昔の方がいた
小さい身体の感覚が少し違う。
そう気づいた翌日になっても、杏々は特に生活を変えなかった。
朝になれば起きて、ご飯を食べる。ギルドの訓練場で身体を整え、今日は本来の身体を長く維持する必要もなかったので、終わればいつもの小さな姿へ戻る。
昨日より気が通りやすい気はする。
けれど、何がどのくらい変わったのかはまだ分からない。
「そのうち分かる」
急いで確かめる必要もなかった。
それより今日の仕事である。
◆
赤ランクの掲示板には、河川沿いの集落から出された討伐依頼が一枚あった。
杏々は真っ先にそこを見る。
「川鎧魚?」
「違います」
受付嬢が即答した。
「まだ何も言ってない」
「顔で分かりました」
「顔?」
「川って書いてあるところから真っ先に見ましたよね」
「うん」
「岩背蜥蜴です」
「トカゲ」
「大型です。川岸の岩場に棲みついて、家畜が水を飲みに来る場所へ出るようになったそうです」
杏々は依頼書を見る。
「食べれる?」
「そこからですか」
「大事」
「一応、食用になる種類ですね。尻尾と腿の肉を食べる地域もあります」
「これにする」
「決断が早いですね」
◆
依頼場所は王都から半日ほどの距離にある、小さな河畔の集落だった。
今回は日帰りが可能なため、同行者はいない。赤ランクへ上がったことで、こうした単独の討伐依頼も以前より受けやすくなっている。
現地へ着くと、集落の男が川岸まで案内してくれた。
「この辺だ」
水を汲む場所から少し離れた岩場に、大きな爪痕が残っている。
「でかい?」
「鼻先から尻尾までなら、お前さんを何人か並べたくらいある」
「私小さいよ」
「だから余計分かりづらいんだよ」
杏々は足跡の方を見る。
新しい。
岩の間に擦れた跡もある。
「近いと思う」
「分かるのか?」
「うん」
「じゃあ俺は戻ってるぞ」
「それがいい」
◆
川岸を少し上流へ歩くと、流れが大きく曲がる場所に出た。
片側が岩壁になっていて、その下に浅い淀みができている。
そこにいた。
灰褐色の鱗。
低く平たい胴体。
背中には岩のように盛り上がった硬い甲殻が並び、長い尾が水際へ垂れている。
杏々を見ると、岩背蜥蜴はゆっくり頭を上げた。
「大きい」
依頼書に書かれていた通りだった。
ただ、杏々が期待していた魚ではない。
「川鎧魚じゃない」
岩背蜥蜴には関係のない話だった。
◆
相手が先に動いた。
太い前脚で岩を蹴り、一気に距離を詰めてくる。
見た目より速い。
大きな頭が横から振られ、杏々は一歩後ろへ逃げた。
その瞬間、少しだけ違和感があった。
「ん?」
避けたというより、身体が先にそこへ移動していた。
踏み出した足。
腰の向き。
呼吸。
気の流れ。
全部が同じ瞬間に噛み合っている。
昨日、訓練場で感じたものと同じだった。
◆
岩背蜥蜴が尾を振る。
今度は横薙ぎ。
杏々は跳ばずに、前へ出た。
一歩。
身体が沈む。
尾が頭上を通り過ぎる。
そのまま懐へ入り、前脚の付け根へ拳を当てた。
普通に殴るつもりだった。
ところが、打つ直前に呼吸が勝手に合った。
足裏から腰へ。
腰から背中へ。
肩から腕へ。
小さな身体の中で、力の通り道が一本に繋がる。
どん、と鈍い音がした。
「……あ」
岩背蜥蜴の巨体が横へずれた。
◆
倒れてはいない。
だが、杏々自身が少し驚いた。
いつもの拳より重かった。
「今の」
考える暇はなかった。
岩背蜥蜴が怒ったように身体を起こし、大きく口を開く。
杏々は横へ回り込む。
また、動きが軽い。
余計な一歩がない。
力んでいない。
なのに、前より速い。
「やっぱり」
昨日の感覚は気のせいではなかった。
◆
とはいえ、戦闘そのものは長く続かなかった。
岩背蜥蜴は硬い背中こそ厄介だが、腹側と脚の付け根までは同じではない。
杏々は正面から甲殻を殴るようなことはせず、突進を外し、身体の下へ潜り込むように位置を変えた。
今度は拳ではなく、踵を使う。
脚の付け根。
一撃。
相手の身体が崩れる。
倒れたところで急所へ剣を通した。
岩背蜥蜴はしばらく痙攣したあと、動かなくなった。
「終わり」
杏々は剣を抜き、血を払った。
◆
その場で少しだけ、自分の手を見る。
さっきの打撃。
新しい技を使ったわけではない。
発勁と呼べるほど明確に気を集中したわけでもなかった。
ただ、普通に打ったはずの拳へ、以前よりきれいに全身の力が乗った。
「小さい方、合ってきた?」
試すためだけに死んだ魔物を殴る気にはならない。
「次でいいか」
杏々は討伐証明になる部分を確保し、食用になる肉についても案内人に確認することにした。
◆
集落へ戻ると、男は岩背蜥蜴が倒されたことにかなり安心したようだった。
「もう終わったのか?」
「うん」
「さすが赤だな……」
「肉もらえる?」
「そっちか」
「食べれるって聞いた」
「ああ、腿ならな。ただし血抜きして少し寝かせた方がいいぞ」
「お」
「全部持ってくつもりか?」
杏々は少し考えた。
「持てる分」
「身体の大きさと荷物が合ってねえんだよな、お前」
◆
解体を手伝ってもらいながら、杏々は何気なく川を見る。
水面には小魚がいる。
少し上流では漁師が網を扱っていた。
「川鎧魚いる?」
男が笑った。
「またそれか。最近あいつ目当てで来る冒険者がいるって聞いたが、お前か?」
「たぶん」
「大物は見ないな」
「昔は?」
「俺が子供の頃なら、この辺でも何年かに一度は騒ぎになったぞ。畑の水路に入り込んで壊したとか、網を全部持っていかれたとか」
「今ない?」
「小さいのは掛かる。大物は……そうだな、いつから見なくなったんだろうな」
男は少し考えた。
「急にいなくなった感じじゃないんだよ。気づいたら話を聞かなくなってた」
杏々は川を見る。
「ゆっくり?」
「そんな感じだな」
◆
王都へ戻った頃には、午後もかなり遅くなっていた。
まずギルドで依頼達成を報告する。
岩背蜥蜴の討伐証明を出し、集落側の確認票も渡す。
「問題なしですね」
「肉もらった」
「そっちも問題なしです」
「あと川鎧魚またいないって」
「調査員みたいになってきましたね」
「食べたいだけ」
「知ってます」
◆
報酬を受け取って帰ろうとしたところで、受付嬢に呼び止められた。
「杏々さん。そういえば、魔術院から伝言が来てますよ」
「リネットちゃん?」
「はい。戻ったら寄ってほしいそうです」
「川鎧魚?」
「そこまでは聞いてません」
杏々は岩背蜥蜴の肉を見る。
「先に家置く」
「それがいいと思います」
◆
肉を家へ置き、傷まないよう下処理だけ済ませてから、杏々は王宮魔術院へ向かった。
研究室へ入ると、リネットの机には以前より紙が増えていた。
「増えてる」
「何がです?」
「仕事」
「誰のせいですかね」
「川鎧魚」
「最近それで逃げること覚えましたね?」
杏々は椅子へ座る。
「分かった?」
「少しだけです」
◆
リネットは数枚の紙を机へ並べた。
「ギルドの討伐依頼と目撃報告を、確認できる範囲で十年ほど遡ってみました」
「十年」
「記録形式が途中で変わってますし、抜けもあります。なので正確な個体数ではありません」
「うん」
「でも、大型の川鎧魚については傾向がありそうです」
杏々が紙を見る。
数字は読める。
細かな文章は難しいが、年ごとに並んだ数なら分かる。
「昔多い」
「そうなんです」
◆
十年ほど前。
大型個体の討伐依頼や、人里近くでの目撃報告は今より明らかに多かった。
毎年同じ数ではない。
水量の多い年。
少ない年。
ほとんど報告がない年もある。
それでも全体として見ると、古い記録の方が数字が大きい。
五年ほど前から少しずつ減り、直近二、三年はさらに少ない。
「二年前からじゃない」
「はい。杏々さんが聞いた『ここ二年見てない』という話は、その人個人の最近の経験でしょうね」
「もっと前から減ってる?」
「その可能性があります」
「十年?」
「少なくとも、今確認できた範囲ではそのくらい前から緩やかな変化が見えます」
◆
杏々は数字を見る。
「急じゃない」
「そこが気になってます」
リネットは別の紙を出した。
「急激に何かが起きて個体数が落ちたなら、災害や大規模な河川工事みたいな原因も考えやすい。でも、この記録だけ見ると、かなりゆっくりなんです」
「ちょっとずつ」
「ええ」
「小さいのはいる」
「それも重要です」
リネットが頷く。
「漁業関係の記録まではまだ十分に集まってませんが、小型個体そのものが消えたという話は今のところ出ていません」
「じゃあ大きくならない?」
「まだ分かりません」
すぐに否定された。
◆
「成長途中で別の場所へ移動しているだけかもしれません。大型だけ漁獲されている可能性もあるし、餌資源や水温、流れ、産卵場所、魔物との競合……いくらでも考えられます」
「いっぱい」
「いっぱいです」
「仕事いっぱい」
「楽しそうに言わないでください」
杏々は紙を見る。
「魔力は?」
「そこもまだです」
リネットは少し声を落とした。
「ただ、河川管理側の資料に、魔術を使った治水や取水設備の記録があります」
「川で魔法使う?」
「使いますよ。水路の維持や流量調整、堰の補修、農地への取水補助なんかに」
「昔から?」
「昔からあります。ただ、規模や使用量がどう変わったかはこれから確認します」
◆
杏々は少し考えた。
「森みたい?」
「まだ言えません」
「畑も?」
「まだです」
「川も?」
「今まさに調べてるんです」
「山も――」
「待ってください」
リネットの声が強くなる。
杏々が止まった。
「なに?」
「何かありますね?」
「遠征で聞いた」
「……何をですか」
「山の獣、下に来るの増えたって」
リネットが黙った。
◆
「あと鳥」
「鳥?」
「空渡り鳥。いつもよりこっち飛んでるって」
リネットは何も言わない。
杏々が続ける。
「山のご飯少ないのかなって」
「……」
「リネットちゃん?」
「ちょっと待ってください」
リネットは額へ手を当てた。
「私は今、川鎧魚の話をしてたんですよね?」
「うん」
「どうして山と空が増えるんですか?」
「知らない」
「私も知りません!」
◆
しばらくして、リネットはため息をつきながら新しい紙を一枚だけ取り出した。
「書くの?」
「保留です」
「増えた」
「保留です!」
紙の端へ、
『北東山地――大型獣の低地出現増加?』
その下へ、
『空渡り鳥――飛行経路変化?』
と書く。
どちらにも大きな疑問符がついた。
「調査する?」
「今はしません。証言一つずつでは何も分かりませんから」
「そっか」
「ただ、同じ話が他から出た時に比較できるよう、記録だけしておきます」
「仕事増えたね」
「杏々さん」
「なに?」
「次の遠征では、何も見つけないでください」
「無理だよ」
「即答しないでください!」
◆
杏々は帰る前に、川鎧魚の数字をもう一度見た。
十年前。
五年前。
最近。
細かく上下しながらも、大きな個体の報告は減っている。
「昔の方がいた」
「そう見えますね」
「じゃあやっぱり変」
「少なくとも、調べる理由はできました」
「食べれるようになる?」
「研究の目的をそこにしないでください」
「でも増えたら食べれる」
「結果的にはそうかもしれませんけど!」
杏々は満足した。
◆
家へ戻ると、朝倒した岩背蜥蜴の肉を焼いた。
少し筋が強いので薄く切り、香草と塩を使う。
一口。
「鶏と魚の間?」
独特の弾力がある。
悪くない。
「川鎧魚じゃないけど美味しい」
ちゃんと別の魚――ではなく肉を楽しめるところが杏々だった。
◆
夕食後、日記を開く。
『岩背蜥蜴 腿おいしい』
『薄く切るといい』
その下へ、
『小さい身体 やっぱり前より動きやすい』
『拳 前より力通った』
少し考えて、
『まだ分からない』
と書く。
さらにページの下へ、
『川鎧魚』
『十年前の方が多い』
『ちょっとずつ減ってる?』
『小さいのはいる』
と続けた。
最後に、
『山と鳥 リネットちゃん保留』
『仕事二個増えた?』
と書きかける。
「保留って言ってた」
消す。
『仕事まだ増えてない』
と書き直した。
◆
遠くの魔術院では、その頃リネットが同じ二枚の紙を見ていた。
川。
山。
空。
どれも、まだ別々の話だった。
関連があると考えるには証拠が足りない。
だから結びつけない。
結びつけないが――捨てもしない。
「……保留ですからね」
誰もいない研究室で、自分に言い聞かせるように呟いてから、リネットは二枚とも机の端へ残した。
その机の上は、昨日より少しだけ狭くなっていた。




