赤の話
ハンバーガー猫が寝台の上に居着いてから、さらに十日ほどが過ぎた。
杏々の生活はすっかり王都の暮らしへ馴染みつつあった。朝になれば自分で食事を作り、仕事へ行き、夕方には市場へ寄って家へ帰る。長い依頼がなければ夜は裁縫をしたり、保存食の試作をしたり、日記を書いたりして過ごしている。
ハンバーガー猫も毎晩使われていた。
最初より少しだけ中央が潰れたが、それも杏々にはちょうどよかった。
そして冒険者としても、黄ランクになったばかりの頃とはずいぶん違っていた。
討伐だけではない。
採取護衛。
街道警備。
倉庫警備。
短距離輸送。
数日かけての物資護衛。
依頼主とのやり取りや報告も、以前ほど受付嬢に直されなくなっている。
杏々本人は、その変化を特に意識していなかった。
毎日仕事をしていたら、そうなっただけだった。
◆
その日、杏々は王都東側の農村から戻ってきた。
依頼内容は、家畜を狙う小型魔物の追い払いと周辺確認だった。討伐対象がいれば倒してよい仕事だったが、実際に見つかったのは灰尾狐が一体だけで、人を見るなり逃げていったため追わずに終わっている。
「追わなかった?」
報告を聞いた受付嬢が確認する。
「遠く行ったから」
「家畜の近くには戻ってきそうでした?」
「たぶん来ない。森の奥行った」
「痕跡は?」
「一匹分だけ。柵の外。中入ってない」
「なるほど」
受付嬢は少し考えてから、依頼票へ記録を書き込んだ。
「問題なさそうですね。依頼主からも、今日は被害なしと報告が来ています」
「じゃあ終わり?」
「はい。完了です」
杏々は報酬を受け取り、いつものように帳面へ書き込んだ。
「次ある?」
「ありますけど……その前に少し待ってください」
「なに?」
「ガルドさんから話があります」
杏々が顔を上げた。
「怒られる?」
「どうして最初にそれが出るんですか」
「呼ばれるから」
「悪い話ではありませんよ」
「じゃあ褒める?」
「それは本人に聞いてください」
◆
しばらくすると、奥からガルドが出てきた。
杏々は以前から何度も顔を合わせているため、さすがに名前も覚えている。
「杏々」
「うん」
「少し時間あるか?」
「ある」
「じゃあこっち来い」
案内されたのは、依頼人との打ち合わせなどに使われる小さな部屋だった。
机を挟んで座ると、ガルドは数枚の紙を広げた。
「何?」
「お前の仕事の記録だ」
「いっぱい」
「そりゃ毎日のように来てりゃ増える」
討伐。
護衛。
採取。
警備。
輸送。
それぞれの日付と結果が並んでいる。
杏々には文章すべては読めないが、日付や数字、自分がよく見る依頼の単語くらいならかなり拾えるようになっていた。
「黄いっぱい」
「ああ。黄になってから、それなりに時間も経った」
「うん」
「仕事の種類も揃ってきたし、依頼失敗もない。最近は余計なことをせず、依頼の目的に合わせて動けてる」
杏々が少しだけ姿勢を正した。
「褒めた?」
「話を最後まで聞け」
「まだ数えない?」
「後で好きに数えろ」
◆
ガルドは一枚の紙を指で叩いた。
「この前の物資護衛。あれも評価は悪くなかった」
「ご飯運んだ」
「その言い方だと仕事の内容がだいぶ軽く聞こえるな」
「でもご飯だった」
「食料だけじゃねえよ」
「薬と布もあった」
「覚えてるじゃねえか」
灰爪鬼の襲撃を受けた際、杏々は逃げた相手を追わず、荷車の防衛へ戻った。ガルドが評価していたのは、倒した数ではなくそちらだった。
「前のお前なら、逃げた奴をそのまま追ってた可能性がある」
杏々は少し考える。
「仕事が討伐なら追う」
「今はそう判断できるようになったって話だ」
「うん」
「それから倉庫警備でも、荷札の違いや袋の破損を自分で見つけてる。街道警備の報告も、前より情報が増えた」
「言えって言われたから」
「言われてできるなら十分だ」
杏々が指を一本立てようとする。
「まだ早い」
「今褒めた」
「……一回でいい」
「一回」
◆
「それでだ」
ガルドがようやく本題へ入った。
「そろそろ赤への昇格審査に回していい頃だと思ってる」
杏々の動きが止まった。
「赤?」
「ああ」
「赤になる?」
「まだなってねえ」
「いつ?」
「だから審査するって話だ」
「川鎧魚」
「そこかよ」
ガルドが額を押さえた。
「赤になったら大きい川鎧魚の依頼ある?」
「依頼が出ればな」
「赤になったら食べれる?」
「勝手に獲るなよ」
「依頼で取る」
「ならいい」
杏々は急に前のめりになった。
「審査する」
「お前が決めることじゃねえ」
「して」
「するから呼んだんだよ!」
◆
赤ランクへの昇格は、白から黒や、黒から黄ほど単純ではない。
一定の活動期間。
依頼件数。
仕事内容の幅。
規則違反の有無。
依頼主からの評価。
報告の正確さ。
緊急時の判断。
そういった記録を見たうえで、ギルド内部の複数人が判断する。
杏々のように戦闘能力だけなら明らかに黄ランクの範囲を越えている者でも、それだけを理由に上げることはしない。
「強いのに?」
「強いだけで上げてたら、荷物放り出して魔物追いかける奴まで上に行くだろ」
「それだめ」
「分かるだろ?」
「うん」
「赤になると受けられる依頼の危険度も上がる。自分だけ強けりゃいいってわけじゃないんだよ」
杏々は以前なら、そこまで深く考えなかったかもしれない。
けれど今なら、少し分かる。
荷車を守る仕事で一人だけ遠くへ行けば、残った場所に穴ができる。
討伐できる相手だからといって、倒すことが正解とは限らない。
「仕事できるか見る?」
「そういうことだ」
「じゃあできる」
「自分で言うな」
◆
「何するの?」
杏々が聞く。
「特別な試験を一発やって終わり、ってわけじゃねえ。基本は今までの記録を見る」
「戦わない?」
「必要なら確認のために依頼を一つ指定することはある。ただ、お前の場合は戦闘能力を今さら確認する意味が薄い」
「強いから?」
「そこは否定しねえ」
杏々の指が二本になる。
「二回」
「今のまで数えるのか」
「褒めた」
「……勝手にしろ」
「二回」
ガルドは諦めた。
◆
「ただし、一つだけ」
「なに?」
「赤へ上がる前だからって、急に実績稼ぎみたいなことはするな」
「?」
「高い依頼ばっかり選ぶとか、無理に危ない仕事へ行くとかだ」
「なんで?」
「今まで通り働いてりゃいい。審査に入ったからって仕事の仕方を変える必要はない」
「でも赤早くなる?」
「変わらん」
「そっか」
杏々はあっさり納得した。
「じゃあいつものでいい」
「そうしろ」
「川鎧魚出たら教えて」
「まだ赤じゃねえって言ってんだろ!」
◆
話を終えて受付へ戻ると、受付嬢が杏々の顔を見た。
「どうでした?」
「赤の話」
「やっぱりそれでしたか」
「審査する」
「そうですね。最近の記録なら、そろそろ話が出てもおかしくないと思ってました」
「川鎧魚」
「その話もしました?」
「した」
「ガルドさん、お疲れさまです」
奥から、
「聞こえてるぞ!」
と声が飛んできた。
◆
「じゃあ今日はどうします?」
受付嬢が聞く。
杏々は掲示板を見る。
審査の話をされたばかりではあるが、依頼そのものはいつも通りだった。
黄ランク向けの討伐。
護衛。
採取。
運搬。
いくつか見比べたあと、杏々は一枚を指した。
「これ」
「共同井戸の周辺警備ですね」
「近い?」
「王都の南側です。半日で終わると思います」
「じゃあこれ」
「もっと難しい依頼を選ばなくていいんですか?」
「いつものでいいって言われた」
受付嬢が笑った。
「ちゃんと聞いてたんですね」
「うん」
「では、お願いします」
◆
その日の仕事は本当に何事もなく終わった。
王都南側の共同井戸周辺で、最近夜になると小型魔物らしい影を見るという話があり、その痕跡を確認しながら昼の利用者を守る仕事だった。
杏々が見つけたのは、古い足跡がいくつかと、食べ物を漁った跡だけだった。
魔物の姿はない。
危険もない。
だから倒すものもない。
以前なら、仕事をした感じがしないと思ったかもしれない。
今は依頼人に、
「今日は何も出ませんでした。こっちに古い足跡ありました」
と場所を伝え、ギルドへ戻るだけだった。
何も起きなかったなら、それはそれでいい。
◆
夕方、西市場へ寄った杏々は、魚屋の前で足を止めた。
川魚が何種類か並んでいる。
その中に川鎧魚はいない。
「ない」
魚屋の主人が杏々を見る。
「何探してる?」
「川鎧魚」
「こんな市場の普通の台に大物は並ばないよ。出ても小さいのだ」
「大きいの食べたい」
「なら冒険者の依頼でも待つんだね」
「赤になったらできる」
「そうなのかい?」
「審査するって」
「そりゃめでたいじゃないか」
杏々が少し考える。
「まだめでたくない」
「まだ上がってないのか」
「うん」
「じゃあ上がったら言いな。いい魚あったら教えてやるよ」
杏々の表情が少し明るくなった。
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあ赤なる」
「俺が決めるわけじゃないぞ」
◆
家へ戻ると、杏々は夕食を作った。
今日買った魚を焼き、残っていた野菜と芋で汁物を作る。
寝台の上では、ハンバーガー猫が朝と同じように転がっている。
食後、杏々は日記を開いた。
『赤 審査』
文字を大きめに書く。
その下に、
『仕事はいつもどおり』
『今日 井戸』
『古い足跡あった』
そして日本語で、
『赤になったら川鎧魚』
『魚屋も教えてくれる』
『まだ赤じゃない』
最後の一行だけ、少し不満そうに書いた。
◆
杏々は日記を閉じると、寝台へ上がってハンバーガー猫へ寄りかかった。
「赤」
しばらく考える。
「川鎧魚」
やはりそこへ行く。
冒険者として認められることが嬉しくないわけではない。
褒められれば嬉しい。
できる仕事が増えるのもいい。
報酬の高い依頼が増えれば、家賃にも食費にも余裕ができる。
けれど杏々にとって、赤ランクという言葉と一番強く結びついているのは、以前からずっと大きな川鎧魚だった。
「早く赤ならないかな」
そう呟きながらハンバーガー猫を抱え、杏々は目を閉じた。
少なくとも、昇格を待つところまでは来ていた。




