まだやってたの?
北の森の一件がひと段落してから、一月ほどが過ぎた頃だった。
特別対応そのものはすでに終わっていたものの、それで関係者の仕事まで全部終わるわけではない。供給設備の運用をずらしたことで、関係各所への調整や対応に追われていた。また、現地で集めた記録は整理され、試験運用中の数値と照合され、報告書としてまとめ直されたうえで、農業側と魔術院側、それぞれの担当部署へ引き継がれていった。
リネットもその後処理から完全には離れられず、観測結果の整理や報告書の補助、追加確認のために何度か北部農区へ出向いていた。ようやく大半の仕事を引き渡し、自分の机へ積み上がっていた別の資料に手を戻せるようになったのが、ちょうどその頃だった。
一方の杏々は、その一月をほとんど変わらない調子で過ごしていた。
朝になればギルドへ行き、自分で読める範囲の依頼書を確認する。いくつかの言葉なら、もう毎回人に聞かなくても意味が取れるようになっていた。長い文章や見慣れない単語はまだ難しいが、報酬額や集合時間、必要数などの数字については日常で困ることがほとんどない。
仕事を終えれば報酬を受け取り、食費と剣用の金を分けて保管する。注文した剣にはすでに前金を払っているため、今度は完成時に必要になる残りの代金を少しずつ貯めていた。もちろん、そのために食事を減らすという発想は杏々にはなく、まず食べる分を確保して、その残りから貯めるという順番だけは一月経っても変わらなかった。
そんな杏々がその日、午前中の依頼を終えて向かった先は、ギルドでも食堂でもなく王宮魔術院だった。
リネットから、久しぶりに研究室へ来るよう言われていたからだ。
◆
「遅いです」
「ご飯買ってた」
「見れば分かります」
研究室へ入ってきた杏々の手には、焼いた肉と刻んだ葉野菜を平たいパンで挟んだものが残っていた。来る途中の屋台で買ったらしく、包み紙の端には少しだけ肉汁が染みている。
「これ、おいしいよ」
「今日は食事の研究ではありません」
「食べる?」
「話を聞いてください」
「いらない?」
「……一口だけなら」
杏々が差し出したものを、リネットは端から少しだけ齧った。香辛料の効いた肉の脂が柔らかい生地へ染みていて、冷めかけていても十分に美味しい。
「どう?」
「美味しいです」
「うん」
「それで、本題です」
リネットはそう言って机の上を示した。
そこに積まれていたのは、北の森で使っていた観測記録ではない。古い冊子や補修された紙束、それに召喚術式を写した図面がいくつも並んでいた。
杏々はその表紙をしばらく眺め、一つだけ知っている文字を見つける。
「召喚」
「読めるようになったんですね」
「日記に書いた」
「そうでしたね」
リネットは少し嬉しそうに頷いてから、古い冊子を一冊持ち上げた。
「今日から、ようやく本来の研究に戻れます」
「何の?」
「今読んだでしょう。杏々さんの召喚です」
杏々は残っていたパンを一口食べてから、首を傾げた。
「まだやってたの?」
「やってます!」
◆
「私の所属、覚えてますか?」
「魔術院」
「その先です」
「研究」
「何の研究です?」
杏々は少し考えた。
「召喚?」
「そうです」
リネットは深く息を吐いて椅子へ座った。
「北の森の調査も必要な仕事でしたけど、私は元々、召喚術研究班の見習いなんです。現地調査が終わった後も、記録をまとめたり引き継いだりで結局しばらく手が離せませんでしたが、それもようやく一段落しました」
「森の人じゃなかった」
「森の人ではありません」
「長かったね」
「本当に長かったです」
そこはリネット自身も否定できなかった。
「それで、北の森の報告が一段落したあと、研究班の主任からも言われたんです。杏々さんの召喚について、最初から整理し直して提出するようにって」
「怒られた?」
「違います」
「報告?」
「そうです。少なくとも、もう『失敗召喚でした』で片づけていい状態ではないから、根拠を揃えて持ってこいという話です」
「同じじゃない?」
「全然違います!」
リネットは少し呆れた顔をしながらも、内心ではその指示をかなり重く受け止めていた。これまで杏々の召喚について調べていたのは、もちろん所属上の仕事でもあったが、実際にはリネット自身の疑問に引っ張られて進めていた部分が大きい。それを、今度は研究班へ提出する前提で整理することになった。
まだ認められたわけではない。仮説として採用されたわけでもない。
けれど、少なくとも机の上だけで終わる話ではなくなった。
「むしろ、この一月も含めて、最初の頃より材料がかなり増えました。だから一度、召喚直後から整理し直したいんです」
「何を?」
「まずは、召喚そのものが本当に失敗だったのかどうかです」
リネットは一枚の記録を杏々の前へ置いた。
◆
「杏々さんがこちらへ来た時、召喚陣そのものは最後まで正常に完了しています。術式の崩壊もありませんでしたし、対象固定にも明確な失敗はありませんでした。言語補正も働いているので、杏々さんは私たちの言葉を聞いて理解できます」
「文字は無理だった」
「文字は別です。今回使われた召喚術には、そもそも文字を読ませる機能が確認できません」
「不便」
「古代の術者に言ってください」
杏々は少し不満そうにパンを食べながら、机の上の紙を眺めている。
「問題だと判断されたのは、杏々さんの魔力が完全にゼロだったこと。それから、見た目が王宮側の想定していた勇者像と大きく違っていたことです」
「小さかった」
「はい。それで当時は、召喚対象を間違えたとか、術式の最後で何か起きたとか、そういう可能性が疑われました」
「失敗って言われた」
「……言われましたね」
杏々本人は特に気にした様子もなく、残った肉を齧っている。
「でも、南街道の件で分かりました。杏々さんの普段の身体は、本来の身体ではありません」
「小さくしてるから」
「そうです。元の杏々さんは成人した身体を持っている。しかも、その状態へ戻っても魔力はゼロでした」
「ないよ」
「本当に綺麗にゼロなんですよね……」
「ないものはない」
「研究者としては、そこが一番困るんですけど」
◆
リネットは紙の余白へ簡単な図を書いた。
「召喚された直後は、小さな身体だから魔力量を正しく測定できていない可能性も考えられました。でも成人状態でも結果は同じでした。複数の方法で測っても、杏々さん自身が魔力を持っている反応は出ません」
「うん」
「それなのに召喚術は正常に完了している。そして、何の能力もないどころか、身体能力や戦闘能力に関しては一般的な人間の範囲を大きく外れています」
「強い?」
「強いです。そこはもう、疑う余地はないと思います」
杏々が顔を上げた。
「褒めた?」
「今のは研究上の評価です」
「褒めてない?」
「……強いのは立派ですよ」
「一回」
「そこだけ拾わないでください」
杏々は満足したらしく、最後の一口を食べ終えた。
◆
「ともかく、今のところ分かっている事実を並べると、召喚術そのものを失敗と考える方が不自然なんです」
「じゃあ成功?」
「私は、その可能性が高いと思っています」
「勇者?」
「そこが分からないんです」
リネットは一冊の古い資料を開いた。
「私たちはずっと、勇者召喚というのは『魔王や魔王軍を倒せる強い戦士を異世界から呼ぶ術式』だと考えてきました。今回も、その認識で杏々さんを召喚しています」
「私、魔王倒す人だった?」
「王宮側が期待していたのはそうです」
「でも魔力ない」
「ありません」
「じゃあ違う?」
「それを調べたいんです」
リネットは開いた資料の一部を指で示した。
「もし召喚術が正常に杏々さんを選んだのなら、疑うべきなのは術式より、私たちが『勇者とはこういうものだ』と考えている前提の方かもしれません」
杏々は少し首を傾げる。
「前提が間違い?」
「その可能性があります。ただし、今の段階ではそう考えられるというだけです。主任にも、古い記録だけを都合よく拾って結論を作るなと言われています」
「怒られた?」
「注意されただけです!」
「似てる」
「似てません!」
◆
そこでリネットが持ち出したのが、歴代の召喚者について残された記録だった。
現在のアルヴェリア王国で一般に知られている勇者は、強大な魔物や魔王軍と戦った人物が多い。王都の広場に立つ像も、剣や槍を持つ者ばかりで、勇者と聞けば強い戦士を思い浮かべるのが普通だった。
けれど、古い記録まで遡ると、その認識だけでは説明しづらい人物が混じっている。
「この人です」
リネットが一ヶ所を指した。
「百八十七年前に召喚された勇者」
「何した人?」
「詳細はほとんど残っていません。ただ、複数の年代記を照合すると、この人が召喚された時期には大規模な魔王軍との戦争が確認できないんです」
「じゃあ何で呼んだの?」
「それが分かりません」
「勇者ではある?」
「そう記録されています。召喚されたことも、かなり確度が高いです」
「強かった?」
「戦闘記録がほとんどないんですよ」
「戦ってない?」
「少なくとも、今残っている資料からはそう見えます」
杏々は紙へ顔を近づけたものの、細かい文章までは追えず、すぐに諦めた。
「読めない」
「これはまだ難しいですよ」
「じゃあ読んで」
「そのために説明してるんです」
◆
リネットは別の資料を取り出した。
「さらに古い記録には、『西部諸州の病禍が終息した年、勇者は役目を終えた』という一文があります」
「病気?」
「そう読めます。ただし、勇者が病を治したと直接書いてあるわけではありません。前後の記録が欠けているので、偶然同じ時期だった可能性もあります」
「分かんないね」
「はい。だから、これだけで結論は出せません」
さらに別の時代には、複数の都市国家が長く争っていた頃に召喚された勇者がいた。その人物が軍を率ったという記録はなく、数年後の同盟成立を最後に名前がほとんど見えなくなっている。
そして、もっと古い断片には、大河の氾濫が何年も続いていた時代に召喚された勇者の記録まで残っていた。
戦争、病、都市同士の対立、洪水。
それぞれについて勇者が何をしたのかは分からない。記録の欠損が多すぎて、都合よく結びつけようとすれば、いくらでも誤った仮説が作れてしまう。
それでも少なくとも、すべての勇者が「魔王を倒すために呼ばれた戦士だった」と断定するには、古い記録は噛み合っていなかった。
「変ですよね」
リネットが言う。
「今の勇者像と、古い記録が一致しません」
「川の時も勇者?」
「記録上はそうです」
「川、倒した?」
「それが分からないから困ってるんですよ」
「川は倒せないよ」
「普通はそう思いますよね」
◆
杏々が次の資料へ手を伸ばしかけた時、机の端に置かれていた別の紙束が目に入った。
古い召喚記録とは違い、こちらの紙は新しい。表紙には杏々でも読める文字が一つあった。
「報告」
「国境方面から届いたものです」
「魔王軍?」
「はい」
リネットの声が少しだけ低くなる。
北の森の調査をしている間も、その後始末に追われている間も、戦争が止まっていたわけではない。アルヴェリア王国の国境地帯では魔王軍との小規模な衝突が続いており、前線に近い村の一部では住民が後方へ移されていた。
王都の生活が大きく崩れるほど戦況が悪化しているわけではない。防衛線はまだ維持され、街道も多くは使えている。それでも、国境では今も人が戦い、負傷し、死んでいる。
「最近は、補給所や穀物庫を狙った襲撃が増えているそうです」
「ご飯?」
「食料です。兵士へ送る分だけでなく、村で保管していた穀物や家畜を持っていかれた例もあります」
杏々の眉が少し寄った。
「ご飯盗るの、だめ」
「ええ。現地ではかなり困っています」
「食べるのなくなる」
「そうですね」
杏々はしばらく報告書を見ていた。
魔王軍がこの国へ侵攻していること自体は、召喚された時から知っている。ただ、王都で仕事をし、食堂へ行き、北の森を歩いている杏々にとって、戦争はこれまでずっと遠い場所の出来事だった。
今も、その距離が急に縮まったわけではない。けれど、こうして新しい報告を目の前にすると、自分が王都で暮らしている間にも、国境では戦いが続いていたのだと少しだけ実感できた。
◆
「だから、召喚研究を急ぐ理由もなくなっていません」
リネットは古い資料へ視線を戻した。
「王国が杏々さんを召喚した目的は、現在の侵攻を止めることです。杏々さんに魔力がないと分かったからといって、向こうの軍が待ってくれるわけではありません」
「私、戦争行く?」
「今すぐ、という話ではありません」
リネットははっきり答えた。
「少なくとも私は、召喚されたという理由だけで、何も分からないまま杏々さんを前線へ送るべきだとは思っていません。それに、何のために杏々さんが選ばれたのかもまだ分かっていないんです」
「勇者だから、じゃない?」
「その『勇者だから』の意味を、私たちが間違って理解している可能性が出てきたんですよ」
「そっか」
「だから調べます」
リネットは古い冊子を軽く叩いた。
「召喚術が何を基準に人を選んでいるのか。過去の勇者たちは実際には何をしたのか。そして、杏々さんがなぜ選ばれたのか。今まとめている内容は、数日中に召喚術研究班へ提出する予定です」
「提出したら分かる?」
「そんなに簡単なら苦労しません。まずは、続きを調べる価値があると認めてもらうところからです」
「認められないこともある?」
「あります。記録の欠損が多いですし、私の考えが間違っている可能性だってありますから」
「じゃあもっと調べる?」
「そういうことです」
杏々は机いっぱいに広げられた資料を眺めた。
「大変そう」
「誰のことを調べてると思ってるんですか」
「リネットちゃんの研究」
「杏々さんの召喚です!」
◆
それからしばらく、リネットは古い記録を読み上げ、杏々は分かる範囲で話を聞いた。
以前なら文字が並んでいるだけでほとんど意味が取れなかったが、今ではところどころ知っている単語が見つかる。知らない言葉を聞けば、覚えられそうなものだけ帳面へ書き足した。研究内容を完全に理解しているわけではないものの、以前よりは自分で追える部分が増えていた。
夕方が近づいた頃、リネットが大河の氾濫について記された断片をもう一度見直し、考え込むように手を止めた。
「やっぱり、ここが気になります」
「川?」
「はい。この勇者には、魔物を討伐した記録がほとんどありません。それなのに、召喚された時代の大きな問題として残っているのは、何年も続いた大河の氾濫なんです」
「勇者なのに?」
「今の私たちの感覚だと、そこがおかしいですよね」
杏々も少し考える。
「川と戦った?」
「それだと困るんですよ」
「川、強いよ」
「そういう話ではありません」
杏々は首を傾げたが、リネットはもう一度古い記録へ目を落とした。
魔王を倒していない勇者。
病の終息と同じ年に役目を終えた勇者。
都市同士の争いが収まった頃に姿を消した勇者。
洪水が続いていた時代に召喚された勇者。
まだ、これらを結ぶだけの証拠はない。今回まとめた内容を研究班へ出したところで、そのまま受け入れられる保証もなかった。
それでも、リネットの中では一つの疑問が以前よりはっきりした形を持ち始めていた。
「もしかすると」
リネットが静かに言う。
「私たちが思っているよりずっと昔から、『勇者』って、単純に強い人のことじゃなかったのかもしれません」
杏々は机の上の古い記録を眺めた。
「じゃあ何?」
「それを、これから調べます」
「分かったら教えて」
「杏々さんも調べるんですよ」
「私も?」
「あなた自身の話ですから!」
杏々は少し嫌そうな顔をしたが、そのまま帳面を閉じて立ち上がった。
「今日は終わり?」
「今日は、です」
「じゃあご飯」
「さっき食べてましたよね?」
「頭使ったからお腹すいた」
「ほとんど私が読んでたでしょう!」
杏々はすでに扉へ向かっていた。
「今日、何食べよ」
「最後まで聞いてください!」
古い召喚記録の横には、国境から届いた新しい報告書が残されていた。そして、その隣には、リネットが数日後に研究班へ提出するための整理途中の報告書が置かれている。
北の森はひとまず落ち着き、杏々の黄ランク生活も一月の間にすっかり日常へ変わった。仕事をして、金を貯め、文字を覚え、美味しいものを探す毎日は、王都の中では穏やかに続いている。
その一方で、国境の戦争も、杏々が召喚された理由も、まだ終わっていない。そしてリネットの疑問もまた、ようやく一人の見習い研究者の机の上から、研究班へ持ち込まれようとしていた。




