの箱を見る。
「守る」
「急にやる気出たな?」
「仕事だから」
「本当か?」
◆
昼前。
商隊はローディンを出発した。
門を抜ける。
杏々は一度だけ後ろを見る。
石壁。
屋根。
山。
「また来たい」
隣を歩く槍使いが聞く。
「そんなに良かったのか?」
「羊美味しかった」
「やっぱりそこか」
「チーズも」
「他は?」
杏々は少し考えた。
「市場」
「全部飯じゃねえか」
◆
帰路最初の昼食は、町を出てからしばらく進んだ休憩所で取った。
支給されたパンと干し肉。
杏々は今日は自分の干し魚を出す。
「今度は魚か」
商人がすぐに来た。
「うん」
「試していいか?」
「ちょっとなら」
一片渡す。
商人は噛む。
「肉より硬いな」
「魚だから」
「そういう問題か?」
「脂少ないやつ選んだ」
「なんで?」
「脂多いと保存しにくいって魚屋さんが言ってた」
商人の目が少し細くなる。
「魚屋にも聞いてるのか」
「美味しく作りたいから」
「なるほどな」
◆
「味は?」
「悪くない。ただ、このままだと少し塩が強い」
「パンと食べる?」
「そうしてみるか」
パンと一緒に食べる。
「ああ、こっちならいいな」
「でしょ」
「お前の保存食、単体で完成させるというより、他の食い物と合わせる前提のものが多いな」
杏々は首を傾げる。
「その方がいっぱい食べられる」
「理由はそれか」
「パンだけだと飽きるし」
「そこは商売になる考え方かもしれん」
「いっぱい食べるのが?」
「そっちじゃない」
◆
商人は支給食を指した。
「旅人は、こういう基本の食料は元から持ってる」
「うん」
「だから全部新しいものに替えさせるより、それに一つ足すだけで味が変わる方が買いやすいかもしれない」
「昨日も言ってた」
「昨日より確信が増えた」
「食べたから?」
「食べたからだ」
杏々は少し嬉しそうにする。
「美味しかった?」
「そこそこな」
「そこそこ」
「商人は簡単に褒めすぎないんだよ」
「なんで?」
「値段交渉で不利になる」
「今売らないよ?」
「癖だ」
◆
午後、商隊は順調に街道を進んだ。
大きな魔物も出ない。
道もすでに通れる状態になっている。
昨日倒れていた木の場所には切り株のような痕跡だけが残り、宿場の者が処理したらしかった。
「なくなってる」
「仕事が早いな」
杏々は林の方も見る。
岩頭猪はいない。
山綿羊も今日は見えない。
「今日もいない」
「何が?」
「山の動物」
「見ない日だってあるだろ」
「うん」
杏々はそれだけ覚えておく。
◆
夕方、宿場へ着いた。
帰路最初の夜。
杏々は夕食の後、自分で買った羊乳の固いチーズを少しだけ切った。
全部は食べない。
王都へ持って帰る分だからだ。
「一口だけ」
噛む。
昨日市場で食べたものと同じ、少し強い香り。
「やっぱり美味しい」
隣にいた盾役が見る。
「持って帰るんじゃなかったのか?」
「確認」
「昨日確認しただろ」
「旅で食べても美味しいか確認」
「都合のいい言葉覚えたな」
◆
杏々は残りをきちんと包み直した。
「ちゃんと残す」
「偉い偉い」
盾役が適当に褒める。
杏々が止まる。
「今一個?」
「何が?」
「褒めた」
「ああ……数えてるのか」
「うん」
「じゃあ一個でいいよ」
「今日一個」
満足した。
◆
その夜の日記には、
『四日目』
『ローディン出た』
『朝の平焼き 肉+若酪+蜂蜜も美味しい』
『チーズ三個買った』
少し考えて、
『一個少し食べた』
『まだ残ってる』
と補足した。
◆
次に、
『保存食 三日、七日、十日で試すかも』
『旅の長さで分ける』
『普通のご飯に足す方が買いやすいかも』
と書く。
杏々はそこで筆を止めた。
「商人みたい」
自分の日記なのに、少しだけ商売の話が増えてきた。
ただ、その下には、
『甘いの あと五個』
『今日一個褒められた』
と続いた。
いつもの日記に戻った。
◆
最後に、
『山の動物 今日は見てない』
と書いておく。
昨日もそうだった。
見た日。
見ない日。
その違いだけでは何も分からない。
でも、書いておけば後で比べられる。
「リネットちゃんみたい」
杏々は少しだけ思った。
そして、
「仕事増えそう」
本人がいないところで呟いた。
◆
明日はさらに王都へ近づく。
荷車には、ローディンの食べ物や材料が積まれている。
杏々の鞄にも、王都にはなかった味が入っている。
遠くへ行く。
食べる。
持って帰る。
そして今度は、それを誰かがまた別の場所へ運ぶ。
「商隊っていっぱい運ぶんだな」
今さらながら、杏々は少しだけ商人の仕事を理解した。
もちろん、一番気になっている荷物は自分の鞄の中だった。
「チーズ、ちゃんと持って帰ろ」
そこだけは絶対だった。




