SS 森爪熊のぬいぐるみ
北の森で供給ピークの分散運用が続いていた頃、杏々は夕方のギルドでフィアを見つけた。依頼報告を終えたばかりらしく、フィアは受付台の横で荷物をまとめている。
「フィア」
「ん?」
「これ」
杏々は背負っていた袋へ手を入れ、中から丸い頭と小さな耳のついた灰褐色のぬいぐるみを取り出した。太く短い手足に少し前へ出た鼻先、黒い糸で縫われた目はわずかに不機嫌そうで、両腕で抱えられるほどの大きさだった。
「…………」
「熊」
「それは見れば分かる」
「森爪熊」
「それもなんとなく分かるけど……これ何?」
「フィアの」
「私の?」
「うん」
「なんで?」
「熊、好きそうだったから」
◆
少し前の北の森巡回で、二人は森爪熊の親子らしき足跡を見つけていた。フィア自身は一度も熊が好きだとは言っていない。ただ、親熊と子熊がまだ一緒に行動しているらしいと分かった時、少し嬉しそうな顔をしていた。それを杏々が覚えていただけだった。
「いや、好きっていうか……あの親子が無事ならいいなとは思ったけど」
「同じ?」
「同じではないと思う」
「じゃあいらない?」
杏々がぬいぐるみを引っ込めようとすると、フィアはすぐに手を伸ばした。
「いる」
「いる?」
「いる」
「そっか」
素直に渡された森爪熊を、フィアはしばらく両手で持ったまま眺めた。本物の森爪熊はもっと大きく、爪も長く、正面から出会えば普通の人間が気軽に笑える相手ではない。それなのに杏々の作ったものは、森爪熊だと分かる特徴を残しながら、全体が妙に丸く整えられている。小さめの耳、太い前足、短くした鼻先に、実物より少し膨らんだ腹。触れば見た目より柔らかかった。
「……かわいい」
「うん」
「自分で言うの?」
「かわいくしたから」
フィアはぬいぐるみを裏返し、背中や腹、縫い目や小さな尻尾まで順番に確認していった。
「これ、店で買ったんじゃないの?」
「作った」
「杏々が?」
「うん」
「普通に出来がいいぞ。縫い目もほとんどズレてないし、形もちゃんとしてるし……なんでこんなの作れるんだ?」
杏々は少し考えてから答えた。
「お姉ちゃんだから」
「何の説明にもなってない」
◆
「妹ちゃんいるから」
「妹いるんだ?」
「うん」
「こういうの作ってあげてたの?」
「たまに。服直したりもする」
「服まで?」
「うん。私のも直す」
杏々は自分の袖をつまんで見せた。普段の小さな身体と本来の成人した身体の両方で着られるよう、折り返しや紐の位置を自分で調整している服だ。
「大きい時も着るから」
「……ああ。例の」
「うん。普通の服だと両方で着れないから、折ったり紐つけたりする」
「それも自分で?」
「うん」
「じゃあ裁縫は昔からやってたんだ」
「必要だったから」
「でも、ぬいぐるみは服とは違うだろ」
「形作るだけ」
「その『だけ』が難しいんだよ」
杏々にとって、布を切り、縫い合わせ、中へ綿を詰めて形を整える作業はそれほど難しくなかった。身体操術で自分の筋肉や関節を細かく制御することに比べれば、針を狙った位置へ通し、糸を必要な強さで引く方がずっと単純だった。
「型紙とか使った?」
「ない」
「ないの!?」
「熊見たから」
「見ただけで作ったの?」
「何回か見た」
「そういう問題なのかな……」
◆
フィアはもう一度ぬいぐるみを正面から見た。
「本物よりだいぶ丸くしたな」
「そのままだと怖いから」
「そこは分かってるんだ」
「爪も短くした。長いと抱いた時痛いから」
「ぬいぐるみだからな」
「あとお腹増やした」
「なんで?」
「丸い方がかわいい」
フィアは少し黙ってから、森爪熊の腹を軽く押した。
「……それは正しい」
とうとう笑ったフィアを見て、杏々も満足そうに頷く。
「ありがとう。大事にする」
「うん」
「本当にいいの? これ作るの結構時間かかっただろ」
「そんなに」
「材料代は?」
「余った布。中は古い綿もらった」
「……生活力あるな、お前」
「お姉ちゃんだから」
「それ万能の理由にする気だろ」
◆
本来なら、その日の話はそれで終わるはずだった。フィアがそのまま森爪熊を家へ持ち帰っていれば、杏々が個人的に作ったぬいぐるみが、それ以上誰かの目に留まることもなかっただろう。
けれど、受付嬢が見つけた。
「フィアさん、それ何ですか?」
「これ?」
「はい、それ。かわいいですね」
「……ぬいぐるみ」
「どこで買ったんです?」
「買ってない。杏々に貰った」
受付嬢の視線が杏々へ移る。
「杏々さんが?」
「作った」
「…………作った?」
「うん」
それを聞いていた別の受付職員まで寄ってきた。
「ちょっと見せてもらっていいですか?」
「いいけど」
フィアが渡すと、受付職員は耳を触り、腹を押し、顔を覗き込んだ。
「か、かわいい」
「この顔、少し不機嫌なのが森爪熊っぽいですね」
「爪は短くしてあるんですね」
「抱いた時に痛くない」
杏々が答えると、受付嬢が感心したようにぬいぐるみを見直した。
「そこまで考えてるんですか?」
「ぬいぐるみだから」
「ちゃんとしてる……」
気づけば受付台の周りに人が増えていた。
◆
「何してるんだ?」
依頼帰りの冒険者が覗き込み、受付嬢が森爪熊を少し持ち上げる。
「杏々さんが作ったぬいぐるみです」
「杏々が?」
「うん」
「……妙にかわいいな」
「触る?」
「いいのか?」
「私のだけど」
フィアが少し警戒した顔になる。
「もう所有権主張してる」
「貰ったんだから私のだろ」
森爪熊は何人かの手を渡り、耳を触られ、腹を押され、抱き上げられた。実物なら近づきたくない魔物なのに、丸く整えられた布人形になると印象がまるで違う。
「これ、子ども喜びそうだな」
「部屋に置いてもよさそう」
「森爪熊じゃなくて角兎も作れる?」
杏々が顔を上げる。
「作れると思う」
「角兎なら絶対かわいいですよ」
「牙鼠は?」
「害獣を部屋に置きたいですか?」
「丸くすればいけるんじゃない?」
「川鎧魚とか」
「それ、かわいくなるんでしょうか」
「平べったくしたら抱くやつになるかも」
誰かが言うたびに話が勝手に広がっていき、杏々は少し困ったように周囲を見た。
「いっぱい作るの?」
「いや」
フィアがすぐに遮る。
「杏々に作らせるなよ。こいつ冒険者だぞ。毎晩ぬいぐるみ縫わせる気か?」
「そういうつもりじゃ……」
「私も毎日は嫌」
「でしょうね」
◆
受付嬢は森爪熊を改めて眺めた。
「でも、これくらい可愛いなら売り物にはなりそうですね」
「売る?」
「杏々さんが大量に作るという意味ではありません。布製品を扱っている職人さんに、この形を元に商品用のものを作ってもらう方法もあります」
「同じの?」
「似たものを、ですね」
杏々はフィアの森爪熊を見る。
「これはフィアの」
「これは駄目」
フィアが間髪入れずに答える。
「誰も取りませんよ」
受付嬢は少し考えながら続けた。
「魔物を模した布人形そのものは珍しくありませんけど、こうやって実物の特徴を残しながら可愛く崩したものは、少なくとも私はあまり見たことがありません。森爪熊は一般の人にも名前が知られていますし、子ども向けにも売れるかもしれませんね」
「本物と違う?」
「違います。でも、一目で森爪熊だとは分かります」
「それがいいんじゃない?」
フィアは自分のぬいぐるみを受け取り直し、胸元へ抱えた。
「本物そのままだったら、部屋に置きたくないし」
「確かに」
◆
「売れたら」
杏々が受付嬢を見る。
「はい?」
「お金になる?」
「そこは気になりますよね」
「剣ほしい」
「最近ずっとそれですね」
「あとご飯」
「それもずっとです」
受付嬢は笑ってから、少し真面目に考えた。
「もし本当に商品にするなら、最初の形を杏々さんが考えたわけですから、職人さんとの話次第ではお金を受け取れる可能性はあると思います。最初に見本の代金を貰う方法もありますし、売れた数に応じて少しずつ受け取る形もあるでしょう」
「毎個?」
「そこまでの条件は私には決められません。ギルドの依頼とは別の商売の話になりますから」
「難しい」
「そうですね」
杏々は少し考えた。
「リネットちゃんに聞く」
「またリネットさんの仕事が増えますね……」
◆
もっとも、その場で商品化が決まったわけではなかった。今あるのはフィアのために作った一体だけで、受付嬢も「知り合いの布製品店に話を聞いてみる」程度のつもりだった。
「まずはこの一個ですね。本当に可愛いですけど」
「でしょ」
フィアが少し誇らしげに言う。
「なんでフィアさんが自慢するんです?」
「私のだから」
「作ったのは杏々さんですよ」
「でも私の」
杏々は二人のやり取りを見ながら、フィアに尋ねた。
「気に入った?」
「何回聞くんだよ」
「確認」
「気に入った。かなり」
「そっか」
それだけ聞ければ、杏々には十分だった。
◆
その夜、フィアは自室へ戻ると、森爪熊のぬいぐるみを棚の上に置いた。少し離れて眺めてみたものの、何となく遠い気がして枕元へ移す。そこでも何度か位置を直した末、結局は腕の中へ抱えて寝ることにした。
翌日、ギルドへ来たフィアを見て、受付嬢がすぐに尋ねる。
「今日は熊さんいないんですね」
「家に置いてきた」
「大事にしてるんですね」
「悪い?」
「いえ。昨日あれだけ気に入ってましたから」
「……まあ」
ちょうどそこへ杏々が入ってきた。
「フィア」
「おう」
「熊どう?」
「ちゃんと家にいる」
「一緒に寝た?」
「…………」
「寝た?」
「うるさい」
杏々は少し考えたあと、満足そうに頷いた。
「気に入った」
「だから気に入ったって言ってるだろ!」
◆
受付嬢は笑いながら、杏々へ声をかけた。
「ところで杏々さん。昨日の話なんですが、布製品を扱っている店に知り合いがいるので、今度あのぬいぐるみについて聞いてみましょうか?」
「売る?」
「売れるかもしれない、くらいの相談からです」
杏々は少しだけ考えた。
「私、いっぱい作らない?」
「作らなくていい形にできるか相談します」
「じゃあいい」
「即決ですね」
「私は仕事するから」
「冒険者の?」
「うん」
杏々は依頼掲示板へ向かいかけてから、ふと思い出したように振り返った。
「でも、フィアのは売らない」
「分かってますよ」
「最初のだから」
フィアが一瞬だけ黙り、それから森爪熊を思い出したように少し笑った。
「……そうだな」
「ちょっと縫い目曲がってるけど」
「言うな」
「右の耳の後ろ」
「場所まで言うな!」
受付嬢の笑い声がギルドに響いた。
◆
森爪熊のぬいぐるみが本当に商品として並ぶようになるのは、もう少し先の話になる。
この時の杏々に商売を始めるつもりはなく、フィアが森爪熊の親子を気にしていたから、それを思い出して一つ作っただけだった。自分が可愛いと思う形にして、渡した相手が思った以上に喜んでくれた。それだけでも杏々にとっては十分だった。
けれど、美味しいものを見つければ周囲に人が集まり始めるのと同じように、杏々が可愛いと思って形にしたものにも、本人の知らないところで少しずつ価値が生まれ始めていた。




