赤になった
ぬいぐるみ職人が新居へ押しかけてきた翌日、杏々はいつもと変わらず朝から冒険者ギルドへ向かった。
赤ランクへの昇格審査が始まってからしばらく経っていたが、本人の生活にはほとんど影響がない。審査のために特別な仕事をする必要はないと言われていたので、その言葉通り、黄ランクで受けられる依頼を一つずつ続けていた。
その日の仕事も特別なものではなかった。
王都の南西にある牧草地まで薬品と道具を運ぶ荷車の護衛で、往復して半日ほど。道中では小型の魔物を一度見かけたものの、こちらへ近づいてくる様子がなかったため、そのまま通過した。
昼過ぎには依頼人と一緒にギルドへ戻り、いつものように報告を始める。
「問題なかった」
「魔物を一体見たそうですね」
「うん。遠かった。こっち見てたけど来なかった」
「種類は分かりました?」
「灰尾狐だと思う。尻尾灰色で、前に見たのと同じくらい」
「追跡は?」
「してない。荷車あったから」
受付嬢は報告内容を確認し、依頼票へ記録を書き込んだ。
「はい。依頼主の方からも問題なしと伺ってます。これで完了ですね」
「うん」
杏々は報酬を受け取るために手を出した。
ところが、受付嬢は硬貨を渡さず、そのまま少し笑った。
「その前に、今日はもう一つあります」
「なに?」
「ガルドさんが呼んでます」
杏々の目が少し細くなる。
「また?」
「今度はたぶん、杏々さんが待ってた話ですよ」
「赤?」
「私はまだ何も言ってません」
杏々はすぐにカウンターから離れた。
「行く」
「報酬は逃げませんからね」
◆
前回と同じ小さな打ち合わせ部屋には、ガルドのほかにギルド職員が二人いた。
一人は依頼記録を管理している職員で、もう一人は杏々も何度か見かけたことのある年配の冒険者だった。現役というより、今は新人や駆け出しの仕事を確認する側に回っているらしい。
机の上には、また杏々の記録が置かれている。
「座れ」
「うん」
杏々が椅子へ座ると、ガルドは余計な前置きをせずに本題へ入った。
「審査が終わった」
「赤?」
「最後まで聞け」
杏々は黙った。
ただし、視線だけは完全にガルドへ固定されている。
「活動期間、依頼件数、仕事内容、それから依頼主と担当職員からの評価を一通り確認した。規則違反なし、無断放棄なし。討伐以外の仕事でも大きな問題はない」
最初の頃は報告が簡単すぎたり、依頼の目的より自分が気になったものを優先しかけたりすることもあった。
けれど、それも減った。
特に黄ランクになってからは、護衛中に敵を追わない判断や、警備で異常を見つけて報告すること、複数人での仕事で周囲に合わせて動くことなど、戦闘力以外の部分にも安定した記録が残っている。
「戦闘については、今さら言うこともない」
「強いから?」
「そうだ」
杏々は少し嬉しそうになったが、今回は口を挟まなかった。
早く続きを聞きたかった。
◆
「というわけで」
ガルドが一枚の紙を杏々の前へ置いた。
「今日付で、赤ランクへの昇格を認める」
杏々が紙を見る。
文章の全部は読めない。
しかし、自分の名前と、赤を示す印は読めた。
「赤?」
「ああ。今から赤だ」
杏々はしばらく紙を見ていた。
それから顔を上げる。
「川鎧魚ある?」
「最初の言葉がそれか!」
部屋にいた年配の冒険者が声を上げて笑い、記録担当の職員まで顔を伏せた。
「赤になった」
「なったな」
「大きい川鎧魚できる」
「依頼が出ればな!」
「今日ある?」
「知らん!」
「見てくる」
「まだ説明終わってねえ!」
立ち上がりかけた杏々を、ガルドが慌てて止めた。
◆
赤ランクになると、受けられる依頼の範囲は広がる。
これまで参加条件を満たさなかった長距離輸送の護衛や、より危険度の高い魔物の討伐にも正式に参加できるようになる。もちろん赤ランクになったからといって、すべての赤向け依頼を一人で受けられるわけではなく、複数人指定や職種指定がある仕事には従わなければならない。
「黄の依頼も受けていい?」
「当然だ。上がったからって、毎回危険な仕事を選ぶ必要はねえ」
「近くて早いのも?」
「受けていい」
「報酬高いの増える?」
「平均すれば上がる。ただし、危険も拘束時間も増える」
「家のお金楽になる?」
「ちゃんと仕事を選べばな」
そこは杏々にも重要だった。
家賃。
食費。
武器の手入れ。
布や糸。
最近では保存食の材料まで自分で買っている。
森爪熊から少しずつ別の収入も入り始めたが、生活の中心が冒険者の報酬であることは変わらない。
「赤いい」
「そういう意味だけじゃねえんだがな」
◆
ガルドは、今まで使っていた資格証を出すように言った。
杏々が鞄から取り出すと、職員が内容を確認して新しい記録を加える。
見た目が完全に別物になるわけではないが、ランクを示す部分が黄から赤へ変わった。
戻された資格証を杏々はじっと見る。
「赤」
「見りゃ分かるだろ」
「うん」
指で印の部分を触る。
白。
黒。
黄。
この世界へ来て冒険者になってから、少しずつ変わってきた。
杏々にとってはそのたびに、食べられるものと受けられる仕事が増えている。
「次、緑?」
「気が早すぎる」
「赤角牛」
「もう次の食い物見てんじゃねえ!」
緑ランクになれば赤角牛。
それも杏々の中ではすでに決まっていた。
「でも今は川鎧魚」
「一個ずつにしろ」
「うん」
そこは素直だった。
◆
説明を終えて受付へ戻ると、受付嬢は杏々が持っている資格証を見るなり笑った。
「おめでとうございます」
「赤なった」
「はい。これで正式に赤ランクですね」
「川鎧魚ある?」
「今日はありません」
杏々の表情が止まる。
「ない?」
「ありません」
「赤なのに」
「赤になれば川鎧魚が自然発生するわけじゃないです」
「でも赤」
「ランクと魚の発生数は連動してません」
杏々は新しい資格証と掲示板を交互に見る。
「聞いてたのと違う」
「誰も『昇格した日に食べられる』とは言ってませんよ!」
◆
受付嬢は赤ランク向けの掲示板を指した。
「せっかくなので見てみます?」
「見る」
今まで遠くから眺めるだけだった依頼を、今日は自分で選べる。
杏々は掲示板の前へ立った。
文字はまだ全部読めないため、分かる単語と数字を拾っていく。
王都外縁の魔物討伐。
二日間の商隊護衛。
北西方面の物資輸送。
森林での危険獣調査。
農地周辺に現れた大型魔物の追跡。
確かに黄ランクの掲示板より、報酬の数字は大きいものが多かった。
「これ高い」
「二泊三日の護衛です」
「ご飯出る?」
「出ますけど、またそこですか」
「今度自分の持ってく」
「あ、保存食作ってましたね」
「硬くないやつ」
「それなら長距離も少し楽になりますね」
杏々は何枚か見比べたものの、今日からすぐ長い仕事へ出るつもりはなかった。
家へ帰ったばかりのような感覚もまだ残っている。
「今日はこれ」
最終的に選んだのは、王都近郊の森林で行う半日の調査補助だった。
「赤になった初日に、それですか?」
「近い」
「もっと高い依頼じゃなくて?」
「夕方魚買う」
「……いつも通りですね」
「ガルドもいつものでいいって言ってた」
「それは審査中の話だったと思いますけど、まあ間違いではないです」
◆
依頼を受ける前に、杏々はふと思い出して受付嬢を見た。
「赤なったの、リネットちゃん知らない」
「まだでしょうね」
「教える」
「今から魔術院へ行くんですか?」
「仕事のあと」
「それがいいと思います」
「あと魚屋も」
「魚屋にも?」
「赤なったら言えって」
「ああ……」
受付嬢は以前の会話を思い出したらしい。
「杏々さん、そういう約束はよく覚えてますよね」
「魚だから」
「でしょうね」
◆
午後の調査依頼は特に問題なく終わった。
森の中で大型魔物らしい足跡を確認し、同行した調査員が記録を取るのを護衛する。途中で森猪を二頭見かけたが、討伐対象ではなく、こちらへ向かっても来なかったため手を出さなかった。
赤ランク最初の仕事にもかかわらず、剣を抜くことさえなかった。
それでも依頼は正常に完了した。
夕方、杏々は報酬を受け取ると、その足で西市場へ向かった。
◆
「赤なった」
魚屋の主人へ資格証を見せる。
「お、本当に上がったのか。おめでとう」
「川鎧魚ある?」
「今日はない」
杏々の顔がまた止まる。
「ここも?」
「ここも何も、今日は入ってないもんは入ってないよ」
「大きいの」
「大物ならなおさら毎日来る魚じゃない。危険なのが見つかって、冒険者ギルドに討伐が出て、それが市場へ回るかどうかだろ?」
「そっか」
「赤になったからって、店の裏から出せるわけじゃないぞ」
「みんな同じこと言う」
「みんな正しいんだろ」
杏々は残念そうに店頭の魚を見る。
「じゃあ今日これ」
「結局買ってくのか」
「魚食べたい」
「川鎧魚じゃなくても魚は魚だからな」
◆
魚を買ったあと、杏々は王宮魔術院にも立ち寄った。
リネットは研究室で資料を読んでいたが、杏々を見ると眼鏡を押し上げた。
「どうしたんです? こんな時間に」
「これ」
杏々は資格証を見せる。
リネットは最初、何を見せられているのか分からなかったらしい。
すぐにランク表示へ気づく。
「あっ」
「赤」
「昇格したんですか?」
「今日」
「おめでとうございます!」
「うん」
杏々が少し嬉しそうにする。
「これで受けられる依頼も増えますね」
「川鎧魚」
「……やっぱりそこなんですね」
「今日なかった」
「今日昇格したばかりですよね?」
「魚屋にもなかった」
「そりゃそうでしょう」
◆
リネットは改めて杏々の資格証を見た。
「でも、すごいじゃないですか。こっちに来た頃は冒険者ですらなかったのに」
「うん」
「最初は文字もほとんど読めませんでしたし、ギルドの仕組みも分からなかったでしょう?」
「うん」
「今は自分で仕事を選んで、家も借りて、生活費も稼いで。それで赤ランクまで上がったんですよ」
杏々は少しだけ考える。
「結構やった?」
「かなりやりましたよ」
「そっか」
嬉しそうだった。
リネットはそれを見て、少し笑った。
「今日はちゃんとお祝いした方がいいんじゃないですか?」
「魚買った」
「もう準備してるんですね」
「食べる?」
「いいんですか?」
「赤なったから」
「では、お邪魔します」
◆
その夜は、杏々の家で二人で夕食を食べた。
買ってきた魚を塩焼きにし、残っていた野菜で汁物を作る。少しだけ普段より量も増やした。
川鎧魚ではない。
それでも魚は脂が乗っていて、皮までよく焼けば十分美味しかった。
「おいしい」
「お祝いの夕食としては、杏々さんらしくていいですね」
「魚だから」
「そこじゃないです」
寝台の上ではハンバーガー猫が相変わらずこちらを見ている。
リネットはもう見慣れたのか、今日は何も言わなかった。
ただ、床に置かれた灰色の布には気づいた。
「……また何か増えそうですね」
「ちくわアザラシ」
「聞かなかったことにします」
◆
食後、杏々は日記を開いた。
最初に、この世界の文字で大きく、
『赤』
と書いた。
その下へ、
『昇格』
『受けられる仕事増えた』
『今日の仕事 森の調査』
『川鎧魚 なし』
最後だけ少し強く書かれている。
日本語でも、
『魚屋にもなかった』
『でも今日の魚もおいしかった』
『皮ぱりぱり』
『赤になった』
と続けた。
しばらくページを眺めてから、杏々は日記を閉じる。
赤ランクになった。
目的の川鎧魚は、まだいない。
それでも受けられる仕事は増え、報酬の高い依頼も選べるようになった。
生活の範囲が、また少し広がった。
◆
リネットが帰ったあと、杏々は寝台へ入り、いつものようにハンバーガー猫を抱えた。
新しい資格証は、すぐ手の届くところに置いてある。
「赤」
今日何度目か分からない言葉を口にする。
そして少し間を置いて、
「川鎧魚ない」
と続けた。
赤ランクになった喜びと、魚がいなかった不満。
今のところ、杏々の中ではその二つが同じくらい大きかった。




