熊が売れた
赤ランクへの昇格審査が始まったからといって、杏々の毎日が急に変わることはなかった。
翌日も、その次の日も、いつも通りギルドへ行って黄ランクの依頼を受けた。王都近郊の護衛をして、街道を見回り、時には小型魔物を倒す。帰りには市場へ寄り、家へ戻れば夕食を作る。
審査について自分から何度も尋ねることもしなかった。
聞いたところで結果が早くなるわけではないと、ガルドから言われている。
ただし、受付の前を通るたび、
「赤まだ?」
くらいは聞いた。
「まだです」
返事も毎回同じだった。
そんな日が一週間ほど続いた頃、別のところから先に連絡が来た。
◆
「杏々さん」
午前中の依頼を終えてギルドへ戻ると、受付嬢が杏々を呼び止めた。
「布製品店の方から伝言が来てますよ」
「熊?」
「はい。熊です」
杏々がすぐカウンターへ寄る。
「できた?」
「もうできてますよ。試験販売してたでしょう」
「売れた?」
「それを直接話したいそうです」
「今行く」
「報酬受け取ってからにしてください」
「あ」
杏々はまだ依頼完了の報酬を受け取っていなかった。
帳面へ数字を書き込み、それを確認すると、今度こそ布製品店へ向かう。
◆
店に入ると、以前から森爪熊の商品化を進めていた職人が奥から出てきた。
「来たね」
「熊売れた?」
「挨拶もなしかい」
「こんにちは」
「はい、こんにちは」
「売れた?」
「そこへ戻るの早いねえ」
職人は笑いながら、杏々を店の奥へ案内した。
以前試作品を確認した作業台の上には、見覚えのある森爪熊が一体置かれている。
ただし、それは売り物ではなかった。
見本として残してある一体だという。
「最初に五つ作った」
「うん」
「覚えてるかい?」
「五匹」
「そこは覚えてるんだね」
「熊だから」
「基準がよく分からないよ」
職人は小さな帳面を開いた。
「その五つだけどね。全部売れたよ」
杏々が止まる。
「全部?」
「全部」
「ない?」
「店頭分はね」
「誰か持ってった?」
「買った人が持って帰ったよ。当たり前だろ」
杏々は少しだけ店内を見回した。
本当に森爪熊はいない。
「五人?」
「一人で二つ買った客がいるから、買ったのは四組だね」
「二匹?」
「子供が二人いるんだとさ」
「お」
◆
売れ方は、職人が想像していたより悪くなかった。
初日は一体。
二日目は売れず、三日目に一体。
そこから口コミなのか、店頭で見た客同士の話なのかは分からないが、数日かけて残りも売れていったらしい。
飛ぶように売れたわけではない。
けれど、見たことのない新商品として五体すべてが短期間で売れたなら、試験としては十分だった。
「一番言われたのは、顔だね」
「顔?」
「ちょっと機嫌悪そうなのがいいってさ」
杏々が頷く。
「森爪熊だから」
「最初の試作品をあんたが『いい子すぎる』って直したの、正解だったらしいよ」
「ほんとの熊もあんな感じ」
「本物を基準にする商品も珍しいね」
職人は見本の頭を軽く撫でた。
「あと腹。抱いた時の柔らかさがちょうどいいって言われた」
「真ん中柔らかくした」
「ああ。あれも手間は少し増えたけど、残すことにしたよ」
杏々は見本の腹を押してみる。
「うん」
「自分で確認するのかい」
◆
「それで」
職人が別の紙を出した。
「約束通り、売れた五つ分のあんたの取り分」
杏々が紙を見る。
一体あたりの金額は、リネットと一緒に契約書を確認した時に見た数字と同じだった。
五体分。
合計額も書かれている。
「これ?」
「ああ」
「もらえる?」
「そのために呼んだんだよ」
小さな袋が手渡される。
杏々は中身を確かめ、それからもう一度紙の数字と見比べた。
間違いない。
冒険者の依頼一回分ほど大きな金額ではない。
それでも、最初に試作品へ協力した時にもらった分より多かった。
「熊のお金増えた」
「まあ、そうなるね」
「私、今週熊作ってない」
「作るのはこっちだからね」
「でもお金くる」
「そういう契約にしただろ」
杏々は袋を見る。
何度聞いても、少し不思議だった。
◆
「これって」
杏々が聞く。
「寝てても売れた?」
「何を言い出すんだい」
「私、仕事行ってた」
「ああ」
「その間に売れた?」
「売れたね」
「私いなくても?」
「店に置いてあるんだから当然だろ」
「おお」
職人が嫌な予感を覚えたように杏々を見る。
「先に言っとくけど、何もしなくても永遠に金が湧くわけじゃないからね」
「違うの?」
「熊が売れなきゃ入らないし、作るにも布代と詰め物代と職人の手間がかかる。こっちだって売れた分からそれを払ってるんだよ」
「うん」
「だから急に百個作ったりもしない」
「前も言ってた」
「覚えてるならよし」
杏々は少し考えてから言った。
「でも便利」
「何が?」
「仕事してる時にも熊売れる」
「……まあ、それはそうだね」
◆
職人は帳面を閉じた。
「それで、次なんだけど」
「まだ作る?」
「十個だけ追加するつもりだよ」
「増えた」
「五個は売れたからね。ただし、ここから先も同じ速度で売れるとは限らない。最初は珍しさで買った人もいるだろうし、王都中の人間が熊のぬいぐるみを欲しがるわけじゃない」
「そっか」
「だから五から十。それが売れたら、また考える」
「いっぱい作らない?」
「作らない」
「ちゃんとしてる」
「商売だからね」
杏々は納得した。
農家の土玉芋の時もそうだった。
使えるからといって急に全部を変えるわけではない。
まず少し試す。
売れたら増やす。
駄目ならやめる。
王都の人たちは、杏々が思っているより慎重だった。
◆
「それからね」
職人が見本の森爪熊を持ち上げる。
「次の十個は、少しだけ作り方を整理したい」
「変える?」
「見た目は変えないよ。縫う順番とか、布を切る型の方。今のやり方でも作れるけど、もう少し無駄を減らせそうなんだ」
「かわいくなくならない?」
「そこは変えないって言ってるだろ」
「お腹は?」
「柔らかいまま」
「顔は?」
「嫌そうなまま」
「爪は?」
「短すぎない、長すぎない」
杏々が満足そうに頷いた。
「じゃあいい」
「いつの間にかあんたの検品基準、全部覚えちまったよ」
◆
そこへ店の入口から声がした。
「いるか?」
振り返ると、フィアが入ってきた。
「フィア」
「ギルドで杏々がここ来たって聞いたからな。俺にも呼び出し来てたし」
職人が手を叩く。
「ちょうどいい。あんたにも聞こうと思ってたんだ」
「俺?」
「最初の熊、まだ持ってるかい?」
「持ってるけど」
「ちょっと見せてほしい」
フィアの眉が寄る。
「売らねえぞ」
「誰が売れって言った!」
「最初のは私のじゃない」
杏々も言う。
「フィアの」
「分かってるよ!」
職人は二人を順番に見て、深く息を吐いた。
「今度の商品を直すために比べたいだけだよ。最初の一体の方が、どこが違って見えるのか確認したいのさ」
「それならいいけど」
フィアはまだ少し警戒していた。
◆
「熊売れたよ」
杏々が言う。
「聞いた。五体全部だろ?」
「知ってる?」
「さっき受付でな」
「フィアのは最初」
「それも知ってるよ」
杏々は少し嬉しそうだった。
「同じのない」
「ああ」
「フィアのだけ耳の後ろ縫い目違う」
「そこまで言うな」
「まだ気にしてるのかい?」
職人が笑い出す。
フィアは袋を持ってきていなかったので、最初の森爪熊は後日改めて見せることになった。
◆
店を出る時、職人が杏々を呼び止めた。
「そういえば、あんた」
「なに?」
「最近、布買ってるらしいね」
杏々の足が止まった。
「うん」
「やっぱりか」
「なんで知ってるの?」
「この辺で布扱ってる店なんか、だいたい繋がってんだよ。あんたくらい小さいのが何度も端切れ買ってりゃ、そりゃ話にも出るさ」
「ふーん」
「何作ってるんだい?」
「私の」
「何を?」
「まだ秘密」
職人の目が細くなった。
「……あんた、また何か変なもん作ってないだろうね」
「変じゃない」
「その返事が一番信用できないよ」
「かわいいよ」
「何なんだい」
「秘密」
杏々はそのまま店を出た。
後ろから、
「気になるじゃないか!」
という声が聞こえたが、戻らなかった。
◆
「何作ってんだ?」
隣を歩いていたフィアも聞いてきた。
「ハンバーガー猫」
「……何?」
杏々がフィアを見る。
「言った」
「いや、聞こえたけど意味が分からなかった」
「ハンバーガーと猫」
「だから何だよそれ」
「かわいい」
「説明する気ないだろ」
「あるよ」
「じゃあ説明してみろ」
「パンに肉挟んで猫」
フィアはしばらく黙った。
「……リネットは見た?」
「見た」
「何て言ってた?」
「困ってた」
「だろうな」
◆
杏々はギルドへ戻る前に、その日の熊の収入を帳面へ書いた。
『森爪熊 五匹売れた』
その下に、受け取った金額。
さらに、
『次 十匹』
と書いておく。
フィアが横から覗く。
「そこまで書くんだな」
「お金だから」
「冒険者の報酬と分けてんのか?」
「うん。熊のお金」
「分かりやすいな」
杏々は帳面を閉じる。
◆
午後は短い運搬依頼を一件受けた。
王都の商店から倉庫へ木箱を運ぶだけの仕事で、危険も戦闘もなく、夕方には終わった。
そこでまた報酬を受け取る。
今日一日で入った金は二種類になった。
自分で働いて得た金。
少し前に作った熊が売れて入った金。
家へ帰る途中、杏々は市場で肉の値段を見た。
いつもなら少し迷う部位がある。
「今日これ」
少しだけいい肉を選んだ。
ただし、全部を使うわけではない。
熊の金の大部分はそのまま残す。
剣と家を一度に払った直後ほど苦しくはなくなってきたが、毎月の家賃がなくなるわけではないからだ。
◆
夕食は、買ってきた肉を厚めに焼いた。
表面にはしっかり焼き目をつけ、仕上げに塩と香草を少し使う。中には肉汁が残っており、噛めば普段買う安い硬い肉とは違う柔らかさがあった。
「おいしい」
今日、熊が売れたことよりも、その瞬間だけは肉の方が大事だった。
食後に日記を開き、日本語で続ける。
『熊のお金でちょっといい肉』
『柔らかい』
『焼き目濃い方がおいしい』
『脂もある』
『でも熊のお金全部は使わない』
最後の一文を書いてから、杏々は少し考えた。
「ちゃんとしてる」
自分で自分を評価しておいた。
◆
寝る準備を終えると、杏々はハンバーガー猫を抱えて寝台へ入った。
森爪熊は五匹売れた。
次は十匹になる。
そのうち何匹が売れるのかは、まだ分からない。
けれど、誰かがあの少し不機嫌そうな熊を気に入り、家へ連れて帰ったことだけは確かだった。
「知らない人の家に熊いる」
それは少し面白い。
杏々は自分の腕の中にある、森爪熊とは似ても似つかないものを見る。
「ハンバーガー猫は私の」
こちらは売るつもりがなかった。
少なくとも、今のところは。




