ご飯を運ぶ
倉庫警備の依頼を終えてから四日後、杏々がいつものように冒険者ギルドへ入ると、受付嬢がカウンターの向こうから手招きした。
「杏々さん、ちょうどよかったです」
「なに?」
「この前言ってた仕事、出ましたよ」
杏々が近づくと、受付嬢は一枚の依頼票を差し出した。王都北西部の物資集積所から、王都の外に設けられた中継拠点まで荷を運ぶ輸送護衛で、荷車は六台。積まれているのは食料、薬品、布、それに矢材などで、片道は一日半ほど。荷下ろしを済ませて王都へ戻るまで、全体では三日程度を見込んでいる。
「ご飯?」
「その覚え方で合ってるのが悔しいですね」
「黄でもいい?」
「今回は赤ランクを一人以上含む四人編成なので、黄ランクも参加できます」
「やる」
「まだ説明終わってません」
「でもやる」
「分かりましたから、まず聞いてください」
今回の仕事で最優先されるのは、魔物や盗賊を倒すことではなく、荷物を中継拠点まで無事に届けることだった。途中で何かを見つけても、荷車を置いて追いかけてはいけない。戦闘を避けられるなら避け、必要以上に護衛対象から離れないこと。これまで杏々が護衛依頼で何度も教えられてきたことではあるが、今回は数日間にわたる仕事なので、受付嬢も念を押して説明した。
「討伐じゃない」
「はい」
「荷物守る」
「そうです」
「前に言われた」
「覚えてましたね」
「何回も言われたから」
杏々はそこで依頼票へ視線を戻し、少し間を置いて尋ねた。
「ご飯つく?」
「道中の食事は依頼主側から支給されます」
「三日分?」
「三日分です」
「いい仕事」
「そこだけで決めないでくださいね」
◆
「一緒に行く人は?」
「今のところ二人決まっています。セリアさんとレオルさんですね」
「知ってる」
「あと一人がまだです」
杏々は少し考えてから、フィアの名前を出した。今日は別の依頼へ出ているらしいが、明日の朝出発なら、帰ってきて条件が合えば参加する可能性もあるという。
「熊持ってくる?」
「持っていかないと思いますよ」
「そっか」
「三日の護衛にぬいぐるみを持っていく人は、そんなにいませんから」
「私なら持ってくかも」
「杏々さんは自分の荷物を増やさないでください」
受付嬢はそのまま杏々の装備を確認した。新しい剣に、小さな鞄。最低限の旅用品は揃っているが、数日間の野営となれば普段の依頼とは少し勝手が違う。
「毛布は?」
「ある」
「雨避けは?」
「ある」
「火打ち道具、水袋、着替えは?」
「ある」
「予備の食事は?」
「ご飯出る」
「予定通り進めば足ります。でも、街道で何があるか分かりませんから、最低でも一食分くらいは持ってください」
杏々は少し嫌そうな顔をした。
「干した肉?」
「そうしてください」
「硬い」
「非常食に美味しさを求めすぎないでください」
◆
昼前には最後の一人も決まった。フィアではなく、ギルドで何度か顔を合わせたことのある黒髪の男性冒険者で、赤ランクの彼が今回の隊をまとめることになった。
顔合わせの際に名前も聞いたが、五分ほど経った頃には杏々の中で早くも「赤の人」になっていた。
「名前聞いただろ」
レオルが笑う。
「聞いた」
「覚えてない?」
「顔は覚えた」
「それはまだ救いがあるな」
横にいたセリアが肩をすくめた。
「仕事中は指示が分かれば十分よ。杏々に名前を覚えさせる方が、今回の護衛より難しいかもしれないでしょう」
「失礼」
「じゃあ名前は?」
レオルに聞かれ、杏々は赤ランクの男を見上げた。少しだけ考えた末に、
「……赤の人」
「やっぱりじゃねえか」
笑い声が上がった。
◆
出発は翌朝だったので、その日のうちに杏々は西市場へ戻り、足りない旅用品を揃えた。
予備のパンに干し肉、少量の乾燥果実と水。それから、旅の途中でも味を変えられるように、普段使っている辛みのある乾燥実と香草も少しだけ包んでおく。
「護衛かい?」
買い物を見ていた肉屋の店主が尋ねる。
「うん。三日」
「なら干し肉、もう少し持ってった方がいいぞ」
「ご飯出る」
「出ても、予定が遅れた時は別だ」
受付嬢と同じことを言われ、杏々は少し考えてから干し肉を追加した。
「食べなかったら帰って食べる」
「それが一番いい」
◆
家へ戻ると、杏々は旅用の荷物を床へ並べて確認した。
新しい剣と予備の小刀、水袋、毛布、雨避けの布、着替え、火を起こす道具、予備食、それから日記。古い剣は今回は持っていかず、いつもの場所に立てかけておく。
「留守番」
古い剣へそう言ってから、今度は部屋の中を見回した。
新居で暮らし始めてから、まだそれほど日は経っていない。三日間とはいえ、ここを空けるのは初めてだった。
「鍵」
杏々は袋に入れた鍵をもう一度確認した。
なくしたら困るということは、家を持ってから嫌というほど理解している。
◆
翌朝、市場の店がまだほとんど開いていない時間に、杏々は北西の集積所へ向かった。
すでに六台の荷車が並び、馬の息が朝の冷たい空気の中へ白く溶けている。人足たちは出発前の最終確認に忙しく、荷台の縄を締め直したり、積み荷の数を照合したりしていた。
「杏々、こっち」
セリアが手を上げる。
「おはよう」
「おはよう。荷物はそれだけ?」
「うん」
「思ったより少ないわね」
「ご飯あるから」
「そういう意味じゃないんだけど」
レオルも新しい剣に気づいたらしく、杏々の腰を見た。
「もう使い慣れたか?」
「うん。斬りやすい」
「今回はできれば抜かずに終わりたいけどな」
「荷物守れたらいい」
「分かってるならよし」
◆
出発前に赤ランクのまとめ役が全員を集め、配置と合図を確認した。先頭と最後尾に一人ずつ置き、中央の二人が荷列の死角を補う。杏々は中央を担当することになった。
「異常があっても勝手に離れるな。前か後ろへ声を回せ。敵を見つけた場合も、まず数と位置を知らせろ。戦う必要がないなら戦わない」
「うん」
「それと食料の箱を勝手に開けるな」
杏々が顔を上げた。
「私だけ言った?」
「お前だけだ」
レオルが吹き出し、セリアも笑った。
◆
やがて荷車がゆっくりと動き始め、六台の列は王都の門を抜けて北西へ続く街道へ出た。
杏々は中央付近の荷車に合わせて歩く。箱や袋の中に何が入っているのかは、前に集積所で働いた時にだいたい見ていた。硬く焼いたパン、乾燥豆、塩漬け肉、干し魚、穀物。それに薬や布も積まれている。
この荷物は杏々たちが食べるものではない。中継地へ運ばれ、そこからさらに北へ送られて、兵士や人足たちの食事や仕事に使われる。
「これ、どこまで行くの?」
荷車を見ながら聞くと、セリアが歩調を合わせたまま答えた。
「私たちが運ぶのは中継地までよ。そこから先は別の隊が引き継ぐはず」
「もっと北?」
「そう」
「戦うとこ?」
「その近くまで行くものもあるでしょうね」
「ふーん」
杏々は積み荷をもう一度見た。
自分たちよりも、この荷物の方がずっと遠くまで旅をするらしい。
◆
午前中は特に問題もなく、街道を行き交う商人と何度かすれ違い、農村の近くを通過しただけだった。
昼になると一行は街道沿いの休憩場所へ入り、馬を休ませるために荷車を止めた。
「ご飯」
「休憩って言え」
レオルが呆れる。
「でもご飯」
「はいはい」
支給された昼食は、厚めのパンと塩気の強い保存肉、それに豆を煮たものだった。杏々は保存肉を一口噛み、少しだけ眉を寄せた。
「肉硬い」
「保存用だからな」
「でも塩強いからパンと合う」
「結局ちゃんと食うんだな」
「ご飯だから」
豆の煮込みには香草が少し使われており、杏々はパンを汁へ浸して食べた。
「これおいしい」
「朝から楽しみにしてた甲斐があったわね」
セリアが笑った。
◆
午後に入ると、王都から離れた分だけ道の状態も少しずつ悪くなっていった。荷車は窪みを避けながら進むため、午前中より速度が落ちる。
しばらくして、一台の後輪が深い泥へ入り込み、荷台が大きく傾いた。
「止めろ!」
声が飛び、列全体が止まる。
杏々もすぐ荷車へ寄り、積み荷が崩れていないことを確認すると、側面へ手をかけた。
「押す?」
「待て。荷を少し下ろして軽く――」
まとめ役が言い終える前に、杏々は持ち上げられそうな位置を探していた。
「杏々、待ちなさい」
セリアが止める。
「壊したら荷物ごと駄目になるわ」
杏々は手を離した。
「これくらいなら持てる」
「持てるかどうかじゃないの。車輪や軸の方が耐えられないかもしれないでしょう」
「そっか」
「力を出せば解決する仕事じゃないのよ」
「分かった」
人足たちは泥の状態を確認し、板を噛ませて車輪が上がりやすい道を作った。そのうえで全員が声を合わせ、少しずつ荷車を押す。
杏々も今度は周囲に合わせて力を入れた。
車輪が板へ乗り、ゆっくりと泥から抜ける。
「出た」
「今くらいでいいのよ」
「一人でもできたよ」
「知ってるから止めたの」
◆
日が傾き始めた頃、一行は予定していた野営地へ到着した。
街道から少し外れた場所にあり、旅人や商隊がよく利用するらしく、水場の近くには以前使われた焚き火の跡も残っている。六台の荷車を外向きに並べて簡単な囲いを作り、その内側で馬を休ませた。
護衛は交代で周囲を見ることになり、杏々は夕食のあと最初の見張りを担当することになった。
「先に食べていい?」
「そのために今から夕食よ」
「お」
「本当にそこは嬉しそうね」
夜の支給食は昼とよく似ていたが、焚き火で湯を沸かせたため、乾燥野菜を入れた温かいスープが付いていた。
杏々は一口飲んでから、自分の荷物をごそごそと探る。
「何それ?」
レオルが覗き込む。
「辛いの」
「持ってきたのかよ」
「自分のスープに入れる」
ほんの少し落とすと、湯気に混じる香りが変わった。もう一度飲んで、杏々は満足そうに頷く。
「おいしい」
「お前、野営でも食事だけは妥協しねえな」
「三日あるから」
「三日くらい我慢しろよ」
「なんで?」
杏々には本当に意味が分からなかった。
◆
食事を終えると、杏々は焚き火の明かりが届くぎりぎりの場所へ移動した。
六台の荷車と休んでいる馬、その向こうには暗い森が広がっている。昼間なら街道から遠くまで見渡せたが、夜になると木々の向こうはほとんど何も見えない。
杏々は剣へ手を置くでもなく、座ったまま耳を澄ませた。
風が葉を揺らす音。
馬が時折鼻を鳴らす音。
焚き火で薪が爆ぜる音。
王都の倉庫で立っていた時とは違い、ここには壁も門もない。何かが近づいてくるなら、暗闇のどこからでも来る。
「杏々」
後ろからセリアが声をかけた。
「なに?」
「何かいる?」
「今はいない」
「そう」
セリアは少し離れたところへ腰を下ろした。
「泊まりで荷物を守る仕事は初めてでしょう?」
「うん」
「眠くない?」
「まだ」
杏々は目の前の荷車を見た。
「これ全部、ご飯とか?」
「全部じゃないけど、かなりね」
「盗られたら困る?」
「そりゃ困るわよ」
「食べる人いるから?」
「そう」
杏々は少し黙り込んだ。
「前に倉庫でいっぱい見た」
「聞いたわ」
「いっぱいあったけど、毎日ならなくなる」
「そうね」
「また運ぶ」
「そう」
「ずっと?」
セリアは少し考えてから答えた。
「戦争が続く間は、たぶんね」
「そっか」
杏々は再び暗い森へ視線を戻した。
戦争そのものは、まだ杏々のいる場所からは遠い。剣戟も聞こえなければ、負傷した兵士が目の前にいるわけでもない。
それでも王都からは毎日のように荷が出ていき、こうして誰かが運び、誰かが守っている。
◆
しばらくして、森の端から小さな物音がした。
杏々の顔が上がる。
「いる」
セリアもすぐ立ち上がった。
「どこ?」
「右。森の端」
杏々は立ったが、まだ剣は抜かない。
音は一つだけで、それほど大きくもない。しばらく待っていると、草むらの向こうから細身の灰色の獣が姿を見せた。
「灰尾狐ね」
セリアが確認する。
杏々も以前見たことがある魔物だった。
「荷物来る?」
「食べ物の匂いには寄ってくるかもしれないけど、人間がこれだけいれば普通は近づかないわ」
灰尾狐はこちらを警戒するようにしばらく見つめていたが、やがて森の奥へ戻っていった。
杏々は追わない。
「行った」
「うん。それでいい」
「討伐じゃないから」
「ちゃんと分かってるじゃない」
杏々がセリアを見る。
「褒めた?」
「……褒めたわ」
杏々は指を一本立てた。
「一回」
「野営でも数えるのね」
「うん」
◆
見張りを交代すると、杏々は荷車の近くに敷いた毛布へ潜り込んだ。
剣は手を伸ばせば届く場所に置いてある。完全に気を抜いていいわけではないが、交代制である以上、自分の番ではきちんと休んでおかなければ翌日に響く。
横になって目を閉じようとしたところで、杏々は近くにいたレオルへ聞いた。
「明日もご飯ある?」
レオルが振り返る。
「そこ確認してから寝るのかよ」
「朝」
「あるよ」
「そっか」
それを聞いて安心したのか、杏々は毛布の中へ収まった。
王都を離れて一日目。
荷物は一つも失われていない。
誰も怪我をしていない。
予定より少し遅れただけで、道程にも大きな問題はなかった。
そして支給された食事も、朝から夜まできちんと用意されていた。
少なくとも一日目は、何事もなく終わりそうだった。




