勇者じゃなかった人
海へ行ける依頼がそのうち出るかもしれない。
そう聞いた翌日も、杏々の日常は特に変わらなかった。
朝は身体を整え、ご飯を食べ、冒険者ギルドへ行く。
赤ランクの掲示板を見る。
「海ない」
「昨日言ったばかりでしょう」
受付嬢が苦笑する。
「川鎧魚もない」
「そっちもありません」
「今日はない日」
「ある日の方が珍しいですからね」
杏々は諦めて、他の依頼へ目を移した。
護衛。
採取地の警戒。
大型魔物の痕跡調査。
荷運びの随伴。
いくつか見た末、今日は王都近郊の街道を巡回する短い仕事を選んだ。
報酬は赤ランクとしてはそれほど高くないが、昼過ぎには戻れる。
「今日はこれ」
「珍しく近場ですね」
「午後やることある」
「何ですか?」
「ちくわアザラシの平たいの考える」
「聞かなきゃよかったです」
◆
依頼そのものは何事もなく終わった。
街道沿いに新しい魔物の痕跡はなく、壊れかけていた標識と、雨で少し削れた路肩を報告した程度だった。
戦う必要もない。
杏々はそれで構わなかった。
冒険者の仕事は、毎回何かを倒すことではない。
むしろ何も起きていないと確認して帰る仕事も多い。
王都へ戻る途中で小さな焼き菓子を買い、歩きながら一つ食べた。
「甘い」
もう一つは残す。
午後のおやつにする。
◆
ギルドへ戻って報告を済ませたところで、受付嬢から声をかけられた。
「杏々さん、魔術院からまた伝言があります」
「リネットちゃん?」
「はい。時間があれば来てほしいそうですよ」
「川?」
「そこまでは聞いてません」
「山?」
「知りません」
「空?」
「増やさないでください」
杏々は少し考えた。
「じゃあ勇者かな」
「それはありそうですね」
「行ってくる」
◆
王宮魔術院へ向かう途中、杏々は残しておいた焼き菓子を見た。
一個しかない。
自分で食べる予定だった。
「……」
少し迷う。
そのまま持っていった。
◆
研究室へ入ると、リネットは一人ではなかった。
見慣れない年配の男性が、机の反対側で古い紙束を読んでいる。
杏々は入口で止まった。
「人いる」
「いますよ」
リネットが顔を上げる。
「杏々さん、ちょうどよかったです」
「誰?」
「古い地方文書を専門にしている研究員の方です。前に話したでしょう? 記録の読み方について協力してもらってるって」
「名前は?」
男性が名乗った。
杏々は頷く。
「分かった」
リネットが横から言う。
「覚えました?」
「たぶん」
「もう怪しいですね」
◆
杏々は空いている椅子へ座った。
「今日は何?」
「勇者召喚の方です」
「やっぱり」
「なんで分かったんです?」
「川じゃなかったから」
「選択肢が増えすぎなんですよ」
年配の研究員が少し笑った。
「君が例の召喚された方か」
「うん」
「本人を前にすると、不思議なものだな」
「何が?」
「三百年前の記録を読んだ後だからね」
杏々がリネットを見る。
「増えた?」
「少しだけです」
◆
リネットは机の上に、一枚の写しを置いた。
「前に話した三百年ほど前の地方記録、覚えてます?」
「勇者じゃなくて、外から呼んだ人って書いてたやつ」
「覚えてた」
「食べ物じゃないのに」
「自分の話だからかな」
「そこは覚えててください」
以前見つかった記録には、その人物が『異邦より招かれし者』と記されていた。
当時、大規模な戦争は確認されていない。
その数年後には、大きな水路整備と農地の区画変更が行われている。
しかし、百年以上後に編纂された歴史書では、その人物が『古き勇者の一人』として扱われていた。
問題は、その間だった。
「今回は、この人物について別の記録が見つかりました」
「何した人?」
「そこが少し分かりました」
◆
見つかったのは、同じ地域から出た行政記録の断片だった。
完全なものではない。
虫食いもあり、前後の頁も失われている。
ただ、年号といくつかの地名が一致しているため、以前の人物と同時代のものと考えてよさそうだった。
リネットが読み上げる。
「『招かれし異邦人の申し出により、水路を旧道より分け――』」
杏々が止める。
「水路?」
「はい」
「勇者じゃない」
「少なくとも、この文章ではそう呼ばれていません」
「戦った?」
「戦ったとは書いてません」
年配の研究員が続けた。
「残っている部分だけなら、この人物が関わったのは、水の分配方法を変える工事だったようだ」
「工事の人?」
「それも断定はできない。ただ、戦士として記録されていないのは確かだ」
◆
杏々は紙を見る。
細かい文字はほとんど読めない。
「何で呼ばれたの?」
「それが分からないんです」
リネットが答える。
「今の勇者召喚なら、魔王や大規模な脅威へ対抗するために行われますよね」
「私は魔王倒すって言われた」
「そうです。でも、この三百年前の人物が呼ばれた時期には、確認できる範囲で大規模な戦争がありません」
「魔王も?」
「記録には出てきません」
「じゃあなんで呼んだ?」
「それを調べてるんですよ」
◆
リネットは別の紙を出した。
「それと、重要なのはここです」
その行政記録では、一度も『勇者』という語が使われていなかった。
呼び方は一貫して、
『異邦人』
『招かれし者』
『外より来たりし者』
そのどれかだった。
「後の本だけ勇者?」
「今確認できている範囲では、そうです」
「いつから?」
「それを追ってます」
年配の研究員が口を挟む。
「少なくとも百五十年ほど後の歴史書では、すでに勇者と呼ばれている。ただ、それより古い資料が少ない」
「途中なくなった?」
「戦乱と火災でかなり失われたらしい」
杏々は頷いた。
「じゃあ分からない」
「そうなんです」
リネットが少し嬉しそうに答える。
「でも、『分からない場所』が分かったのは大きいんですよ」
◆
以前までは、召喚された人物は昔からすべて勇者だったのだろう、と考えるしかなかった。
しかし今は違う。
少なくとも一人、
召喚された。
戦争との関係が見えない。
当時の記録では勇者と呼ばれていない。
後世になると勇者として分類されている。
「だから今考えているのは」
リネットは慎重に言葉を選ぶ。
「『勇者を召喚する術』という理解自体が、後の時代にできたものなんじゃないか、という可能性です」
「昔は?」
「もっと単純に、『外の人を呼ぶ術』だったのかもしれません」
◆
杏々は少し考えた。
「じゃあ私、勇者じゃなくてもいい?」
リネットが止まる。
「……そういう話にもなります」
「お」
「ただし、まだ一例だけです」
「うん」
「これ一つで、現在の召喚術の理解を全部ひっくり返すことはできません」
「いっぱい探す?」
「探します」
「仕事増えた」
「これは元から私の仕事です!」
「そっか」
リネットは少し胸を張った。
「今回は杏々さんのせいじゃありません」
杏々は机の上の大量の紙を見る。
「でも私呼ばれたから調べてる」
「……」
「私のせい?」
「違います!」
◆
年配の研究員が笑いをこらえながら、別の写しを差し出した。
「もう一つ、面白い表現がある」
「まだある?」
「短いがね」
そこには、召喚された人物について、
『地の理を異にする者』
という表現があった。
杏々が首を傾げる。
「どういう意味?」
「直訳しづらいんです」
リネットが説明する。
「その土地の道理に属さない、とも読めるし、土地の理を違う形で理解する者、とも読めます」
「よく分からない」
「私もまだです」
「魔法?」
「可能性はあります。でも『理』という言葉が、魔法理論だけに使われていたわけではないので」
年配の研究員が頷く。
「当時の文章では、慣習や自然の仕組み、物事のあり方にも使われる」
「じゃあいっぱい意味ある」
「そういうことだ」
◆
杏々は椅子の上で足を揺らした。
「その人、何したかったんだろ」
リネットが少し驚いた顔をする。
「珍しいですね」
「何が?」
「杏々さんが昔の人そのものを気にするの」
「水路変えたんでしょ?」
「はい」
「ご飯作る畑に水いるから」
「……やっぱり食べ物でしたね」
「大事」
杏々は紙を見る。
「その人も、美味しいもの食べたかったのかな」
「そこまでは記録にありません」
「残念」
◆
だが、リネットには別の意味で気になる部分だった。
水路。
農地。
土地の理を異にする者。
外から招かれた人物。
現在の勇者召喚とは、あまりにも印象が違う。
「この人が呼ばれた理由と、水路を変えた理由が分かれば、何か見えるかもしれません」
「昔の川?」
「そうですね」
杏々が顔を上げた。
「川鎧魚?」
「違います」
「川だから」
「三百年前の別地方です!」
「そっか」
「すぐ今の問題と繋げないでください」
◆
リネットはそこで一度、机の端に積んである紙へ目をやった。
川鎧魚。
農地。
北東の山。
空渡り鳥。
それとは別に積まれた、古代召喚術の記録。
今は全部、別々の研究だった。
少なくとも、そう扱うべきだった。
「……本当に別ですよ」
杏々が首を傾げる。
「何も言ってない」
「自分に言いました」
◆
話が一段落したところで、杏々は持っていた小さな包みを思い出した。
「これ」
「何ですか?」
「焼き菓子」
「私に?」
「一個しかない」
「それ、杏々さんが食べようとしてたやつですよね?」
「うん」
「……いいんですか?」
杏々は少し迷ってから頷いた。
「仕事増えてるから」
「慰労ですか?」
「たぶん」
リネットは包みを受け取った。
「ありがとうございます」
「今日褒めた?」
「え?」
「私、焼き菓子あげた」
「ええと……偉いですね?」
「一個」
「それで一回に数えるんですか」
「うん」
◆
研究室を出る前、杏々はもう一度聞いた。
「この人、帰れた?」
リネットの表情が少し変わった。
「……そこはまだ分かりません」
「帰る魔法あった?」
「記録には残ってません」
「そっか」
「でも、探してます」
「うん」
杏々はそれ以上聞かなかった。
◆
家へ戻る途中、西市場へ寄る。
魚屋を見る。
「川鎧魚ある?」
「ない」
「海の魚は?」
「今日は少し入ってるぞ」
「お」
昨日なかった魚が数種類並んでいる。
杏々はすぐにそちらへ移動した。
「これ何?」
「沿岸で獲れる青背だ」
「美味しい?」
「焼いても煮てもいい」
「じゃあ二匹」
研究の話は頭の端へ移った。
今日の晩ご飯の方が近い。
◆
その夜、杏々は買った青背魚を焼いた。
皮へ軽く塩を振り、火を入れる。
脂が落ちる。
香ばしい匂いが立つ。
「海の魚やっぱり美味しい」
昨日買ったものとはまた味が違う。
身が柔らかく、脂もある。
「海行きたい」
目的が一つ強くなった。
◆
食後、日記を開いた。
『昔の呼ばれた人』
『勇者って書いてない』
『水路変えた』
『あとから勇者になった?』
少し考えて、
『昔は外の人呼ぶだけだったかも』
と書く。
その下に日本語で、
『帰れたかまだ分からない』
と残した。
さらにページの最後へ、
『青背魚 皮おいしい』
『海行きたい』
と書く。
重要度の違いは、杏々の中ではそれほど大きくなかった。
◆
同じ頃。
魔術院では、年配の研究員が帰ったあともリネットが一人で古い文書を読み続けていた。
机には一つ減った焼き菓子の包み。
その横には、
『異邦より招かれし者』
『外より来たりし者』
『地の理を異にする者』
と書き写した紙が並んでいる。
最後に、リネットは一番上へ小さく書き加えた。
『勇者という分類は、いつ成立した?』
答えはまだない。
けれど以前より、問いの形ははっきりしていた。




