なんか違う
保存食を大量に仕込んだ翌朝も、杏々は早い時間に冒険者ギルドへ向かった。
三泊四日の遠征から戻ったばかりなので、今日は昨日ほど念入りに身体を整える必要はない。それでも、数日間できなかった分を一度で全部取り戻そうとするより、しばらく続けて状態を確かめた方がいい。
いつものように訓練場の端を借り、圧縮を解いて本来の身体へ戻る。
呼吸を整え、肩、腰、膝、足首と順番に動かしながら、自分の身体の位置を確かめていく。
昨日感じていた引っかかりは、ほとんど残っていなかった。
「だいぶいいかな」
ゆっくり型を通し、そこから少し速度を上げる。
踏み込む。
腰を回す。
剣を抜き、止める。
身体の軸に大きなズレはない。
それどころか、以前より少ない力で同じ位置へ身体を運べている気がした。
「……楽になってる?」
杏々は一度動きを止めた。
◆
もともと、本来の身体で動くことそのものが苦しいわけではない。
ただし、小さな身体を維持する時より明らかに多くのエネルギーを使う。
戦闘まで含めればなおさらだった。
だから以前は、必要な時だけ本来の身体へ戻り、用が終わればすぐ小さくすることが多かった。
今も食費を考えれば、小さい方が圧倒的に安い。
それは変わらない。
けれど、最近は本来の身体を維持している時の疲れ方が少し違っていた。
余計なところに力が入らない。
呼吸も乱れにくい。
気を身体へ通した時、以前なら少しずつ調整しなければならなかった場所へ、自然に流れが届く。
「前より無駄ないのかな」
杏々は腕を見た。
もちろん、急に別人の身体になったわけではない。
筋力が増えたわけでもない。
ただ、使い方が変わっている。
◆
杏々には思い当たることが一つあった。
異世界へ来てから、ほとんどの戦闘を小さい身体のまま済ませている。
元の世界では、戦闘になれば本来の身体へ戻ることが多かった。
その方が速い。
強い。
技も使いやすい。
わざわざ圧縮した身体のまま戦う必要がなかったからだ。
だが、こちらへ来てから事情が変わった。
食べ物には金がかかる。
本来の身体を長く使えば、その分だけ腹が減る。
だから、必要がないなら小さいまま倒した。
森猪も。
牙鼠も。
灰爪鬼も。
護衛で襲ってきた魔物も。
その積み重ねが、いつの間にかかなりの数になっている。
「小さいまま、いっぱい戦ったからかな」
圧縮を維持する。
呼吸する。
気を巡らせる。
相手を見る。
避ける。
殴る。
蹴る。
剣を使う。
それを全部同時にやり続けてきた。
杏々にとっては当たり前になっていたが、考えてみれば以前はそれほど長く続けたことがない。
◆
一通り調整を終えると、杏々は剣を納めた。
まだ本来の身体を維持していても問題はなさそうだったが、今日はこの後に特別な予定もない。
「戻ろうかな」
身体を圧縮する。
視線が一気に低くなった。
いつもの小さな杏々へ戻る。
そのまま何となく、さっきやった型の最初だけもう一度なぞった。
一歩。
腰を落とす。
足裏で地面を掴む。
呼吸を合わせる。
「……ん?」
杏々が止まった。
◆
もう一度。
一歩だけ踏み込む。
小さな身体の中を気が巡る。
今までだってできていた。
小さい身体を維持すること自体、高度な身体操作なのだから当然だ。
だが、今日は妙に感覚が合う。
本来の身体で覚えた動きへ、小さい身体を無理に合わせている感覚が薄い。
小さい身体なら、小さい身体なりの位置へ自然に力が通る。
「なんか違う」
杏々は自分の手を見る。
「杏々さん?」
訓練場を掃除していた職員が声をかけた。
「どうかしました?」
「ちょっと身体違う」
「えっ」
職員がぎょっとする。
「大丈夫なんですか?」
「たぶん」
「その言い方やめてもらえます?」
杏々はもう一度腕を動かした。
「前より動かしやすい」
「ああ、そういう意味ですか」
「うん」
「びっくりしましたよ」
「ごめん」
◆
その日は依頼を受けず、杏々は西市場を回った。
昨日仕込んだ保存食があるので食材を大量に買う必要はない。
代わりに、少し足りなくなった糸と布を買った。
灰色。
白。
少し茶色。
店主が布を切りながら聞く。
「また何か作るのかい?」
「うん」
「今度は何だ?」
「ちくわアザラシ」
「……前にも聞いた気がするな」
「まだ途中だった」
「相変わらず何を言ってるのか分からん」
「できたら見せる?」
「いや、見ても分からん気がする」
杏々は布を受け取った。
◆
家へ帰ると、まず昼食を食べた。
昨日作った芋と豆と肉の薄焼きを温め直し、野菜のスープと一緒に食べる。
「昨日より馴染んでる」
少し硬めに作った分、携行食としては悪くない。
ただ、家で食べるならもっと柔らかい方がいい。
そこも覚えておく。
昼食を済ませてから、杏々は床へ裁縫道具を広げた。
ハンバーガー猫の隣には、途中まで作って放置されていた灰色と白の細長い何かがある。
「今日終わらす」
ちくわアザラシだった。
◆
細長い胴体。
両端は少し濃い色。
中央は白っぽい。
アザラシらしい丸い顔をつけつつ、全体の形はどう見ても一本のちくわに近い。
途中まで作った時点で杏々自身はかなり気に入っていたが、口元の形と綿の入り方が少し気になって、そのまま止まっていた。
「ここもうちょっと丸くする」
布を縫い直す。
綿を減らす。
また入れる。
「こっち硬い」
少し抜く。
小さい身体の裁縫は料理ほど大人との差が出ない。むしろ細かいものを膝へ乗せて作業するなら、こちらの方が杏々には気楽だった。
しばらくして、顔ができる。
縦線に近い簡単な目。
小さな口。
短い前脚。
ちくわの穴を思わせる丸い模様。
杏々は持ち上げた。
「できた」
◆
床へ置く。
ハンバーガー猫。
ちくわアザラシ。
二つ並んだ。
「いい」
杏々は満足した。
ハンバーガー猫は抱えるのに向いている。
ちくわアザラシは細長いので、横になる時に脚を乗せるのにちょうどいい。
試してみる。
「ちょうどいい」
用途まで決まった。
◆
夕方近くになった頃、予想していなかった来客があった。
扉を叩く音がする。
「杏々! いるかい!」
聞き覚えのある声だった。
杏々はちくわアザラシへ脚を乗せたまま答える。
「いる」
「入るよ!」
布細工の職人である婆さんが入ってくる。
そして止まった。
「……増えてる」
「うん」
「何だい、それ」
「ちくわアザラシ」
「やっぱり分からないね!」
◆
婆さんは靴を脱ぐなり、杏々の足元からちくわアザラシを引き抜いた。
「あ」
「ちょっと見せな!」
上下を返す。
縫い目を見る。
綿の量を確認する。
顔を見る。
「……前の猫より細長いね」
「脚乗せる」
「用途からして変なんだよ」
「楽だよ」
「そういう問題じゃない」
婆さんはそう言いながら、腹の部分を押した。
「でも、この形なら綿も少なくて済むね」
「うん」
「縫うところも猫より単純だ」
「うん」
「……」
「売る?」
「まだ何も言ってないよ!」
◆
杏々は首を傾げた。
「売りそうな顔してた」
「どんな顔だい、それは」
「熊の時の顔」
「覚えるところがおかしいね!」
婆さんはちくわアザラシをもう一度見る。
「これはあんたのだろ?」
「私の」
「なら、このまま売る話はしないよ」
「うん」
「ただし」
婆さんはその横を見る。
以前作った、平たいクッション型の試作品が置いてある。
「あっちなら話は別だ」
「平たい方?」
「あれなら作るのがもっと楽だ。顔と形を少し変えれば、数も作れる」
「ちくわアザラシも?」
「だから、あんたのこれは売らないって言ってるだろ。似た感じの別物を作るんだよ」
「そっか」
◆
杏々には、その違いがそれほど重要ではなかった。
自分のものが自分のところに残ればいい。
誰かが似たものを欲しいなら、それは別に構わない。
「じゃあ作る?」
「試すだけだよ。まず一つ」
「売れたら?」
「その時また考える」
「熊みたいに?」
「熊みたいに」
「お金入る?」
「売れればね」
「お」
杏々は少し嬉しそうになった。
「食費になる」
「本当に分かりやすいね、あんたは」
◆
婆さんが帰った後、杏々はもう一度ちくわアザラシを取り返した。
床へ置く。
脚を乗せる。
「私の」
確認する。
ハンバーガー猫も自分の。
ちくわアザラシも自分の。
平たい方は、もしかするとそのうち誰かのものになる。
それはそれでいい。
◆
夜になり、杏々は日記を開いた。
『朝 身体調整』
『大きい方 前より楽かも』
『小さい方 なんか違う』
『動きやすい?』
少し考える。
まだ何が変わったのか、自分でもよく分かっていない。
だから疑問符をつけた。
その下には、
『ちくわアザラシ完成』
『脚乗せるといい』
『婆さん来た』
『平たいの売るかも』
と書く。
さらに、
『味噌 まだ』
『醤油 まだ』
『川鎧魚 まだ』
と続けた。
待っているものが増えている。
「いっぱいまだ」
杏々は日記を閉じた。
◆
寝る前、もう一度だけ朝の感覚を確かめようとして、小さな身体のままゆっくり拳を前へ出した。
力を入れたわけではない。
ただ呼吸を合わせ、身体の中心から腕まで気を通す。
すっと。
以前より自然に繋がる。
「やっぱり違う」
杏々は拳を開いた。
でも、今すぐ困ることではない。
明日考えてもいい。
ハンバーガー猫へ背中を預け、ちくわアザラシへ脚を乗せる。
「寝よ」
身体の使い方が少し変わり始めていることより、今はこっちの方が大事だった。




