まだ決まってない
森爪熊の試作品を確認してから、五日ほどが過ぎた。
杏々の新しい生活も、少しずつ形になり始めていた。
朝起きる。
自分で朝食を作る。
ギルドへ行って仕事を探す。
帰りに市場へ寄り、必要な食材を買う。
家へ帰って料理をして、日記を書く。
最初の数日は、何かするたびに金が減ることが気になっていたが、毎日働けば報酬も入る。塩や香辛料のように、一度買えば何日も使えるものも分かってきた。
城にいた頃とは違う。
けれど、思っていたほど困ってはいなかった。
少なくとも、ご飯は作れる。
◆
その日の午前中、杏々は王都近郊で薬草採取の護衛を終えた。
依頼人をギルドまで送り届け、報酬を受け取る。
「これで完了です」
「うん」
「今日はもう一件受けます?」
「あとで」
「珍しいですね」
「リネットちゃんとこ行く」
「研究ですか?」
「熊」
「……熊なんですね」
受付嬢が少しだけ残念そうな顔をした。
杏々は鞄から一枚の紙を取り出す。
森爪熊を実際に販売する場合の支払いについて、布製品店から預かった書類だった。
杏々でも数字と短い単語ならある程度読めるようになったが、こういう契約に使われる文章はまだ難しい。
「これ長い」
「そうでしょうね」
「リネットちゃんに見てもらう」
「それがいいと思います。分からないまま署名しないでくださいよ」
「しない」
杏々はそう答えてから、少し考えた。
「家の時も見てもらった」
「そうですね」
「リネットちゃん便利」
「本人の前でその言い方しないでくださいね」
◆
王宮魔術院へ着くと、いつもの研究室は以前より少し騒がしかった。
知らない研究員が二人、古い書類を抱えて出入りしている。
机の上にも、杏々が前に来た時より資料が増えていた。
「リネットちゃん」
「はい――あ、杏々さん」
リネットが顔を上げる。
「今日はどうしたんです?」
「これ」
杏々が紙を差し出した。
「研究じゃないんですか?」
「熊」
「熊……?」
紙を受け取って読み始めたところで、リネットが納得した。
「ああ、森爪熊の商品化の件ですね」
「売れたらお金もらう」
「そういう契約みたいですね」
「どっちがいい?」
「何がです?」
「売れたら少しずつと、最初にまとめてもらうの」
「いきなり結論を求めないでください。まず全部読みます」
「うん」
杏々は近くの椅子へ座った。
◆
リネットが書類を読んでいる間、杏々は机の上を眺めていた。
以前見た古い召喚記録もある。
年代の違う資料。
複写された古文書。
何かを比較した表。
そして、その中に見覚えのある紙束があった。
「これ、前の?」
「触らないでくださいね」
「触ってない」
「杏々さん、手を伸ばしてるじゃないですか」
杏々は手を戻した。
「召喚のやつ?」
「はい。前に話した報告書です」
「出した?」
「出しましたよ」
「どうだった?」
リネットの動きが少し止まった。
「……戻ってきました」
「だめだった?」
「そういう意味ではありません」
リネットは熊の契約書を一度机へ置き、自分の報告書を取り上げた。
◆
「研究班の主任と、その上の研究官にも読んでもらいました」
「うん」
「過去の勇者召喚について、現在一般に考えられている『魔王や大きな敵を倒すために戦士を呼ぶ術』という説明だけでは、古い記録と合わない例が複数ある。それ自体は興味深い、と」
「じゃあ合ってる?」
「そこなんですよ」
リネットが少し困ったように眉を寄せる。
「今ある資料だけでは、そう断定できません」
「なんで?」
「過去の記録が少なすぎるからです」
杏々は首を傾げた。
「あるよ?」
「あります。でも、残っているものだけを選んで見た結果かもしれないんです」
「?」
リネットは少し考え、言い方を変えた。
「例えば、百人分の記録があったとして、そのうち十人分しか残っていなかったとします」
「うん」
「その十人が全員、戦争とは関係ないことをしていたとしても、失われた九十人が全員戦士だった可能性は残りますよね」
「ある」
「だから、今残っている資料だけで『勇者召喚は戦士を選んでいなかった』とは言えません」
「じゃあもっと探す?」
「そういうことです」
◆
リネットは報告書の端に書かれた細かな書き込みを見せた。
「それから、時系列ももっと詰める必要があります」
「じけいれつ」
「召喚された人が何をしたかだけじゃなくて、その人が呼ばれた時に世界で何が起きていたか。召喚の前と後で、何が変わったか」
「原因?」
「はい」
杏々にもその言葉は分かった。
「たまたまかも」
「そうです」
リネットが少し嬉しそうに杏々を見る。
「以前よりこういう話が早くなりましたね」
「褒めた?」
「……今のは褒めました」
「一回」
「研究の話をしてるんですよ」
「でも褒めた」
「そうですね」
◆
「だから、却下されたわけではありません」
リネットは続けた。
「むしろ、追加で調べる許可が出ました」
「お」
「古い記録を管理している書庫のうち、見習いだけでは閲覧できなかった区画にも、主任同伴なら入れるようになりました。それと、古文書を専門にしている研究員にも何件か確認をお願いしています」
「人増えた?」
「少しだけです」
杏々が部屋の入口を見る。
先ほど資料を持って出ていった二人を思い出した。
「さっきの人?」
「一人は別件です。もう一人は手伝ってくれています」
「リネットちゃんの研究?」
「まだ『私の研究』と言うほどではありませんよ」
「でも始めたのリネットちゃん」
「……まあ、それはそうですけど」
少し照れたように眼鏡を直す。
◆
「何探すの?」
「まずは、召喚された人物そのものの記録ですね」
リネットは別の紙を広げた。
「戦士だったのか、魔術師だったのか。それとも全然違う人だったのか」
「料理人とか?」
「いるかもしれません」
杏々が少し興味を示した。
「ご飯変えた人?」
「そこに反応しますか」
「大事」
「でも、そういう人がいてもおかしくないんです」
リネットは資料の一つを指した。
「今分かっている範囲でも、大規模な疫病が収束した時期に召喚された人、都市国家間の争いが終わった時期にいた人、それから大洪水の復旧記録に名前が出てくる人がいます」
「戦ってない?」
「少なくとも、残っている記録には大きな戦闘の話がありません」
「じゃあ何したの?」
「それを探しています」
◆
杏々は少し考えた。
「私も?」
「はい?」
「私、何するために来た?」
リネットが黙る。
「それが、今一番知りたいことです」
「魔王倒すじゃない?」
「王国はそういう目的で召喚術を使いました」
「でも私魔法ない」
「ありません」
「勇者の力もない」
「少なくとも、想定されていた形ではありません」
「でも召喚は成功」
「そうなんです」
そこがずっと引っかかっている。
術式そのものは成功した。
召喚対象も正常に世界を越えている。
言語補正も働いた。
術式の主要部分に破綻はない。
なのに、現れた杏々は魔力を一切持っていなかった。
◆
「それに」
リネットが杏々を見る。
「杏々さんの身体のこともあります」
「小さい?」
「それもです。正確には、小さくしていることですね」
「うん」
「魔法ではない。魔力も使っていない。それなのに、本来の身体をこれだけ大きく変えた状態で維持できる」
「できるよ」
「普通はできません」
「知ってる」
「最近ようやくそれ言うようになりましたね」
「いっぱい言われたから」
リネットは苦笑した。
「召喚術が魔力の大きい人物を選んだわけではない。強力な魔法を使える人物でもない。だからといって、杏々さんが弱いわけでもない」
「強いよ」
「そこは自覚あるんですね」
「ある」
「……ええ。知ってます」
◆
「今のところ」
リネットは資料をまとめながら言った。
「召喚術が何を基準に杏々さんを選んだのか、まったく分かっていません」
「まだ?」
「まだです」
「一月くらいやってる」
「研究を何だと思ってるんですか」
「探したら見つかる?」
「そんな簡単なら研究者はいりません!」
杏々が少し考える。
「じゃあもっとやる?」
「やります」
即答だった。
「主任からも、現時点では結論を急がずに資料を集めろと言われています。仮説に都合のいい記録だけ拾ってはいけない、と」
「ふーん」
「正しい指摘なんですよ」
「怒られた?」
「怒られてません!」
「そっか」
「……少し厳しくは言われましたけど」
「怒られた?」
「違います!」
◆
そこでリネットが、ようやく森爪熊の契約書へ戻った。
「さて。杏々さんの熊です」
「うん」
「こちらは研究より簡単ですね」
「よかった」
「杏々さんが最初にまとめて受け取る方式と、売れるごとに受け取る方式のどちらを選ぶか、という話ですが……」
リネットが数字を確認する。
「最初の試験販売なら、売れた分に応じて受け取る方でいいと思います」
「なんで?」
「売れなければ大きなお金にはなりません。でも、売れた場合はこちらの方が杏々さんに入る金額が多くなる可能性があります」
「いっぱい売れたらいっぱい?」
「はい」
「じゃあそれ」
「決めるの早いですね」
「いっぱいの方がいい」
「売れなかった場合は少ないんですよ?」
「売れなかったら仕方ない」
リネットが少し驚いたように見る。
「意外と割り切ってますね」
「熊作ったの私だけど、売るの店だから」
「……そうですね」
「売れたら嬉しい」
「お金が?」
「それも」
杏々は少し考えた。
「知らない人が熊持つ」
リネットの表情が少し柔らかくなった。
「それも嬉しいんですね」
「うん」
◆
リネットは契約書の重要な部分を杏々へ一つずつ説明した。
一体売れた場合に受け取る金額。
試験販売の数。
売れ残った場合の扱い。
杏々自身が追加で作る義務はないこと。
商品の製造責任は布製品店側にあること。
「ここ、大事です」
「作らなくていい?」
「はい。杏々さんが一匹ずつ作る契約にはなってません」
「よかった」
「そんなに嫌なんですか?」
「自分の作る」
「自分の?」
杏々が止まった。
「……なにがです?」
「なんでもない」
「杏々さん」
「なに?」
「今、何か作ってるんですか?」
「うん」
「何を?」
杏々は少し考えた。
「まだ途中」
「それは答えになってませんよ」
「できたら見せる」
「気になるんですけど」
「まだだめ」
リネットは何度か聞こうとしたが、杏々は教えなかった。
◆
説明を終えると、杏々は自分で名前を書く。
家の契約をした時より、少しだけ迷わず書けるようになっていた。
リネットが確認する。
「大丈夫です。ちゃんと読めます」
杏々が見る。
「二回目?」
「……はい。今日二回目です」
「お」
「研究より嬉しそうですね」
「褒められるの嬉しいから」
「知ってます」
◆
帰る前に、杏々は研究室の資料をもう一度見た。
「リネットちゃん」
「はい?」
「これ、いつ分かる?」
「召喚のことですか?」
「うん」
「分かりません」
「そっか」
「数か月かもしれませんし、もっと長いかもしれません。最後まで全部は分からない可能性だってあります」
杏々は特に落胆しなかった。
「じゃあ分かったら教えて」
「もちろんです」
「帰れるのも?」
リネットの手が止まる。
「……はい」
少しだけ間を置いてから答えた。
「それも、調べています」
「そっか」
杏々はそれ以上聞かなかった。
「じゃあ仕事行く」
「今からですか?」
「午後まだある」
「相変わらずですね」
「家のお金いる」
「熊のお金も入るかもしれませんよ」
「まだ売れてない」
「確かに」
「だから働く」
杏々は剣を確認し、研究室を出ていった。
◆
残されたリネットは、しばらく閉じた扉を見ていた。
それから机へ戻る。
召喚術の資料。
過去の勇者についての断片的な記録。
そして、自分の報告書。
最初に書いた時より、赤い書き込みが増えている。
証拠不足。
母数不明。
因果関係未証明。
比較対象不足。
どれも間違った指摘ではなかった。
だから、調べるしかない。
リネットは新しい紙を一枚取り出し、次に確認するべき資料を書き始めた。
杏々の召喚が失敗ではなかったのなら。
勇者という言葉そのものを、自分たちが間違って理解しているのだとしたら。
まだ、決まっていない。
だからこそ、調べる意味がある。
◆
一方その頃、杏々はギルドへ戻っていた。
「午後からできるのある?」
「ありますけど、魔術院はどうでした?」
「熊、売れたらお金もらう」
「決まったんですね」
「うん」
「研究の方は?」
「まだ決まってない」
「何がです?」
杏々は少し考えた。
「私がなんで来たか」
受付嬢が一瞬言葉を失う。
「……かなり大きな話ですね」
「うん」
「気にならないんですか?」
「気になるよ」
「でも仕事するんですね」
「今分かんないから」
杏々は掲示板を見る。
「これは分かる」
指したのは、王都近郊まで荷物を運ぶ護衛依頼だった。
「仕事したらお金もらえる」
「それは分かりやすいですね」
「うん」
召喚された理由は、まだ分からない。
森爪熊がどれだけ売れるかも、まだ分からない。
けれど、今日受けられる仕事と、その仕事でいくらもらえるかは分かる。
杏々は依頼書を取った。
分からないものは、分かるまで待てばいい。
その間にも、お腹は空くし、家賃の日は近づいてくる。
「これ行く」
「はい。気をつけてくださいね」
「うん」
杏々は今日も王都を出た。




