追わない
翌朝、杏々が目を覚ました時には、空がようやく薄く明るくなり始めたところだった。
野営地ではすでに何人かが起きており、焚き火へ薪を足し、馬へ水を与えている。夜のあいだに大きな異常はなかったらしく、六台の荷車も昨日と同じ場所に並んでいた。
杏々は毛布から起き上がると、まず荷物の中を確認した。
「朝ご飯」
「起きて最初にそれか」
近くで装備を整えていたレオルが呆れる。
「昨日あるって言った」
「あるよ。今作ってる」
「お」
杏々は安心すると、毛布を畳んで自分の荷物へ戻した。
昨夜の見張りで何度か目を覚ましたものの、睡眠そのものは足りている。普段の寝台ほど快適ではなかったが、一晩程度なら問題なかった。
◆
朝食は、昨夜の残りのスープへ乾燥豆を足したものと硬めのパン、それに少量の保存肉だった。
杏々は保存肉を噛みながら、少し眉を寄せる。
「やっぱり硬い」
「昨日も言ってたわね」
セリアが向かいでパンをちぎる。
「毎回これ?」
「遠出なら似たようなものが多いわよ。日持ちするし、運びやすいから」
「三日ずっと?」
「三日くらいならまだいい方ね。もっと長い依頼なら一週間以上似たようなものを食べることもあるわ」
杏々の手が止まった。
「一週間?」
「あるわよ」
「これ?」
「だいたいね」
杏々は保存肉を見る。
塩気が強く、噛めば肉の味はするが、昨日の昼からほとんど変わっていない。
「嫌」
「そこまで?」
「一週間これは嫌」
レオルが笑う。
「じゃあ自分で持ってくるしかねえな」
「作る」
「……作る?」
「帰ったら考える」
杏々はそう言って、残りの肉もちゃんと食べた。
美味しくないからといって捨てるつもりはない。ただ、次も同じものを食べ続けるつもりもなかった。
◆
朝食を終えると、荷車の点検を済ませて一行は再び街道へ出た。
今日の予定では、昼過ぎには中継拠点へ到着する。昨日より道は細くなっていたが、荷車が通れないほどではなく、森と開けた草地が交互に続く道をゆっくり進んでいった。
杏々は昨日と同じ中央を歩きながら、時折地面や森の縁へ目を向けていた。
最初の数刻は特に変わったこともない。
しかし、昼前になった頃、杏々は街道脇の柔らかい土へ視線を止めた。
「足跡」
近くにいたセリアも立ち止まりかけたが、隊列そのものは止めない。
「どこ?」
「右。いっぱい」
街道から森へ向かう土の上に、人間より少し細長い足跡がいくつか残っていた。
古いものではない。
昨夜か、早朝。
赤ランクのまとめ役も確認し、短く周囲を見渡す。
「街道を横切ってるだけか?」
「向こうから来て、こっち入ってる」
杏々が指した先では、草が何かに踏まれてわずかに倒れている。
「数は?」
「五……たぶん六」
「種までは分かるか?」
「まだ」
杏々は匂いを嗅ぐようなことはせず、足跡の形だけを見ていた。
「人じゃないと思う」
「魔物か」
「たぶん」
◆
まとめ役は少し考えた末、隊列を止めずに進ませた。
「追わない。速度も上げすぎるな。警戒だけ強める」
「調べなくていい?」
杏々が聞く。
「俺たちの仕事はこの荷物を届けることだ。森の中に何がいるか調べるのは別の仕事になる」
「うん」
「何か出たら声を出せ。それまでは隊列から離れるな」
「分かった」
杏々は森を見る。
足跡を辿れば、おそらく何が通ったかは分かる。
距離もそれほど離れてはいないかもしれない。
けれど今回は追わない。
昨日、灰尾狐を見た時と同じだった。
倒せるかどうかではなく、倒す必要があるかどうか。
杏々はそのまま荷車の横へ戻った。
◆
それから半刻ほど進んだ頃だった。
先頭から短い合図が飛ぶ。
「止まれ!」
六台の荷車が順番に速度を落とした。
前方の街道へ、倒木が一本横たわっている。
昨日の雨で倒れたようにも見えるが、根元を見る限り自然に折れた形ではなかった。
斧か何かで途中まで切り込みを入れ、その後押し倒したような痕がある。
まとめ役の表情が変わった。
「全員、荷車から離れるな」
杏々もすぐ剣へ手をかける。
「いる?」
「いる前提で考えろ」
セリアは周囲を見ながら、いつでも魔法を使えるよう杖を握った。
レオルとまとめ役が前方を警戒し、杏々とセリアは中央から後方を見る。
人足たちは馬を落ち着かせ、勝手に動かないよう手綱を握った。
◆
数秒。
何も起きない。
さらに少し待ったところで、森の奥から枝の折れる音がした。
「左」
杏々が言う。
次の瞬間、森から三体の魔物が飛び出した。
細身で、腕が長い。人間より一回り小さいが、手には粗末な刃物のようなものを持っている。
「灰爪鬼!」
レオルが叫ぶ。
杏々が初めて見る魔物だった。
先頭にいた二体はまとめ役とレオルへ向かったが、残る一体は人間を狙わず、街道脇から大きく回り込んだ。
「後ろ行く!」
杏々がその動きを見て走り出す。
「杏々、荷車から離れすぎるな!」
「うん!」
追うと言っても、隊列から外へ飛び出したわけではない。荷車と並行する範囲で走り、後方へ回る。
灰爪鬼は最後尾の荷車へ近づくと、御者ではなく積み荷へ刃を振り下ろした。
「箱?」
木箱を固定していた縄が切れる。
中身は保存食だった。
◆
灰爪鬼が箱へ手を伸ばした瞬間、杏々が間へ入った。
「だめ」
相手が振り向く。
刃が横薙ぎに振られた。
杏々は半歩だけ身を引いて避け、その手首を掴む。次の瞬間には身体を捻り、相手の勢いをそのまま使って街道の地面へ叩きつけた。
鈍い音がする。
灰爪鬼が起き上がる前に、杏々は剣を抜いた。
一閃。
そこで終わった。
「一匹!」
杏々が声を上げる。
「確認した!」
前方からまとめ役の返事が返る。
まだ終わっていない。
◆
森の方からさらに二体が姿を現した。
しかし今度は、こちらへ突っ込んでこなかった。
一体が石を投げ、もう一体は荷車の隙間を狙うように横へ走る。
杏々はそちらへ向かおうとして、途中で止まった。
「杏々!」
セリアの声が飛ぶ。
「そっちは囮かもしれない!」
杏々はすぐ周囲を見た。
前方にはレオルとまとめ役。
中央にはセリア。
後方には自分。
さっきの一体は明らかに保存食を積んだ荷車へ向かった。
今横へ走っている灰爪鬼も、杏々たちそのものより荷台を見ている。
「荷物狙ってる」
「たぶんね!」
杏々は追いかけるのをやめ、荷車の脇へ戻った。
◆
灰爪鬼が距離を取った。
杏々を森へ誘うように、何度か振り返る。
普通の討伐依頼なら追うところだった。
距離は縮められる。
杏々なら、おそらくすぐ捕まえられる。
それでも動かなかった。
「来るならこっち」
剣を下げたまま待つ。
灰爪鬼は少し迷ったように足を止めた。
その間に、森の別方向からまた音がした。
杏々がそちらを見る。
「もう一匹」
やはりいた。
追っていれば、空いた場所から荷車へ近づかれていた。
「いた!」
「そのまま守れ!」
まとめ役の声が飛ぶ。
◆
新しく現れた灰爪鬼は、積み荷の中でも布や木材には目もくれず、食料を載せた荷車へ直接向かった。
杏々がその前に立つ。
「これご飯」
灰爪鬼には意味が通じているのか分からない。
「持ってったらだめ」
相手が低い声を上げ、飛びかかる。
杏々は剣を振らなかった。
荷車がすぐ後ろにある。
避けながら腕を取り、そのまま身体を反転させる。
投げる方向も荷車とは逆。
灰爪鬼は地面を転がり、そこへ杏々が一気に距離を詰めた。
今度は荷車から十分離れている。
剣を一度振る。
戦闘そのものは短かった。
◆
前方でも二体が倒されると、残っていた灰爪鬼たちは森へ逃げ始めた。
「追うな!」
まとめ役がすぐ声を飛ばす。
レオルも追わない。
杏々は一瞬だけ逃げていく背中を見たが、そのまま剣を鞘へ戻した。
「行った」
「それでいい!」
セリアがこちらへ走ってくる。
「怪我は?」
「ない」
「荷車は?」
「縄切れた」
確認すると、保存食の箱を固定していた縄が一本切られているだけで、箱そのものは無事だった。中身も奪われていない。
人足たちはすぐに新しい縄を持ってきて固定をやり直した。
◆
前方の倒木をどかす作業をしながら、まとめ役が周囲を確認した。
「追撃がないうちに抜ける。死体も最低限だけ確認して、長居しないぞ」
「討伐部位取らない?」
杏々が聞く。
「今日は依頼外だ」
「お金にならない?」
「ならない」
「そっか」
「残念そうにするな」
杏々は倒した灰爪鬼を見る。
「食べれる?」
「知らん」
「やめとけ」
レオルが即答した。
「分かった」
今日は食料を守る仕事で、自分の食料を増やす仕事ではない。
◆
倒木を道端へ寄せると、一行はすぐ出発した。
今度は隊列を少し詰め、森の切れ目を抜けるまで警戒を続ける。
杏々は歩きながら、さっきの灰爪鬼の動きを思い返していた。
「ねえ」
「どうした?」
近くを歩くレオルが答える。
「あいつら、ご飯狙ってた」
「そう見えたな」
「人じゃなくて?」
「最初の二匹は俺たちを止める役だったのかもしれねえ」
「他が箱取る?」
「たぶんな」
セリアも少し離れたところから会話へ入った。
「偶然食料の匂いに寄ってきただけ、って可能性もあるけど……倒木まで用意してたなら、少なくとも荷を襲うつもりはあったでしょうね」
「布いらない?」
「売れば金になるけど、魔物がそういうことを考えるかは分からないわ」
「でもご飯見てた」
「そうね」
◆
昼過ぎ、一行は予定より少し遅れて中継拠点へ到着した。
木の柵で囲まれた拠点には複数の倉庫があり、すでに別の輸送隊も何組か来ている。王都の集積所より小規模だが、ここでも食料の袋や木箱が次々と積み替えられていた。
「着いた」
「まだ仕事終わりじゃないぞ」
レオルが言う。
「荷下ろしの確認までだ」
「分かってる」
荷札と箱の数を一つずつ照合していく。
保存食。
薬品。
布。
矢材。
六台分すべて揃っていた。
切られた縄の件も報告し、途中で灰爪鬼に襲われたことを記録へ残す。
◆
拠点の責任者は報告を聞くと、少し険しい顔をした。
「またか」
杏々が反応する。
「また?」
「似たような被害がこのところ何件か出てる」
まとめ役が尋ねた。
「灰爪鬼ですか?」
「種類は一定してない。小鬼の群れもいれば、獣型の魔物もいる。ただ、輸送隊が狙われることが増えた」
「街道に魔物が増えている?」
「それもあるだろうが……」
責任者は積まれた食料を見る。
「妙なのは、荷を持っていかれる時に食料が多いことだ」
杏々も倉庫を見る。
「ご飯だけ?」
「だけ、とは言わん。だが武器や布が残って、保存食の袋がなくなってることがある」
「食べたいから?」
「魔物ならそうかもしれん」
「お腹すいてる?」
責任者は少し困ったように杏々を見た。
「さあな。そこまでは分からんよ」
◆
荷下ろしが終わる頃には、杏々たちの昼食も用意されていた。
出てきたのはまた硬いパンと保存肉だった。
杏々はしばらくそれを見る。
「またこれ」
「輸送拠点で新鮮な肉料理が出てくると思ったか?」
レオルが笑う。
「ちょっと」
「期待してたのかよ」
杏々は保存肉を一口食べた。
やはり硬い。
「帰ったら作る」
「朝も言ってたな」
「もっとおいしいの」
「保存食を?」
「うん」
「できんのか?」
杏々は肉を噛みながら考えた。
「薄くしたら食べやすい」
「まあな」
「塩もこんなにいらないかも」
「減らしすぎたら腐るぞ」
「じゃあ干し方変える」
「もう考え始めてる……」
セリアが苦笑した。
◆
食後、一行は帰路へ向けて短い休憩を取った。
今日は中継拠点の近くで一泊し、明日の朝に王都へ戻る予定だ。
杏々は倉庫の外から、さらに北へ向かう荷車を眺めた。
自分たちが運んできた食料の一部も、いずれあの列に加わる。
その先には兵士がいる。
戦争が続いている。
だから毎日食料が必要になる。
そして途中では、その食料を狙うものまで出始めている。
「ご飯、大事」
杏々が呟いた。
セリアが隣で荷車を見る。
「大事ね」
「取られたら食べれない」
「そうね」
杏々はしばらく考えてから続けた。
「取る方も、お腹すいてる?」
「……かもしれないわね」
「でも取ったらだめ」
「そこは変わらない?」
「うん」
杏々は即答した。
「ご飯盗るの、だめ」
◆
その夜は中継拠点の柵の内側で休むことになり、前日よりずっと警戒は楽だった。
杏々は日記を開き、その日のことを書き込む。
『灰爪鬼 四』
『荷物ねらった』
『追わなかった』
『ご飯とられなかった』
そこで少し考え、
『追ったら後ろから来た』
と書き足した。
今日一番大事だったことは、倒した数ではない。
追わなかったことだった。
その下には日本語で、
『保存肉また硬い』
『薄くする』
『香草入れたい』
『辛いのもいい』
『三日同じはいや』
と、別の問題についてかなり詳しく書いた。
杏々は日記を閉じる。
「帰ったら肉買う」
戦闘の反省より先に、保存食の改良計画が始まっていた。




