売る熊
朝食を食べ終えた杏々は、皿を洗ってから家を出た。
家で迎える最初の朝だったが、特別にゆっくりするつもりはない。卵とパンを食べ、昨夜の煮込みの残りも少し温めて腹へ入れたところで、いつものように剣を腰へ下げた。
ただ、向かう先は依頼の掲示板ではない。
「熊できた」
誰に言うでもなく呟き、西市場から冒険者ギルドへ向かう。
森爪熊の試作品。
フィアに渡した最初の一体を見た布製品店の職人が、売り物にできる形へ作り直していたものだ。
最初の熊は売らない。
それは決まっている。
今回できたのは、それとは別の熊だった。
◆
ギルドへ着くと、受付嬢はすでに話を聞いていた。
「あ、杏々さん。おはようございます」
「おはよう。熊」
「朝の挨拶より先に熊ですか」
「挨拶したよ」
「そうでしたね」
受付嬢は苦笑しながら、カウンターの奥に置いてあった紙を取り出した。
「布製品店の方から、今日ならいつ来ても大丈夫だそうです。ただ、できればフィアさんにも一緒に見てほしいとのことでした」
「最初の熊?」
「比較したいんでしょうね」
「フィアいる?」
「今日は午前中の依頼を取ってませんから、もう少ししたら来ると思いますよ」
杏々は頷いた。
「待つ」
「その間、依頼見ます?」
「見る」
すぐにいつもの掲示板へ向かう。
待つだけでは仕事にならない。
◆
黄ランク向けの依頼を見ていると、少し離れた掲示板に新しい紙が何枚か増えていることに気づいた。
「これ何?」
杏々が指す。
受付嬢も視線を向けた。
「物資輸送ですね。北西方面へ送る保存食と布、それから矢材の護衛です」
「報酬高い」
「距離がありますからね。それに、こちらは赤ランク以上を含む複数人向けです」
「黄だめ?」
「この依頼は駄目です。最近、街道沿いで荷を狙う動きが増えているので、長距離輸送は条件が厳しくなってます」
杏々は依頼書を見る。
長い文章はまだ全部読めないが、報酬の数字と、赤を示す印は分かる。
「ご飯運ぶ?」
「保存食が中心ですね」
「盗られる?」
「そうならないように護衛する依頼です」
「ふーん」
杏々は少しだけその紙を見たあと、黄ランクの掲示板へ戻った。
受けられない仕事をいつまでも見ていても仕方がない。
ただ、以前よりも食料を運ぶ依頼が増えていることだけは、なんとなく覚えておいた。
◆
しばらくすると、フィアがギルドへ入ってきた。
肩から下げた袋の形を見るだけで、中に何が入っているのか杏々には分かった。
「熊」
「おはようくらい言え」
「おはよう」
「順番が逆だ」
フィアは袋を軽く持ち上げる。
「これ持ってこいって言われたんだろ?」
「うん」
「朝から熊抱えて歩いてくることになるとは思わなかった」
「いつも家にいる?」
「置いてある」
「ちゃんと?」
「ちゃんとってなんだ」
「座ってる?」
「……棚に座らせてある」
杏々が少し嬉しそうに頷く。
「じゃあ行こ」
「聞いといてそれだけかよ」
◆
布製品店へ着くと、前回と同じ職人が奥から出てきた。
「ああ、来たね」
「熊できた?」
「できたよ。まず見な」
作業台の上に置かれた布をめくる。
その下から、一体の森爪熊が現れた。
杏々とフィアが同時に黙る。
森爪熊ではある。
短い脚。
丸い胴体。
小さくした爪。
少し不機嫌そうな口元。
けれど、フィアの持っている一体とは微妙に違った。
最初の熊より、ほんの少し形が整っている。
左右の脚の長さも揃っていて、耳の位置も同じ。胴体の丸さも一定で、縫い目も綺麗だった。
「どうだい?」
職人が聞く。
杏々は近づき、正面から見る。
横から見る。
少し離れる。
「……違う」
「どこが?」
「かわいいけど」
「けど?」
杏々は熊を指した。
「顔、いい子すぎる」
「そこかい」
フィアも見比べる。
「確かに、こっちはちょっと愛想がいいな」
「森爪熊、そんな顔しない」
「本物基準なのかよ」
「熊だから」
◆
職人は紙と炭筆を持ってきた。
「前の打ち合わせで、目を大きくしすぎると別物になるって言ってたね」
「うん」
「だから小さくしたんだけど、売り物にするなら少しくらい可愛げがあった方がいいと思って、目尻を丸くした」
「ここ」
杏々が目元を指す。
「ちょっと下げる」
「こう?」
「下げすぎ」
「難しいねえ」
「眠そうになる」
フィアが横から笑う。
「お前、本当に熊の顔には細かいな」
「見たから」
「生でな」
「近かった」
「その話は広げるな」
職人は二人の会話を聞かなかったことにして、目の形を描き直した。
「これなら?」
杏々が少し考える。
「うん。ちょっと嫌そう」
「可愛いぬいぐるみの感想とは思えないね」
「そこがいい」
「まあ、あんたの熊だからねえ」
◆
次に杏々は腹を押した。
「ここ硬い」
「分かるかい?」
「うん」
「形を揃えるために、前のより少し詰め物を増やしたんだよ。その方が作る人による差が出にくい」
「でも抱いたら硬い」
フィアが試作品を持ち上げ、腹を軽く押す。
「確かに。俺のよりちょっと硬いな」
「そっちは杏々が場所ごとに詰め方変えてるからね。全部同じにやろうとすると手間がかかりすぎる」
杏々は試作品の腹を何度か押した。
「真ん中だけ減らす?」
「外側はこのまま?」
「うん。形残る。中ふわふわ」
職人が少し考える。
「二種類に分けて詰めれば、それくらいならいけるかもしれないね。細かく場所を変えるよりは簡単だ」
「それがいい」
「分かった。次で試そう」
◆
「あと爪」
「まだあるのかい?」
「短い」
「前に短くしろって言ったのはあんただろ」
「短すぎ」
職人が額を押さえた。
「ちょうどいいところが細かいねえ」
杏々はフィアの熊を借り、二体を並べた。
「こっちくらい」
「それじゃ少し長い。子供が引っかける」
「じゃあ間」
「最初からそう言いな」
「今見たから分かった」
職人は溜息をつきながらも、爪の長さを書き留める。
フィアがぼそっと言う。
「楽しそうだな」
「誰が?」
「二人とも」
「仕事だよ」
「そう?」
「そうだよ」
職人の返事の方が早かった。
◆
ひと通り確認すると、職人は試作品を作業台へ戻した。
「大きく直すところはなさそうだね。顔と腹、それから爪。そこを変えて、もう一体作る」
「まだ売らない?」
「次が問題なければ、少ない数だけ店に置いてみるつもりだよ」
「何匹?」
「まず五つか、多くても十だね」
「少ない」
「売れるか分からない物を百個作る馬鹿はいないよ」
「そっか」
「布も詰め物も金がかかるんだからね」
杏々は改めて試作品を見る。
フィアの一体だけだった森爪熊が、店に並ぶものになろうとしている。
「同じ熊いっぱいになる?」
「まったく同じにはならないよ。手で作るんだから多少は違う。でも、同じ商品だって分かる程度には揃える」
「フィアのは?」
「そっちは別物だよ」
職人がすぐ答えた。
「最初の一体は型もない、杏々が手で合わせながら作ったもの。売り物の方はあれを元にしてるけど、作り方そのものが違う」
杏々は頷く。
「じゃあフィアの最初」
「だからそう言ってるだろ」
フィアが熊を袋へ戻しながら言った。
少しだけ機嫌がよさそうだった。
◆
「それと」
職人が今度は別の紙を取り出した。
「今日はもう一つ話がある」
「なに?」
「金の話」
杏々の反応が少し早くなる。
「お金?」
「そこだけ分かりやすいねえ」
職人は苦笑した。
「この熊を売る話をした時、まだ商品になるかどうかも分からなかったから、金の話は後にしてただろ?」
「うん」
「試作品まで形になった。次で問題なければ実際に店へ出す。だから、その前にあんたの取り分を決めときたい」
杏々が職人を見る。
「私の?」
「元の形を作ったのはあんただし、今回も直すところを出してる。何も払わずに使うわけにはいかないよ」
「でも熊作るのそっち」
「商品にするのはこっちの仕事。元になる形を出したのはあんた。別の仕事だよ」
杏々は少し考えた。
よく分かっていない顔だった。
◆
フィアが横から紙を覗く。
「どういう払い方になるんだ?」
「まず、今回の試作と商品用の形を作るための協力分として、最初にこれだけ」
職人が数字を指した。
杏々も覗く。
読める。
「これもらえる?」
「ああ」
「今?」
「話に納得したらね」
杏々は数字を見た。
冒険者の依頼一回分よりは少ない。
ただ、何も討伐していないし、荷物を運んでもいない。
熊を見て話しただけである。
「熊見ただけ」
「前に最初の熊作っただろ」
「うん」
「今日もあれこれ直しただろ」
「うん」
「それに払うんだよ」
「お」
少し理解した。
◆
「それから実際に店へ置いて、売れた場合」
職人は続ける。
「一つ売れるごとに少しずつあんたへ回す形にするか、それとも最初にまとめて一定額を払って、あとはこっちで売るか。まだそこは決めてない」
「どっちが多い?」
「売れれば前の方。売れなければ後ろの方」
「むずかしい」
「だからギルドにも間に入ってもらうよ。あんた、まだこういう書類全部一人じゃ読めないだろ」
「長いの無理」
「知ってる。勝手に決めさせる気はないよ」
フィアが言う。
「リネットにも見てもらえばいいんじゃないか?」
「見る」
「いや、お前がじゃなくて」
「リネットちゃんに見せる」
「そうしろ」
◆
職人が小さな袋を杏々へ渡した。
「これは今日までの分。試作協力の金だよ。売れた分については別」
杏々は受け取る。
軽い。
中身を確認する。
「ほんとにお金」
「偽物渡してどうすんだい」
杏々はしばらく袋を見たあと、帳面を出した。
「今書くのか?」
フィアが聞く。
「忘れるから」
「何て書くんだ?」
杏々は少し考え、この世界の文字でゆっくり書いた。
『熊』
その横に、受け取った金額。
さらに少し考える。
『仕事?』
「疑問形なんですか」
いつの間にか後ろから覗いていた受付嬢が言った。
店側との話を確認するために、ギルドから少し遅れて来ていたらしい。
「だって依頼してない」
「冒険者の仕事ではありませんからね」
「じゃあ何?」
「試作品への協力に対するお礼……というより、報酬ですね」
「熊のお金?」
「それでいいと思います」
杏々は『仕事?』を消し、その横へ書き直した。
『熊のお金』
「すごく杏々さんらしい分類になりましたね」
◆
「これで家の金になる?」
杏々が聞いた。
受付嬢は金額を見る。
「家賃全部というほどではありませんけど、助けにはなりますね」
「ご飯は?」
「もちろん、それに使ってもいいですけど」
「お」
「全部食べないでくださいよ」
「家のお金もいる」
「ちゃんと分かってるなら大丈夫です」
フィアが呆れたように言う。
「熊が飯になるのか」
杏々が見る。
「熊は食べないよ?」
「そういう意味じゃねえ」
「森爪熊の肉は食べれるけど」
「さらに違う」
職人が笑い出した。
◆
話を終え、店を出る前に杏々はもう一度試作品を見た。
「次いつ?」
「数日もあれば直せるよ。今度はこっちで確認して、問題なければ少量作り始める」
「売れたら?」
「連絡する」
「売れなかったら?」
「それも連絡するよ」
「そっか」
「売れると思うか?」
フィアが何気なく聞いた。
杏々は試作品を見る。
「かわいいよ」
「そこは自信あるんだな」
「でも森爪熊」
「それも大事なんだろ?」
「うん」
最初の一体を作った時、売ることなど考えていなかった。
フィアが森爪熊の親子を気にしていたから作っただけだった。
それが今は、知らない誰かの家へ行くかもしれない。
杏々にはまだ、その感覚が少し不思議だった。
◆
ギルドへ戻る途中、フィアが聞いた。
「その金、どうするんだ?」
「取っとく」
「珍しいな。食わないのか」
「ご飯も買う」
「結局買うんじゃねえか」
「でも全部じゃない」
杏々は少し考える。
「家のお金減ったから、戻す」
「戻す?」
「家借りて、剣払って、いっぱい減った」
「ああ」
「だから増やす」
「ちゃんと考えてんだな」
「うん」
今までなら、仕事でもらった報酬は冒険者として働いた結果だった。
今日は違う。
熊を作った。
話した。
それがお金になった。
杏々は歩きながら、もう一度袋を触った。
「変なの」
「嫌なのか?」
「嫌じゃない」
「じゃあいいだろ」
「うん」
◆
その日の午後、杏々はいつも通り依頼を一つ受けた。
王都近くの集落まで、小さな荷車を護衛する短い仕事だった。
特に問題も起きず、夕方には報酬を受け取って新居へ戻る。
扉を開ける。
「ただいま」
返事はない。
それでも昨日より自然に言えた。
剣を置き、買ってきた食材を棚へ入れる。
今日の夕食は、市場で安く買えた魚と、昨日残った土玉芋。
魚を焼き始めると、また長屋の廊下へ匂いが漏れた。
少しして、壁の向こうから誰かが、
「今日もいい匂いするねえ」
と笑っているのが聞こえた。
杏々は魚をひっくり返した。
「今日は魚」
聞かれてもいないのに答える。
向こうから、
「分かるよ!」
と返ってきた。
城ではなかったやり取りだった。
◆
食事を終えると、杏々は床へ座って日記を開いた。
今日の冒険者としての報酬。
食費。
そして、それとは別に、
『熊のお金』
と書く。
数字も忘れずに書いた。
少し下には、
『売る熊 もうちょっと嫌そうな顔』
『お腹ふわふわにする』
『爪ちょっと長くする』
と、この世界の文字を混ぜながら書いていく。
その後は日本語で、
『魚 皮ぱりぱり』
『塩もう少し少なくていい』
『芋は昨日の汁つけてもおいしかった』
今日も最後は食べ物の方が詳しくなった。
杏々は日記を閉じる。
冒険者の仕事で得た金。
熊から得た金。
まだ熊が本当に売れるかは分からない。
それでも、王都で暮らし始めた杏々の帳面には、今までなかった種類の数字が一つ増えていた。
「熊のお金」
口に出してみる。
少し考えてから、満足そうに頷いた。
「ご飯にもなる」
結局、そこへ戻るのだった。




