SS 杏々の日記
北の森の騒動がひとまず落ち着いた翌日の夜、リネットは杏々の部屋を訪れていた。
理由は単純だった。
「杏々さん、これ昨日渡した資料です」
「うん」
「『うん』じゃなくて、読めるところだけでいいから見ておいてって言いましたよね?」
「見たよ」
「本当に?」
「うん」
杏々は机の上に置かれていた紙を指差した。
「危険、禁止、報告、採取。あと数字」
「……そこまでは読めたんですね」
「分かんないのもいっぱい」
「それでいいんです。少しずつで」
リネットはそう言いながら、杏々の机の上へ目を向けた。
そこには、見慣れない小さな帳面が一冊置かれていた。
「これ、何です?」
「日記」
「日記?」
「うん」
リネットが固まる。
「杏々さん、日記なんてつけてたんですか?」
「つけてるよ」
「いつから?」
「ちょっと前」
「ちょっと前って?」
「三週間くらい」
「そんなに!?」
◆
リネットは驚いた。
杏々が文字の練習をしていることは知っていた。依頼書を見たり、品書きを眺めたり、分からない単語を聞いてきたりすることも増えていた。
けれど、自分から日記まで書いているとは思っていなかった。
「見てもいいですか?」
「いいよ」
「本当に?」
「うん」
「そこは恥ずかしがったりしないんですね」
「なんで?」
「……杏々さんですもんね」
杏々から帳面を受け取り、リネットは最初のページを開いた。
そして。
「…………読めない」
「日本語だから」
「ああ!」
◆
ページの大半は、杏々の世界の文字で書かれていた。
リネットには一文字も分からない。
ただし、その横や下に、ところどころ見慣れた文字が混じっている。
「これは……『森猪』?」
「うん」
「こっちは『護衛』ですね」
「うん」
「数字は……三?」
「それ、ほめ」
「え?」
杏々が帳面を覗き込んだ。
「そこ。『ほめ 三』」
「…………」
リネットはもう一度ページを見る。
日本語で書かれた何か。
その横に、この世界の文字で『森猪』。
その下に金額。
さらに。
数字の三。
「……これ、褒められた回数?」
「うん」
「毎日書いてるんですか?」
「うん」
「なんで?」
「嬉しいから」
あまりにも素直な答えだった。
◆
リネットはページをめくった。
最初の頃は、ほとんどが日本語だった。
ところどころ、この世界の文字が横に添えてある。
杏々に聞きながら読んでいくと、内容はだいたい同じだった。
「これは?」
「ご飯。角兎」
「こっちは?」
「仕事。採取」
「その下の数字は?」
「お金」
「……さらに下の二は?」
「ほめ」
「やっぱりそこもある」
別のページ。
「森猪。おいしい。護衛。成功。お金。ほめ四」
さらに別のページ。
「土玉芋。おいしい。討伐。お金。ほめ一」
リネットは顔を上げた。
「……杏々さん」
「なに?」
「日記ですよね?」
「うん」
「その日にあったこと、食べ物とお金と褒められた回数しか書いてないんですが」
「書いてあるよ」
「何がです?」
「今日あったこと」
「…………」
リネットは少し考えた。
「まあ、杏々さんの日記ですね」
「うん」
◆
ただ。
ページを進めるにつれて、少しずつ変化があった。
最初は日本語の横に一単語だけだった異世界文字が、二つ、三つと増えている。
「採取」
「討伐」
「護衛」
「報告」
「危険」
「禁止」
「森猪」
「角兎」
「牙鼠」
「赤露実」
特に食べ物と依頼に関する文字は、繰り返し何度も書かれていた。
「これ、同じ単語を何回も書いてますね」
「覚えるから」
「練習してたんですか?」
「うん」
「誰にも言わずに?」
「言うこと?」
杏々は不思議そうに首を傾げた。
「……別に言わなくてもいいですけど」
◆
リネットはさらに先へ進む。
そこには、日本語の横にこの世界の文字で、
『報酬』
と書かれていた。
「この字、前より綺麗になってますね」
「いっぱい書いた」
「なるほど」
「お金見るから」
「そこは予想通りです」
さらに『値段』。
さらに『肉』。
さらに『焼く』。
さらに『煮込み』。
リネットは眉を寄せる。
「……料理関係だけ妙に覚えるの早くないですか?」
「いっぱい見るから」
「ギルドの注意書きより?」
「うん」
「即答」
◆
一ページだけ、異世界文字が大きく歪んでいるところがあった。
「これ、何を書こうとしたんです?」
「討伐」
「これ、『討伐』じゃないですよ」
「違う?」
「片方の字が別の字になってます」
「似てる」
「似てても意味変わります」
「読める?」
「一応読めますけど、かなり変です」
「じゃあ直す」
杏々は帳面を受け取ると、その場で横に正しい文字を書いた。
「……手は本当に器用ですよね」
「うん」
「字はまだ慣れてないけど、線自体は綺麗」
「褒めた?」
「え?」
「今の」
「……褒めました」
杏々はすぐに今日のページを開いた。
数字の横に一本追加する。
「一」
「今ので増えるんですか!?」
「増えるよ」
「そんな即時反映なんですね……」
◆
今日のページは、以前よりこの世界の文字が増えていた。
上の方には日本語で長めに何かが書かれている。
その横に。
『黄』
『赤』
『緑』
と並んでいた。
さらにその横に、
『川鎧魚』
『赤角牛』
が書かれている。
「これ、昨日覚えたランクですね」
「うん」
「……なんで『黄・赤・緑』の横に川鎧魚と赤角牛があるんです?」
「赤は川鎧魚。緑は赤角牛」
「そういう意味じゃないです」
「覚えやすいよ」
「まあ……杏々さんにはそうでしょうね」
◆
「ところで」
リネットは少し前のページへ戻った。
「この辺から、急に数字が正確になってますね」
「毎日書いたから」
「金額も?」
「うん」
「足し算もここで?」
「やった」
杏々は別のページを指差した。
日本語で書かれた項目の横に、いくつかの金額が並んでいる。
依頼報酬。
食費。
剣用。
残り。
計算の途中には何度か書き直した跡があった。
「これ……自分で収支つけてたんですか?」
「最近」
「日記というより家計簿になってません?」
「日記だよ」
「食事記録と家計簿と語学練習帳と褒めポイント表が一冊に……」
「便利」
「まあ、便利ではありますけど」
◆
リネットは少しだけ真面目な顔になって、最初のページまで戻った。
最初の頃。
ほとんど日本語しかない。
異世界文字は、一つか二つ。
数字も簡単なものだけ。
そこからページを追うごとに。
読める単語が増えていく。
書ける数字が増える。
金額を計算し始める。
依頼の種類を書けるようになる。
料理名が増える。
そして。
褒められた回数だけは。
最初から毎日ある。
「杏々さん」
「なに?」
「これ、結構ちゃんと勉強になってますよ」
「うん?」
「日本語で意味を書いて、その横にこちらの文字を書くでしょう。それを毎日繰り返しているから、読むだけじゃなくて書く方も覚えてるんです」
「そうなの?」
「自覚なかったんですか?」
「書いてたら覚えた」
「……そうですか」
◆
杏々は机へ頬杖をついた。
「日本語、忘れたくないし」
リネットが少しだけ動きを止める。
「だから日本語で書いてるんですか?」
「うん」
「こっちの文字だけにしないで?」
「うん」
杏々は帳面を見る。
「日本語は読めるから。こっちはまだちょっと」
「そうですね」
「両方書いたら分かる」
「……なるほど」
それは、杏々なりのやり方だった。
元の世界の文字を残しながら。
この世界の文字を、その隣へ少しずつ足していく。
どちらかを捨てるのではなく。
二つを並べて覚える。
◆
「じゃあ」
リネットが言った。
「これから、分からない単語があったら私に聞いてください」
「いいの?」
「もちろんです。日記に書きたい単語なら、書き方も教えます」
「お」
「その代わり」
「なに?」
「ちゃんと間違えた字は直してください」
「うん」
「それと、同じ単語ばかりじゃなくて、少しずつ短い文章も書いてみましょう」
「文章?」
「例えば、『今日は護衛の仕事をした』とか」
「長い」
「短いです!」
「めんどくさい」
「でも書けたら褒めますよ」
杏々の顔が上がった。
「ほんと?」
「はい」
「じゃあ書く」
リネットは目を細めた。
「……やっぱりこれ効くんですね」
「なに?」
「何でもありません」
◆
リネットが帰ったあと。
杏々は机に座り直した。
今日のページ。
日本語で。
『リネットちゃん来た』
その下に、日本語で。
『日記見た』
少し考えてから。
今日教えてもらったこの世界の文字を横に書く。
『日記』
まだ少し形が歪んでいる。
その下。
『字、前よりきれい』
これは日本語。
横には、まだ書ける単語がない。
最後。
『ほめ 1』
杏々はそこで止まった。
少し考える。
リネットは、日記がちゃんと勉強になっているとも言った。
あれも褒めたような気がする。
「…………」
数字を一つ増やす。
『ほめ 2』
杏々は満足そうに帳面を閉じた。
今日も。
ちゃんと二回。
褒められた。




